きみの名と夜を跳べたら - 8
たった一発顔面に蹴りを入れられただけで崩れ落ちた男は、意識はあるもののしばらく経っても立ち上がりそうになかった。彼の頭に死なない程度の蹴りを入れ気絶させると、近くに落ちていたカーテンの残骸のような布を使い、手足を縛りあげる。先ほど匿名で通報を入れたため、あとは警察がなんとかしてくれるだろう。
力なく倒れ込んだままのさんの体を横抱きにして持ち上げると、僕はそのまま雑居ビルを後にした。窃盗団のアジトに戻っても良いかと思ったが、クロウにさんの件でとやかく言われそうな気がしたので、ひとまず小さな公園に避難することにした。
深夜だったため公園に人の姿はなく、ベンチにさんを寝かせると、仮面を外して近くにあったPOPPOに駆け込む。そこで消毒液、絆創膏、ガーゼなどの応急処置が出来そうな物を買い、すぐに公園に戻った。
さんはベンチに座ったまま背中を丸め俯いており、その様子が寒さに震えているように見えたため、自分のジャケットを脱いでさんの肩にかけた。さんは僕を見上げ「ありがとう」と小さく呟く。
仮面を外した素顔で顔を合わせるのはこれが初めてのはずなのに、そんな気がしなかった。さんは僕の顔をジッと見つめてきて、耐えきれなくなった僕は視線を振り切るようにさんの隣に腰をかける。古いベンチがギシギシと不快な音を響かせた。
「いつから……、僕が文也だって気付いてたの? 」
先ほど買ってきた応急処置の道具をビニール袋から取り出しながら、独り言のように呟く。
「初めから……、なんとなくそうじゃないかなって思ってた」
「え!? 」
返答があまりにも予想外で驚き、思わず大きな声をあげてしまった。手にしていた消毒液をうっかり落としそうになり、さんは目を細め、フフ、と声に出して笑う。
「仮面してたし、正体を知られたくないって感じに見えたから言わなかったけど、声と仕草が私の知ってる文也くんだった。だからもしかしたらって思って」
初めから気付かれていたなんて全く分からなかった。なんだか一人踊らされていたような気分になる。僕はさんの顎を優しく掴んで上を向かせると、消毒液を沁み込ませたガーゼを殴られた傷の残る頬に優しく這わせる。傷にひびくのかさんは微かにまぶたを震わせた。まるで恋人同士がキスでもするかのような距離の近さに心臓がうるさい。
僕がさんの前から姿を消す直前、同じように公園で一緒に過ごしたことを思い出す。運動不足だからとパルクールの練習をして、僕はさんに褒められたのが嬉しくて調子に乗って一人で練習をし、そして我慢できずに彼女にキスをした。思えば、あれが僕たちが離れるきっかけになってしまったのかもしれない。
「私、どうしてももう一度文也くんに会いたかった。絵美のことも大久保くんのことも謝りたくて……、私はただ本当に心から文也くんが大切だって、あなたが好きだって、伝えたかった」
自分の中の考えがまとまっていないのか、さんの言葉は途切れ途切れだった。それでも僕には分かる。この人は、さんはただ僕に謝りたくて、ただ僕に好きだと伝えたくて、そのためだけに神室町に留まり僕を探してくれた。血が滲んでいるさんの口元に絆創膏を貼った。そのまま指先が口唇に触れ、僕たちの目が合う。
「ごめん……、ごめんね、さん」
口にした謝罪の言葉は、僕のせいでさんを危険な目に合わせてしまったという申し訳なさからだった。小さな肩を引き寄せ、背中に手を回して強く抱きしめると、さんは「どうして文也くんが謝るの」と涙声で言う。
「僕だって同じだよ。ずっとさんに会いたかった。一日だって、一秒だって忘れたことなんかない」
さんの肩が微かに震えているのが分かった。つられるように目の奥が熱くなり、涙が出そうになるのを堪える。抱き締めている腕を緩めながらさんの頬に触れると、案の定そこは涙で濡れていた。自分の額とさんの額を合わせながら、キスがしたいと、ただそれだけを考える。
「僕もさんのこと、好きだよ。ずっと前から、今でも」
あの日、さんに別れを告げた時のように深く口唇を重ねると、口の中に鉄の味が広がった。それは恐らくさんの血で、本来であれば不快に感じるはずの味も、今の僕には心地良くてたまらなかった。
詐欺グループのボスが逮捕されたと聞いたのは翌日のことだった。他のメンバーたちも芋づる式で見つかったらしく、あのグループが再び悪事を働くことも、今後さんが狙われることもないだろうと思われた。
僕は相変わらず窃盗団に所属し義賊というポリシーを持ち続けたまま盗みを働いた。それをさんは近くで見ていたが、僕に対して何かを言うようなことはなかった。
