この街できみと暮らしたい - 7
瀬央には再び接近禁止命令が出たのだという話を九十九君から聞いた。瀬央は以前からさんに付きまとっていたという前科があり、警察沙汰になるのは今回で二回目だ。そのせいもあってか、瀬央を何発も殴った僕が罪に問われることはなかった。
事後処理のほとんどは九十九君がやってくれて、しばらくさんの護衛をしようと名乗り出たが、丁重に断られてしまったらしい。それもそうだ。つい先日まで自分を尾行、監視していた探偵たちに付きっきりで守ってもらうなんて嫌だろう。そもそも僕はさんに嫌われてしまった。同じ事務所の九十九君が拒否されるのも仕方がないことなのかもしれない。
これは予想だが、瀬央にはそれなりの処罰が下されることになるだろう。再びさんに付きまとうようならば容赦はしない。たとえ僕がさんに嫌われていようと、彼女を守ることは出来るはずだ。
あの日からさんを共同廊下で見ることはなくなった。僕を避けるために時間をずらしたりしているんだろう。もしくは部屋に閉じこもっているのかもしれない。僕は何度かさんの部屋のインターホンを押そうとしたが、やめた。また彼女を怯えさせたり、嫌な思いにさせるのではないかと考えると怖かった。これ以上、さんに嫌われたくなかった。
仕事は手を抜かずにやっているつもりだったが、ふとした瞬間にさんを思い出してしまうことがあった。道端で野良猫を見れば、尾行の際に見かけた猫とじゃれあっているさんの姿を思い出し、パスタやビールの缶を見るたびに一緒に食事をして酒を飲んだことを思い出す。そのことは九十九君に見抜かれているようで、彼は僕を寂しそうな目で見ることが多々あった。
九十九君へは、僕がさんに嫌われてしまったということを一切話していない。しかし、きっと九十九君はある程度分かっているのだろう。悲し気な目で見ることはあっても、何かを聞いてくるようなことはなかった。
それから数日経ったある日の昼下がり。僕は九十九課にいくつか来ている依頼の確認をしていた。ボードに貼られた依頼内容が書かれた書類を見ながら小さく溜息をつく。九十九課は開業したばかりの事務所のため、仕事の数はたかが知れている。忙しくしていればさんのことを考えずに済むだろうが、どうやらそう上手くはいかないようだ。
「杉浦氏。少々おつかいを頼んでも宜しいですかな?」
九十九君が急に声を上げる。その言い方が少しわざとらしく聞こえた僕は眉間に皺を寄せた。九十九君はデスクのすぐ近くにある棚から小さな紙袋を出し、こちらへ差し出した。
「これを、ある人へ届けて欲しいのです」
紙袋の中を覗き込むと小さな箱が入っており、お菓子か何かだろうと予想した。その箱には見覚えがある。僕が引っ越しの挨拶をするためにさんの元へ持って行ったクッキーと同じものだ。
思わず九十九君の顔を見たが、彼はいつも通りの優しい微笑みをこちらに向けているだけだった。さんと初めて会った時のことを思い出し、胸が苦しくなる。僕がこのクッキーを買った時、デパートの店員さんは「女性に人気があるんです」と言っていた。九十九君が今これを手にしているのは偶然なのだろう。それにしても嫌な偶然だなと肩を落としたい気持ちになる。
「うん、わかった。誰に届けるの?」
そう言って紙袋を受け取ると、九十九君はにっこりと笑う。
「杉浦氏の隣人である、さんへです」
何を言われたのかが一瞬理解出来ず、「え?」という間抜けな声がこぼれる。九十九君は笑顔を崩し、寂しそうな表情で僕を見た。
「……さんと何かあったのでしょう?」
心臓を掴まれたような気分になり、息を飲む。
僕は探偵としての報告はしたが、さんとのことは九十九君へはほとんど話していない。しかしどうやら九十九君は僕が思っている以上に事態を把握しているようだった。このクッキーも恐らく、偶然などではないのだろう。
「杉浦氏とさんが初めて会った時のように、相手の目を見て、しっかりと自分の気持ちを伝えたら、きっと分かってもらえますよ。杉浦氏が好きになった女性なのです。ボクはそう信じています」
