この街できみと暮らしたい - 6

 鶴亀橋を渡り、川沿いを走る。僕はさんへ電話を切らないようにと伝え、スマートフォンを耳に当てたままにしていたが、通話はいつの間にか切断されていた。何が起こっているのか全く理解出来ていないが、最悪の状況にだけはなっていないことを祈る。

 マンションに到着し、辺りを見回す。周辺やエントランス前に人の気配はなく、僕はとりあえずさんの部屋を訪ねた。インターホンを何度押しても反応はなく、扉を叩いてもドアノブを回したりしても同じだった。先ほどさんから来た着信では車が走るような音が聞こえていたため、やはり外に居るのだろう。

 僕はマンションを飛び出すと、そのまま闇雲に走った。車が行きかう道路周辺。近くにある建物の隙間。路地裏。路面店の中。思い当たる所を探し回ったがさんらしき人の姿は見当たらない。

 焦る気持ちをおさえながらも、僕は一度マンションの近くに戻ることにした。その途中、近くにあった小さな公園が目につく。そこは遊具やベンチすらないただの空き地で“公園”と呼ぶのを迷うくらいだ。

 その公園に二人の人物の姿が見えた。一人は男性でこちらに背を向けて立っているため顔は見えない。がっしりとした体形で背が高く、清潔感のあるスーツを身にまとった姿は後ろ姿とは言えとても凛々しく見える。そして男性と向かい合うように立っている女性は、さんだった。

「……さん!」

 やっと見つけることが出来た嬉しさから思わず叫ぶ。小走りで近付くと、さんは僕の存在に気が付いたようで驚いたような顔をした。しかしさんは先ほど電話で僕に助けを求めたというのに、こちらに駆け寄ってくるわけでもなく、僕の名を呼ぶでもなく、石のように固まりその場に立ち尽くしていた。

 さんと向かい合って立っている男性がゆっくりとこちらに振り向く。その人物は見覚えのある顔をしていた。

「瀬央、さん……?」

 一度しか顔を合わせていない相手だったが、依頼人の顔を忘れるわけがない。男性は間違いなく瀬央さんだった。短髪で、目鼻立ちのはっきりとした爽やかな好青年。さんに片想いをし、金を騙し盗られたと相談してきた人だ。

「なんで、瀬央さんがここに?」

 浮かんできた疑問を迷いなく口にする。瀬央さんは優しそうな好感度の高い表情を崩し、僕を見下ろしながら軽く溜息をついた。

「九十九課……だっけ?お前たちみたいな、新米で、無名の、出来損ない探偵に依頼した俺が馬鹿だったよ」

 耳を疑い、僕の口からは「え?」という間抜けな声がこぼれた。新米?無名?出来損ない?何を言われたのか分からずに混乱する。そもそもいま僕の目の前にいるのは本当にあの瀬央さんなんだろうか。表情や佇まいや雰囲気まで、何もかもが別人のように見える。

「横浜はさぁ、他にも有名な探偵事務所がゴロゴロあんだよ。そいつらに依頼したらあっという間にの居場所を特定してくれたぜ。まぁ、お前らと違って値段は張ったけどな」

 瀬央さんはそう言いながら、さんの腕を素早く掴んで引く。さんの顔は青ざめ、細かく震えているのが分かった。

「なぁ、。やっぱりお前は俺と一緒になるべきなんだよ。お前だって俺を愛してるんだろ?いつまでも逃げてないで、素直になれって」

 瀬央さんの邪悪で狂った囁きを聞いた時にやっと、僕は理解した。やはりさんは誰も騙してないし、金を奪ったりもしていない。瀬央さんはさんの居場所を特定するために僕たちに嘘をついていたんだ。さんへ一方的に想いを寄せ、それに応えない彼女を以前から付け回していたんだろう。

“本当はお金なんて二の次なんです。俺は彼女にどう思われていたか知りたい。遊びだったのか、本気だったのか……。真実を知りたい。はっきりさせて、前に……、進みたいんです”