ある日の夜。僕はビルの屋上に上りネオンが光り輝く眠らない神室町を見下ろしていた。今度はどこへ盗みに入ろうかと考えながら視線を流していると、どこからともなく酔っ払いの下品な怒号や、見知らぬ誰かが言い争って喧嘩をしているような声も聞こえてくる。この街はこの先も永遠に変わらないんだろう。弱者の涙を糧として生きているクズのような人間が溢れている。たとえ僕がいくらあがこうとそれは変わらない。
背後に人の気配を感じ振り返ると、さんが居た。挨拶の代わりなのか軽く片手を上げ、ゆっくりとこちらに近付いてくる。さんは僕の横へつき同じように夜の神室町を見下ろすと、小さな溜息をついた。
「大久保くんを弁護した八神隆之って人、法廷に戻ってきたんだって。殺人犯を無罪にしたってネットニュースで見た」
なんの前触れもなく話題を出され、思わず心臓が跳ねた。八神さんのニュース自体は僕も知っている。神室町で起きている連続殺人事件のうちの一つの容疑者にヤクザのカシラが浮上し、裁判で無罪を勝ち取ったのだという。
無罪。その事実に僕は絵美と大久保新平のことを思い出した。もしも八神さんが法廷に戻る意思を持っているのならば、僕はあの人を追うべきなんだろう。八神さんが絵美のことを過去のことだと流し、弁護士に復帰するというのならそれを許すことは出来ない。僕は八神さんに絵美のことを思い出して欲しい。忘れないで居て欲しい。ただそれだけだ。
「僕……、八神さんを追ってみるよ」
きっとさんは僕の言うことを予想していたのだろう。特に驚きもせず、無表情の顔をこちらに向けた。
「八神隆之を追えば、文也くんにとって嫌なこともたくさん知ることになるかもしれないよ。それでもいいの? 」
「うん。覚悟してる」
迷いなく言うと、さんは微かに笑い「そっか」とだけ呟いた。
さんは以前「大久保くんが絵美を殺すはずがない」と言っていた。絵美が選んだ人がそんなひどいことをするはずがないと、今でも大久保を信じているのだろう。その考えは昔から変わっていないようで、そんな彼女を僕の自分勝手な想いに巻き込むわけにはいかないと思った。
もしこの先、絵美の死に関することがすべて明るみになり何もかもが分かったとしても、僕はさんと一緒に居たい。何があろうと、どんな結果が待っていようと、それだけが確かなことだった。
「あ、そうだ。もし八神さんと接触するようなことになったら『寺澤文也』って名前は使えないと思うんだけど、なにか良い偽名ないかな? さんも一緒に考えてよ」
暗く重い雰囲気になってしまった空気を変えようと、人差し指を立てながら明るめの声を上げた。
流石に寺澤という苗字のままでは八神さんが反応するだろうし、もし名を聞かれたときにフルネームで答えないのも怪しまれる可能性がある。日本人で一番多い苗字を当てはめてみても良いかと考えたが、ありふれた名すぎて逆に違和感を覚えていた。
「私の苗字、使っていいよ」
考え込む僕に向かってさんが言う。僕はさんのことはずっと下の名で呼んでいたため、苗字のことは忘れかけていた。彼女のフルネームは『杉浦』。そういえばこの人の苗字は杉浦だったっけと今更なことを考える。頭の中で『杉浦』というさんの苗字と『文也』という自分の名を組み合わせると、妙にしっくりくる感じがあった。
「杉浦文也。……うん、悪くないかも」
独り言のように呟くと、さんはどこか満足そうな表情で笑い「うん」と口にした。杉浦と杉浦文也。まるで本当の家族になったような気がして、胸があたたかくなる。
さんの肩に触れ引き寄せると、背中に手を回し優しく抱きしめた。冷たい夜の風に吹かれているはずなのに、胸に溜まっていたあたたかさが全身に溢れ、溜息がこぼれそうな程の幸福を覚える。
「さん。この先何があっても、ずっと僕の傍にいてくれる? 」
問いかけたくせに、イエス以外の言葉は聞く気がなかったし、さんの返答も予想していた。僕の腕の中で「当たり前だよ」と呟くさんの頬に触れ、顔を引き寄せて触れるだけのキスをする。口唇は冷たくてかさついていたが、やわらかくて、ひどく優しかった。
ネオンがいつまでも光り輝く神室町は眠らない。きっと夜が明け朝の光が差し込んでも、誰も気付かないのだろう。そんな街が、社会が、僕は大嫌いだった。どんなに理不尽なことや悲しいことが起きても、僕を置いてけぼりにして回り続ける世界が憎かった。でも、さんが傍に居てくれるなら、そんな世界でも生きていけそうな気がした。眠らない街の暗く深い夜を、乗り越えられそうな気がした。
たとえ残酷な現実に打ちのめされようと、僕は大切な人の名を借りてこの夜を跳ぶ。怖いものなんて何もない。きみが傍に居てくれるのならば。
END
(2021.10.29)