きみの名と夜を跳べたら - 3
翌朝、僕は何年振りかに早起きをして朝六時きっかりに公園に向かった。幼い頃よく遊んだ公園はそこまでの広さはなく、遊具も数えるほどしかない。普段は子供の姿も多いその場所も平日の早朝となると人の気配はなく、隅に置かれたベンチにさんが座っているだけだった。さんは僕の姿を見るなり「文也くんは絶対遅刻すると思って罰ゲーム考えてたのに」と言って心底残念そうに溜息をついた。
パルクールを始める、とは言えさんは大学のサークルで少しかじった程度の経験しかなく、僕に至っては全くの未経験だ。とりあえずネット上に転がっている動画を見ながら見様見真似でやってみることにした。
まずは地面に埋まっているカラフルなタイヤの遊具。本来であれば上に乗り、飛び跳ねながら移動したりして遊ぶ物なのだろうが、僕たちは動画の真似をして体を縮めながら乗り越える練習をしてみた。タイヤがそこまでの高さではなかったため、すぐにこなせるようになった。
次に使ったのはジャングルジム。足の踏み切りと腕の力だけでテンポ良く上る練習をした。タイヤのような小さな段差とは違い、腕をついたり足場となるスペースがほとんどないため難易度は高そうに見えたが、これも数回やると難なくこなすことが出来た。
他にも階段を使わずに滑り台の足場に上ってみたり、ブランコの周りに設置された柵を乗り越えてみたりと、様々な挑戦をした。ひきこもり生活を続けていて大した運動もしていない僕がこんな簡単に出来るようになるのならば、パルクールはそこまで難易度が高くないものなのかもしれない。そう思いながらさんを見ると、彼女は一番最初のタイヤを乗り越える練習すらまともに出来ていなかった。
「……パルクール、やったことあるって言ってなかったっけ? さん」
皮肉をたっぷり込めた言葉に、さんはこちらを睨みつつ悔しそうな表情をしながらタイヤから距離を取った。助走をつけて飛び越えようとしたその時、足が引っかかりバランスを崩す。顔面から地面に突っ込む直前で手を伸ばし体を支えると、さんは僕の体にしがみつくようにして抱き着いた。衝撃で砂埃が舞い、軽く咳をする。
「あっ、ぶなー……。顔に傷でもついたらどうするの。女の子なんだから気を付けてよ」
そう言うと、さんは小さく「ごめん」と呟いた。抱き留めていた体を離すと、さんは服に着いた砂埃を手で払う。
「てか文也くん、なんでそんな簡単にできちゃうの? パルクールの才能あるんじゃない? 」
舞う砂埃の中でさんが言った言葉が僕には意外だった。先ほどから繰り返している練習はどれもそこまでの難易度ではないように感じる。パルクールを初めてやる僕からすると誰でも簡単に出来るものなのだろうとも思ったが、先ほどのさんの様子を見る限りどうやらそうでもないらしい。
さんが言った「才能がある」は、久しぶりに聞く褒め言葉だった。両親に見放された僕を絵美以外の人間が褒めてくれるなんて、この先一生ないと思っていた。単純だと言われても良い。本当に心の底から嬉しかった。
その日からというもの、僕は一人でパルクールの練習をするようになった。自室で軽い筋力トレーニングもしたし、体力をつけるために走り込みもした。いつもより広い公園に移動して人の少ない早朝や深夜を利用し、小さめの建築物を上る練習や、大きな段差を飛び越える練習もした。さんの言う通り僕には才能があったようで、自分でも分かるくらいあっという間に成長し様々な技術を身に着けていった。本当に心から楽しいと思え、やりがいを感じる時間だった。
数日後の早朝、再びいつもの公園に集まった僕たちは、久しぶりに二人でパルクールの練習をした。上達ぶりを間近で見たさんは予想どおりの驚き顔で、目を丸くしながら瞬きを繰り返し、口を中途半端に開けていた。その表情は間抜けだったがひどく可愛らしくも思えた。
「すごいすごい! 文也くん、本当にパルクールの才能があったんだね! 大会とか出れちゃうんじゃない? 」
さんははしゃぐように体を揺らしこちらに近付く。大会なんて興味はないし出るつもりなんて毛頭ない。パルクールを続け、ここまで出来るようになったのはさんのお陰だ。僕は彼女の笑顔が見たかった。こうして褒めて、笑って、僕の名を呼んでくれるさんの声が聞きたかった。ただそれだけだった。
「絵美が今の文也くんを見たら、きっと喜ぶだろうな。こんなにかっこよくなっちゃってさ」
ふと気が付くとさんの指先が僕の前髪をかき分け、額に触れていた。そういえばあれから髪を切っておらず、また少し伸びてきたため美容院に行く必要があるかもしれない。次に行くときはさんが言っていた通りに明るい色に染めてみようか、なんて考えていると、さんの顔が目の前にあった。
「ま、かっこよくなったっていうか、元々かっこよかったけどね、文也くんは。なんてったって絵美の弟だし」
「そんなに似てないと思うけど、僕たち」
なんとなく絵美の顔を思い浮かべてみる。今この場に鏡がないため自分の顔を確認する術はないが、少なくとも僕には絵美に似ているという自覚はなかった。もし絵美に似ていたとしたら、きっと鏡で自分の顔を見るたびに悲しい気持ちになっているだろう。
「めっちゃ似てるよ。 目元とかそっくりじゃん」
さんは僕の頬に触れ、目の近くにあった髪をかき分けこちらを見つめる。自覚はないものの、大好きな姉に似ていると言われることは嬉しかった。さんの瞳の中に自分の姿が映っているのが分かる。
