この街できみと暮らしたい - 1
真実なんてどうでもいいと思っていた時期があった。大切な人が死んだあの日から、僕は得体の知れない薄汚い何かに足を取られ、前に進めなくなっていた。そんな僕の手を取って、明るい世界に引き揚げてくれたのは、他でもない八神さんだった。八神さんと同じように僕も、得体の知れない闇に覆い隠された真実を求め、さ迷い歩く人の手助けがしたい。そう考えたことが、探偵を志す大きな理由の一つだったのかもしれない。
モグラの事件解決から三年の月日が経とうという頃、僕は神室町を離れ、横浜の伊勢佐木異人町で九十九君と一緒に探偵業を始めることになった。事務所の名前は『横浜九十九課』。流石に横浜まで電車で通うのは現実的ではないため、僕は異人町で新しく家を借りることにした。事務所からも駅からもそこそこ近い立地。伊勢佐木ロードや飲食店街も近いので、とりあえず食事には困らない。
引っ越しが完了した当日、僕は菓子折りを持って隣の部屋である202号室へ挨拶に向かうことにした。表札には何も書かれておらず、住人の名もわからない。今の時代、防犯のために表札に名を書かない人は少なくないため、仕方がないとは思う。引っ越しを決めてから今まで隣人の姿は見たことがないため、名どころかどんな人が何人で住んでいるかも僕は知らなかった。
少しだけ緊張しながらインターホンを押す。しばらくして「はい」と一言だけ応答があり、一瞬だけ聞こえた声では住人の性別すらも分からなかった。
「隣の201に越してきた杉浦です。ご挨拶に伺いました」
インターホン越しにそう言うと、すぐに玄関のドアが開く。部屋から出てきたのは自分と同い年くらいの女性だった。
部屋着らしいラフな服装だったが、ばっちりと化粧をしている顔がどこかアンバランスだ。髪も肌も綺麗なこの人は恐らく自立しているんだろう。彼女の背後に見えた玄関先には女性物の靴が置いてあり、中からは芳香剤かアロマかは分からないが良い香りが漂ってくる。すぐにピンと来た。お隣さんも僕と同じ独り暮らしだ。
思わず観察し色々と推測してしまった自分にハッとして、僕は持ってきていた菓子折りの入った袋を女性に差し出す。中身はデパートで買った無難なクッキーだ。スイーツのメーカーは良く知らないが、店員さんが「女性に人気があるんです」と言っていたので丁度良かったかもしれないなどと考える。
「今日引っ越してきました、杉浦です。ご迷惑おかけすることもあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
そう言って軽く頭を下げると、女性は菓子折りの入った袋と僕の顔を交互に見ながら、ゆっくりと受け取る。
「ああ、そうですか。ご丁寧にどうも。と言います。こちらこそよろしくお願いします」
さんは力ない声で言うと、僕と同じように軽く頭を下げる。
最近はいわゆる“ご近所づきあい”というものが少なくなってきていると聞くし、僕自身もそう感じていた。ましてや女性の独り暮らしであれば警戒して当然だろうし、下手をすれば菓子折りどころか挨拶すら拒否されてもおかしくない。その予想に反してさんはひどく丁寧で、礼儀正しい人だった。
それからというもの、僕とさんは共同廊下で顔を合わせると軽く挨拶する間柄になった。おはようございます、こんにちは、こんばんはなどの日常的な挨拶や、天気の話を軽くする程度だ。相手のことは苗字と独り暮らしをしているという情報しか知らない。ただの顔見知りで、他愛もない会話を一言、二言交わすだけ。それだけなのに僕の中でさんは、“感じの良い女性”というイメージが付いていた。
第一印象でも感じたことだが、さんは恐らく僕と同じ二十代後半ぐらいの年齢だと思う。朝早く出かけて行き、帰りは夜遅い。化粧、髪、服装、ネイルに至るまでいつも全身が美しいので、どこかのOLさんか何かなのだろうかと予想していた。
なんとなく、本当にただなんとなく、彼氏は居ないのだろうかと考えたこともある。独り暮らしで結婚指輪をしていないため恐らく未婚なのだろうが、感じも良いし、何より綺麗な人なので恋人が居たとしても不思議はない。
本来であればどうでもいいであろうことを考えながら、僕は自分自身を“単純”だなと卑下したくなった。同い年くらいで、綺麗で、感じの良い隣室の女の人と挨拶を交わすような間柄になって、顔を合わせて言葉を交わせばなんだか嬉しくて、会えないと残念な気持ちになって……。しまいには恋人の有無まで気になっている。これじゃまるで中学生か高校生みたいじゃないか。
自分一人しか居ない部屋で溜息をつく。早いところシャワーを浴びて明日のために寝てしまいたいのに、ソファに寝転んだままの僕の体は鉛のように重く、動かない。
