この街できみと暮らしたい - 2

 未だ動揺した様子のさんをそのままにしておくことが出来ず、僕は彼女を家まで送ることにした。とは言えさんのマンションは僕のマンションでもある。そして元々は僕も家に戻る予定で、行く道は必然的に同じになってしまうため、“送る”という言い方は間違っているかもしれない。

 マンションまでの道程で、お互いのことを少しだけ話した。

 さんは横浜市内にある会社に勤めており、今日はたまたま仕事が休みだったらしく、久しぶりに外食をしようとした際に先ほどの酔っ払い男に絡まれたのだと話した。「今日は外食を諦めて自炊します」とぼやいた横顔は少し寂しそうだ。彼女の年齢も知りたかったが、女性にいきなり年齢を聞くのは失礼にあたるだろうと思い、それについては何も聞かなかった。

 僕が探偵だと話すと、さんは大きな瞳を更に大きくしてとても驚いていた。僕の服装がラフなことや、髪色が明るいのを見て、なんの仕事をしているのだろうとずっと疑問に思っていたらしい。彼女は口にはしなかったが、フリーターか何かだと思われていたんだろう。

「まさかそんな特殊な職業の方だったなんで思いもしませんでした。異人町に勤めてらっしゃるんですか?」

「事務所は異人町にあるよ。『横浜九十九課』ってとこ。伊勢佐木ロードの近く」

 丁度良い宣伝になるかと思い、僕はポケットに入れっぱなしにしていた名刺を差し出した。さんはそれを両手で丁寧に受け取ると、書かれた名前を口に出して読み上げる。

「すぎうら、ふみや、さん」

 さんは僕の顔を見上げ、名刺に書かれた名前と交互に見る。まるで珍獣でも見るような目で、どうやら彼女にとっては“探偵”という職業の人間が相当珍しく見えるようだった。なんだか照れくさくなってしまい、僕はさんから目をそらし、真っすぐ前を見て歩いた。

 会話が途切れ、ほんの少しの気まずさを感じる。僕は気付かれないように横目でさんを見た。今日は仕事が休みだと言っていたため、服装がいつもと違う。ピンヒールを履き、足音を響かせて歩いているイメージとは違い、今日の彼女はかかとの低いパンプスを履いていた。よく見ると髪型や化粧も違って、いつもよりずっとラフに見える。

 朝見る着飾った姿も良いが、素に近い姿も綺麗なんだな、なんてことを考えてしまう。漂ってくる優しい香りは、初めて部屋を訪れた日に感じたのと同じだった。

 マンションに到着し、階段を上がって部屋を目指す。さんの部屋である202号室の前で一度立ち止まり、軽く別れの挨拶でもしようとした時、さんが先に声を上げた。

「あの、大した物は作れないんですけど、良かったら晩御飯、一緒にいかがですか?先ほどのお礼と言うとアレですが……」

 予想外の言葉に驚き、小さく心臓が跳ねた。いくら酔っ払いから助けたとは言え、ただの隣人の男を家に上がらせて食事まで振る舞うなんておかしいだろう。初めはそう思ったが、少なくとも僕が知る限り、さんという女性はとても礼儀正しい。何か施しを受けたら必ずお礼をしなければすまない性格なのかもしれない。

 外食以外で人が作った食事を口にするなんて一体何年振りだろうと考えると、確かに魅力的ではある。しかしここでさんの誘いを受けるのは軽率な気がした。

「ありがと。でも……、あんまり男を軽々しく家に上げない方がいいよ。余計なお世話かもしんないけど」

 出来るだけ優しい声を意識して言うと、さんは「あ」と小さく声を上げた。

 彼女は僕の職業が探偵だと知って油断しているんだろう。当たり前だが僕はさんに危害を加える気などは一切ない。しかし人間という生き物はどんな職業に就いていようと危ない者は危ない。例え温厚そうな羊の皮をかぶっていたとしても、その中身は狼どころか虎の可能性だってある。

 さんは口元をおさえ、少しだけ寂しそうな顔をした。もしかしたら、お礼が出来ないことに申し訳なさを感じているのかもしれない。その表情を見るとさんの好意を無下にするのも勿体ないような気がしてしまった。

「……名前」

 口にした言葉はまるで独り言のようだった。上手く声が届かなかったのか、さんは「え?」と聞き返し、不思議そうな顔で僕を見つめる。

さんの下の名前、教えて」

 一歩前に出て、距離を詰めた。

 ずっと気にはなっていたが、知る術も、聞く機会もなかった彼女の名前をやっと問う。さんは僕に名前を聞かれるのを不思議に思っているようだった。どうして今更?なんて考えているのかもしれない。

、ですけど……?