「ほら、口唇の形とかも……」
冷たい指先が僕の口唇に触れ、目が合いお互いにハッとする。さんの言葉は途中で切れたままその先は聞こえてこない。目線が小さな口唇に吸われ、キスがしたいと、ただそれだけを考えた。
さんの首の後ろ辺りに手を差し込み、自分の方へ引き寄せるようにしながら半ば無理矢理に口唇を塞いだ。正しいやり方なんて知らない。みっともない欲望だけで相手の口唇を貪るようなその行為はひどく不格好だろう。それでも良かった。何度も何度も角度を変え、何度も何度もさんの口唇を甘く噛む。途中、さんは口唇と口唇の隙間で必死に息をしながらくぐもった声を出す。僕の胸元に手を置いて小さな抵抗をしているようだったが、僕にとってはそれすらも気持ちが昂る材料でしかなかった。
「ちょっと、待って文也くん、あの」
「ごめん、無理」
両手でさんの顔を包み、自分の方へ引き寄せて再び口唇を塞ぐ。その時、あることに気が付いた。自分の手に生温い水のような感触がする。目を開いて至近距離でさんの顔を見ると、大きな瞳から涙がこぼれ、頬を濡らしていた。
さんが泣いている。泣き顔を見るのはあの日、絵美の裁判が終わり閉じこもっていた僕をさんが尋ねて来た時以来だ。思わず触れていた手も寄せていた体も放し、ゆっくりと数歩ほど後ずさる。
「そんなに……、嫌だった? 」
小さく呟くと、さんは涙を流し続けながら「違う。嫌じゃない」と口にした。嫌じゃないなら何故そんな悲しそうに涙を流すのか僕には分からない。混乱し何も口に出来ずに居ると、さんは濡れた頬に指先を這わせながら、恐る恐るというようにゆっくりと口唇を開いた。
「私、文也くんに言わなきゃいけないことがあるの。絵美のことで」
何故いまここで絵美の名が出てくるのかが疑問で、僕はますます混乱する。たださんを見つめ眉間の皺を深くすることしか出来ない。
「私、今でも思ってるの。大久保くんが絵美を殺すわけないって。絵美が選んだ人だから、そんなことするはずないって」
「ちょっと待ってよ、いきなり何? どういうこと? さん、大久保のこと知ってるの? 」
そもそも僕はさんが大久保のことを知っていることが初耳だった。親友の恋人であれば知っていてもおかしくはないとは思うが、「大久保くんが絵美を殺すわけない」という考えに至るほど、さんと大久保が親しかったということなんだろう。しかしそんな話は聞いていない。
さんは濡れた頬を何度も拭っていたが、涙はとめどなく溢れ続けていた。彼女の表情を見た時、先の言葉を聞くことが恐ろしいと感じた。これからの僕たちが壊れてしまうような、そんな予感がした。
「絵美に……、絵美に大久保くんを紹介したのは、私なの」
震える声が耳に届く。僕は何も言えず、ただその場に立ち尽くし目の前だけを呆然と見つめた。僕の前には涙を流すさんが居るのに、まるで視界が真っ暗になったような気分だった。
絵美に大久保を紹介したのはさん。つまり絵美と大久保が恋人同士になった要因のひとつにさんの存在があるということだ。さんと大久保は以前から顔見知り、もしくは長い友人関係だったのかもしれないが、今はそんなことはどうでもいい。つまりさんは、絵美が死んだ原因の一部が自分であるとの罪悪感を持っているんだ。その上で大久保のことを友人として今でも信じている。大久保が絵美を殺すわけないと。その事を今になって僕に告げたのは罪悪感に耐えられなくなったからなんだろう。
「僕を気遣ってたのも……、そういうフリ? 罪の意識から逃れるために僕を利用したの? 遺族だから? 絵美の弟だから? 」
「違うよ。私は本当に文也くんを大切に思ってた。これからも一緒に居たいって思ってる」
さんの言葉は耳には入ってくるものの、頭には入ってこなかった。さんが大久保と友達だったとか、絵美に大久保を紹介しただとか、大久保の無実を信じているとか、そんなことはどうでもよかった。それよりも僕を抱き締めたあの腕が、差し伸べられた手が、全て偽善に思えた。いままでのことは愛なんかではなくただの罪悪感だったんだと。ひどく悲しくて、胸が張り裂けそうだった。僕はさんに愛されていると思っていたけど、それは違った。僕はさんが好きだったけど、きっとさんはそうじゃない。
「僕、前に、ずっと傍にいて欲しいって言ったよね。あれ取り消すよ。もう二度と僕に関わらないで」
それだけを吐き捨て、さんの表情を確認することもせずに、背を向けて走り出した。僕の名を叫ぶさんの声が聞こえたが、立ち止まれなかった。いま立ち止まって彼女の顔を見てしまったら、きっとなにもかもを許してしまうような気がしたから。
間抜けな僕は何も知らないまま彼女に恋をした。手を差し伸べられて優しく抱きしめられて、絆されてしまった。もっと名前を呼ばれたい。もっと褒められたい。もっと必要とされたい。もっと一緒に居たいだなんて思ってしまった。それはきっと許されないことだったんだ。
どんなに理不尽なことが起きても、どんなに悲しいことが起きても、いつだって世界は僕を置いてけぼりにして回り続ける。こんな社会くそくらえだ。そう思ってもこの社会からも絵美の死からも、さんへの想いからも、このまま一生逃げられないんだろう。
僕はそのまま家を出て、二度と戻らなかった。