 あの日、瀬央さんが言った言葉を思い出す。僕はこの依頼人を真っ向から信じた。真実を求め、さ迷い歩いているこの人を助けたいと思った。数年前、僕を救ってくれた八神さんのように、僕も瀬央さんを救いたかった。それなのに。

「……その手を、放せよ」

 大股で二人に近付く。さんを掴んでいる瀬央さんの腕を掴み、力を籠めた。

さんに触るな!」

 僕は思いきり瀬央さんを殴った。大きな体は衝撃で吹っ飛び、倒れ込む。すかさずそこへ馬乗りになり、二発、三発と立て続けに拳を食らわせた。

「真実が知りたいって?ふざけんなよ!僕は、僕は……、探偵としてあんたを信じたのに!」

 地面に血が飛び散るのが見える。何度も何度も瀬央さんの顔面を殴る自分の拳がひどく痛んだ。

 僕はこんな男の欲望のために、さんを疑った。“真実”という言葉に絆され、信じてしまった。この人を救えるのは自分だけだと、驕った。なんて間抜けなんだろう。僕はまだ新米で、未熟で、自分の不甲斐なさに消えてしまいたくなる。

「杉浦さん!」

 さんの声が聞こえる。何発目かわからない拳を食らわそうとしたその時、僕の腕をさんが掴んで止める。瀬央さんは既に気を失っているようだった。


 その後、駆けつけた警察により瀬央さんは連れて行かれた。瀬央さんには前科があり、さんへは六カ月の接近禁止命令が出ていたらしい。期間終了後、延長の申請は受理されず、さんは命令が解けた瀬央さんの手から逃れるため職を変え、住む場所を変えたらしかった。

 未だ怯え、衰弱しきった様子のさんを部屋まで送った。瀬央さんにやられたのか頬に殴られた痕があり、僕は怒りを感じつつも応急手当を行った。

「あいつは僕が絶対に刑務所に入れる。さんへも金輪際近付けさせない。絶対に。だから安心して」

 消毒液を染み込ませたガーゼをさんの頬に這わせながら、まるで自分に言い聞かせるように言った。さんは安心した様子で弱く笑い、頷いて見せる。

「杉浦さんは、瀬央さんから依頼を受けていたんですね。すぐに私の住所を渡さずにいてくれて、ありがとうございました」

 さんの言葉で、僕はここ数日の自分の行動を思い起こす。たしかに彼女の言う通り、僕とさんが事前に出会っていなければ、僕は瀬央さんの言葉を疑うことなくさんの居所を突き止め、あっさり住所を渡していたかもしれない。

 しかし、瀬央さんの正体を見抜けなかったのは僕のミスだ。彼の言葉を疑い、過去を調べるくらいのことはするべきだったかもしれない。探偵として依頼人を信じるのは当然のことだが、完全に信じ切る危うさもあるのだと実感した。

 ふと気が付くと、僕のポケットが微かに揺れていた。その正体はスマートフォンで、着信を知らせるバイブの仕業だ。画面に表示されている名は『九十九誠一』。恐らく事務所を飛び出したままの僕を心配して電話をかけてきてくれたのだろう。

 丁度良い。今回のことを九十九君に報告しようと、僕はソファから立ち上がる。さんに「すぐ戻る」と言ってから部屋を出て、共同廊下で応答ボタンをタップした。

「もしもし?九十九君?」

「ああ杉浦氏!大丈夫でしたか?」

 いつも通りの九十九君の声に自然と笑みがこぼれた。恐らく彼は僕を心配し何度も電話をかけてくれていたのだろう。その声はまるでやっと繋がったことに安心しているように聞こえる。

 僕は九十九君に、瀬央さんのことについてとりあえず大まかに話すことにした。

さんが瀬央さんからお金を騙し盗ったとか、その辺りは全部嘘だったみたい」

 瀬央さんに関して判明したことを全て話している間、九十九君は口を挟まずに話を聞き、途中で「なるほど」と相槌を入れる。僕には九十九君がどんな顔をしているのか大体想像出来た。