 軽く首を傾げながらさんが答える。。彼女の名前は。それを何度も何度も頭の中で繰り返すと、自然と笑みがこぼれた。ただ名前を聞いただけなのにこんな気持ちになるなんて、自分でもおかしいと思う。

「それじゃさん、今度、都合良い時に一緒にごはんでも行かない?伊勢佐木ロードとかでさ、こう……、パーッと飲もうよ」

 さりげなく下の名を呼びながらそう言うと、さんはまるで花が咲いたように笑い、嬉しそうに体を揺らした。

「いいですね。じゃあ、ごちそうします!今日のお礼も兼ねて」

「うん。楽しみにしてる」

 さんは満面の笑みを崩さないまま、「おやすみなさい」と別れの挨拶をして部屋に帰っていった。その姿を見届けてから、僕も自分の部屋を解錠し、扉を開けて中に入る。鍵類を玄関先の棚の上に放りつつ、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見た。

「あーあ……」

 独り言を呟く。表示されている時刻は十九時半を回っており、九十九君が言っていた“二十時過ぎ”が目前に迫っていた。今からシャワーを浴び、軽く食事を済ませたら、どんなに急いでも時間には間に合わないだろう。

 靴を脱ぎ部屋に上がると、九十九君に話す遅刻の言い訳を考えた。そして僕はまた、頭の中で“”の名前を繰り返す。

 こんな風に女性に好感を覚えるのは一体いつぶりだろうか。別に恋をしたとかそんなんじゃない。ただ、という女性に惹かれた。僕は彼女のことをもっと知りたいと、そう思ってしまった。


 それから数日後。「今度、都合良い時に一緒にごはんでも行かない?」という約束は、いつまで経っても果たされることはなかった。

 ここ最近の僕は、開業したばかりの事務所の宣伝活動などの仕事が立て込んでいた。さんも朝早く出かけて行き帰りは夜遅くになることがほとんどのようだったため、僕たちが顔を合わすタイミングはない。

 僕たちは隣人同士だ。例えば僕がさんの帰りを玄関先で待って、彼女が帰宅したタインミングで話しかける、ということも出来なくはない。しかしそれはなんだか待ち伏せ行為をするストーカーのようで気が引ける。あの日、さんと連絡先の交換をし忘れたのが大きなミスだった。僕はそのことを後悔しながら、仕事をこなす毎日を過ごした。

 今日は朝から事務所に依頼人が来ることになっていた。依頼人は男性で、瀬央と名乗った。短髪で、目鼻立ちのはっきりとした爽やかな好青年だ。ソファに座るように促し、九十九君と一緒に依頼内容を聞く。瀬央さんの依頼は人探しで、探偵業ではよくある仕事のひとつだった。

「俺から金を騙し盗った女……、そいつを探して欲しいんです」

 瀬央さんは僕が出したコーヒーに目もくれず、真っすぐにこちらを見て言う。その態度が彼の真剣さを物語っているようだった。

「その女性とはどういったご関係なのですか?」

 九十九君が丁寧に尋ねると、瀬央さんはこちらから目をそらし、自分の足元に目線を落とす。どうやら答えにくい質問のようだった。

「惚れて……ました。両想いだって、うぬぼれてたんです俺は。でも、あと少しで付き合える、恋人同士になれるって所で、彼女は俺の金を持って、姿をくらましました」

「失礼ですが、その額をお聞きしても?」

「五十万です。すぐに返すから貸して欲しいと言われ、断れず……」

 九十九君と瀬央さんの会話をただ隣で聞いていただけの僕は、五十万というそれなりの金額に思わず声を上げ、話の腰を折りそうになる。

 恐らくその女は自分が好意を寄せられていることを分かっており、瀬央さんは断らないと確信していたんだろう。人の情に付け込む最低の人間だ。

「申し訳ありませんが、詐欺となれば警察の仕事になります。ボクたち探偵出る幕ではないかと……」

「分かってます。でも警察は痴情のもつれだって知ると、たいして掛け合ってもくれなくて。何の証拠も持ってない俺を相手にしてくれませんでした。だから探偵さんならと思って、ここへ伺ったんです」

 瀬央さんは落としていた目線を上げ、再び真剣なまなざしを僕たちに向けた。

 確かに警察ははっきりとした物証でもない限りは動かない場合の方が多いだろう。男女関係から発生したトラブルについては特に動きが鈍くなると聞いたことがある。きっと瀬央さんもここへ来る前に何度も警察に行き、掛け合ったはずだ。この『横浜九十九課』が彼にとっては最後の砦なのかもしれない。

「本当はお金なんて二の次なんです。俺は彼女にどう思われていたか知りたい。遊びだったのか、本気だったのか……。真実を知りたい。はっきりさせて、前に……、進みたいんです」

 真実。その言葉が僕の胸に突き刺さった。いま目の前にいるこの人は、真実を求め、さ迷い歩いている。どうしたらいいいのか、どうすべきなのかもわからず、ただ毎日を生きている。数年前の僕と同じように。

 瀬央さんを見ていると、同情とはまた違う、不思議な感情が芽生えた。この人を助けてあげたいという、その一心だった。

「その女の人の写真とか、あります?プロフィールと、外見的特徴を教えてください」

 依頼を受理するという契約を交わす前に、僕は身を乗り出して言う。悲しそうな表情をしていた瀬央さんは目を覚ましたようにパッと顔を上げこちらを見た。そして慌てた様子で自身のスマートフォンを取り出し、画面を操作し始める。どうやら女の写真を探しているようだった。

「杉浦氏ィ……、まったく……」

 九十九君は呆れたような声を上げたが、その顔は困っているようでも、怒っているようでもなく、ただ笑って僕を見ていた。恐らく九十九君も最初から依頼を受ける気で居たんだろう。

「ありました。これが一番よく写ってると思います」

 瀬央さんが自身のスマートフォンの画面をこちらに向けた。そこには一人の女性が写っており、カメラに向かってピースサインをして微笑んでいる。何の変哲もない写真だ。そのはずだった。

 さん。僕は心の中でその名を呟く。画面に表示されている写真に写っているのは、紛れもなく僕の知っているさんだった。