「……下の名前、何ていうのかな」
無意識に呟いた。家に帰ってくると、なんとなくさんのことを考えてしまう。このマンションは隣室の玄関のドアが開閉される音がそれなりに聞こえるため、さんが帰ってくればすぐに分かる。恐らく今日、彼女はまだ家に帰ってきていない。
なんだか自分がストーカーのように思えて、再び溜息をついた。余計なことは考えないよう、熱いシャワーでも浴びて、仕事のことを考えながら眠りに就こう。僕は重たい体をソファから起こした。
早めに眠ったことが功を奏したのか、翌日は一番大きな依頼がスムーズに終わり、体の調子も良かった。この後夜遅くまで時間のかかる張り込みが控えていたため、僕は九十九君に許可を取って一度家に帰ることにした。汗もかいたし軽くシャワーを浴びて食事をしたら事務所に戻り、仕事を再開しようと考える。
「二十時過ぎには出発しますゆえ、それまでには戻ってきてください」
九十九君の言葉を背中で聞きながら、僕は後ろ手を振り「了解」と返事をした。エレベーターに乗り地上階へおりると、夜はすっかりふけている。寒い季節のため日が沈む時間が早いのは理解しているが、外は想像よりも暗く感じた。
鶴亀街道を西に向かって歩いた。鶴亀橋を渡ってから川沿いを進むと、灯りも人の気配もどんどん少なくなってくる。横目で見下ろした川は相変わらず汚い。
家に戻る途中で何か軽食を買おうかと考える。おにぎりが良いか、サンドイッチが良いか。家にパンとカップスープがあったはずなのでそれで済ますのも良いかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、スナック街の手前にある川沿いの広場に二人の人影が見えた。
「あの、困ります」
片方が小さく声を上げる。見る限り男女のもつれという感じで、一人の男性が一人の女性の腕を掴み、行く手を阻んでいるようだった。初めは恋人同士の喧嘩か何かかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「んな冷たいこと言わないでさぁ。俺と一杯飲もうよ、おねーちゃん」
男性の目は虚ろで、語尾がはっきりとしない喋り方だった。まだ夕方だというのに酒に酔っているのだろうと予想出来る。分かりやすく言えば“酔っぱらって気が大きくなった男が、女性をナンパしホステスの代わりにでもしようとしている”という所だろう。
当然ではあるが、どう見ても女性側の方は困り果てているようだ。この辺りは人通りも少ないため、女性を助けられる人は僕しかいない。迷わずその場から駆け出そうとした時、あることに気が付き、僕は足を止めた。
「さん……?」
無意識に名を呟く。酔っ払いの男性に絡まれているのは、あのさんだった。いつもマンションで見る顔とは違い、困り果て、怯えているような表情をしている。僕は後先考えず二人に近付くと、さんを掴んでいる男の腕を取って、彼女から引きはがす。
「お兄さん、誰?この人今から僕とデートなんだけど」
口にした言葉はもちろん嘘だ。単独でナンパをしている酔っ払いなんて、対象者に連れが居ると思わせてしまえば大抵は身を退く。そう考えての作戦だった。男の肩の辺りに手を置き、軽く押す。そこまで力を込めたつもりはなかったが、男は酔っぱらっていたせいかバランスを崩し、倒れ込みそうになりながらもこちらから距離を取る。
僕は振り返り、背後に居たさんの顔を見た。彼女は何が起きたのか分からないとでも言いたげに目を丸くし、困惑している様子だった。
「ごめんねさん、待った?さ、行こっか」
さんの手を取って強く握ると、僕はスナック街の方へ向かって歩き出す。酔っ払いの男は僕の予想どおり何かしらをぶつぶつとぼやきながら、僕たちとは反対の方向へと歩いて行った。
しばらく歩き、スナック街裏手の人通りの少ない路地の手前で立ち止まる。後ろを振り返ると酔っ払いの男の姿は完全に見えなくなっていた。さんは未だに混乱しているようで、僕の顔と繋いだ手を交互に見ている。
「大丈夫?この辺りは酔っ払い多いから、女の人が一人で歩く時は気を付けないと」
僕がそう言うと、さんはやっとそこで事態と僕の作戦を把握したようだった。繋いだままだった手を振りほどき、僕に向かって深々と頭を下げる。
「あ、ありがとうございました。とても助かりました」
混乱し、動揺していたせいかさんは汗をかき、髪が頬に張り付いていた。いつも身綺麗にし、穏やかな表情で僕に挨拶をする彼女とは正反対で、初めて見るその様子に、言葉にし難い妙な気持ちになる。ほどかれた手に名残惜しさを感じて、“今から本当にデートしませんか?”などと口にしそうになり、僕は下口唇を噛みしめた。