「これでさんへの疑いは晴れたということですね。しかし、彼女には悪いことをしてしまいました……」

 九十九君は心底申し訳なさそうな、力のない声で言う。

 確かに言う通り、さんには申し訳ないことをしたと思っている。疑いを晴らすためだったと言えば聞こえはいいものの、僕は数日間彼女を尾行、監視し、交友関係まで調べようとした。最初からさんを疑いたくないと思っていた。しかしやっていることはあの瀬央さんと変わらない。

 電話の向こう側の九十九君が黙り込んだ。どうしたのかと思い「九十九君?」と名を口にすると、彼は言いにくいことを言おうとしているのか、小さく息を吐く。

「杉浦氏は……、どうするのですか?さんと、何か話されましたか?」

 九十九君が何を言おうとしているのかはすぐに理解した。僕はさんを心のどこかで疑い、尾けまわし、その行動をずっと見ていた。その事実を隠し通すことは出来る。しかしそれはさんに嘘をつくということだ。好きな人に嘘をつくなんてことは、したくはない。

「大丈夫。分かってる。僕がさんを監視してたこととかは……、ちゃんと話すべきだよね。どう思われるのかは怖いけど……」

 九十九君は優しい声で「そうですね」と同意した。やはり僕たちは考えていることが同じなのだと感じ、安心したような気持ちになる。

 僕は瀬央さんの「真実を知りたい」という言葉に惑わされた。あんな男の醜い欲望のために、さんを疑ってしまった。だからこそ、僕は僕の中にある“真実”を隠すべきではない。さんへ何もかもを話して、“きみが好き”だと伝えようと、心の底から強く思う。

「ひとまず、もう少しだけさんの様子を見たら事務所に戻るよ。瀬央さんについて詳しくはその時に話すから」

 九十九君は「了解しました」とだけ言い、そのまま電話が切れる。僕はスマートフォンをポケットに仕舞い、大きな溜息のような、深呼吸のような息を吐く。さんに全てを話そう。僕の“真実”を伝えよう。そう決意しながら、部屋に戻ろうと振り返った。

「私を、監視、してたんですか」

 その声が耳に届いたのと同時に、扉の目の前にさんが立っていることに気が付いた。声も、顔も、決して怒っているわけではなかった。ただ無表情で目を伏せ、何度も瞬きを繰り返しているその様子は、涙を耐えているように見えた。

さん……、今の話、聞いてたの?」

 思わず問いかけるも、返答はない。

 僕がさんを尾行、監視していたことを告げれば、嫌な思いをさせるだろうと思っていた。さんの表情に怒りはない。今にも泣きそうな顔をして、自分の足元だけを見ている。

「一緒にごはんを食べたのも、お酒を飲んだのも、監視のためだったんですね」

「違うよ!それは……」

 否定しようとした瞬間、さんが伏せていた目を上げ、こちらを見る。その目に見つめられたら、僕は何も言えなくなった。

「ごめんなさい。私、勘違いしていたみたいです。あの夜のことは全部、忘れてください」

 あの夜、重なった口唇の感触を思い出した。白くて丸い頬、折れそうなほどの細い肩、熱くて溶けそうな体、そのすべてに触れたことを、まるでついさっきのの出来事のように思い出す。

 仕事のためなんかじゃない。監視のためなんかじゃない。僕がさんと一緒に居たかったから。さんの話を聞きたかったから。さんに触れたかったから。そう口にしたいのに、何も言えなかった。何を言ってもさんを傷付けてしまうような気がした。

 さんは部屋に戻り、大きな音を立てて扉を閉める。行かないで欲しい。僕の話を聞いて欲しい。そう思うのに、彼女を引き止めること出来なかった。

さん、僕……」

 閉め切られ、施錠もされたであろう扉にゆっくりと近づく。そこへ軽く手を当てると、指先が凍り付きそうなほどに冷たい。

「僕は……、きみが、好きだよ」

 もしかしたら、扉の向こう側にまださんが居るかもしれない、などと思いながら呟いた言葉。しかし人の気配は感じられず、行き場をなくした僕の言葉だけが、誰もいない廊下に空しく落ちた。