九十九君はもう一度、クッキーが入っている小さな紙袋をこちらに差し出す。目を合わせ、優しく笑いながらゆっくりと頷くその表情に、強く励まされているような気がした。
「やっぱり、九十九君に隠し事は出来ないね。……ありがとう」
独り言かのように呟いてから紙袋を受け取り、僕は事務所を飛び出した。さんから電話を受けた時と同じように、マンションに向かって鶴亀街道沿いを走る。横を走る車がどんどんと僕を追い抜いていき、息が上がっていくのが分かったが、止まれなかった。
マンションに到着し階段を駆けのぼると、202号室の前で立ち止まった。乱れた呼吸を整えるために深呼吸をした後、ゆっくりとインターホンに手を伸ばし、一度鳴らす。数秒待っても反応はなく、もう一度鳴らしたが、それでもやはり反応はなかった。
留守だろうか。そう考えた瞬間、インターホンのスピーカーから僅かな物音が聞こえた。このマンションのインターホンにはカメラが付いており、室内から訪問者の顔が確認できるようになっている。恐らくさんは部屋の中で僕のことを見ている。僕が尋ねて来たことを、僕がここにいることを、全て分かっている。
「さん、居るんでしょ?お願いだから、少しだけ話を聞いて」
威圧感を与えないように顔を離し、問いかける。反応はない。僕はドアを軽く叩いた。
「きみを監視してたことは、本当に……、ごめん。でも……、その……」
先の言葉がスムーズに出ず、語尾を濁す。
今更何を言った所で、さんには言い訳にしか聞こえないだろう。僕がさんを疑い、監視していたことは紛れもない事実だ。それを否定する気はない。それでも僕は一番伝えなきゃいけないことを彼女に伝えられていない。それを口にするチャンスは今しかない。そう思った。
「あの時のキスは仕事とかじゃない。さんのことが、きみのことが……本当に、好きだったからなんだよ」
何の反応もないことは分かっていた。それでも止められず、次の言葉を口にするために大きく息を吸う。冷たい空気が僕の体に入り込んだ。
「僕は、さんのことが、好きだよ」
自分の中に溜まっては、ぐるぐると渦巻いていた想いを全て打ち明けた。どこかスッキリとした気持ちになりつつも、インターホンからは何の反応もない。もしかしたらさんはもう、カメラ越しに僕のことを見ていないかもしれない。
その時、今度はインターホンではなく、扉の向こう側から小さな物音が聞こえ、人の気配を感じた。
「私も……、同じです」
閉ざされたままの扉の向こう側から声が聞こえた。それはずっと聞きたくてたまらなかったさんの声で、僕はすがりつくように扉に向かって体を寄せる。耳をすますと彼女の呼吸音が聞こえてくるような気がした。
「私も杉浦さんのことが好きです。だから、仕事だったんだって思ったら、悲しかった」
扉で隔たれた声は小さく、ほんの少し籠って聞こえる。声が震え、涙混じりだということは良く分かった。
仕事じゃない。探偵としてじゃない。僕は僕としてさんが好きだ。そう思ったが口にはしない。この言葉は顔を見て直接言いたかった。
「さん……、鍵、開けて。お願いだから」
扉に手を這わせ、懇願するような声を上げた。外気にさらされた扉は氷のように冷たく、触れているのがつらくなるほどだ。早くここを開けて、さんを見たい。さんを抱き締めたい。さんに触れたい。そう強く思う。
「……開いてます」
聞き逃してしまいそうなほどの小さな声が僕の耳に届く。思わず聞き返そうとすると、間髪入れずにさんが言った。
「鍵はもう、開いてます」
思わずドアノブに手を掛けると、さんの言う通り本当に施錠されておらず、勢いよく扉を開けた。持っていたクッキーの入った紙袋が、音を立てて床に落ちる。目の前にいたさんは涙の溜まった目で僕を見ており、その腕を取って自分の方へ引き寄せると、背中に手を回し思いきり抱き締めた。
「ごめんね、ごめんね、さん」
僕はさんの髪に顔を埋めながら、謝罪の言葉を繰り返す。さんは小さく首を振り「あやまらないで」と呟いた。その首に手を添え、支えると、そのまま口唇を塞ぐ。香りも感触もぬくもりも、当然ながら僕が彼女へキスをした日と全く同じで、涙がこぼれそうになる。
「これからは僕が、さんを守るから。仕事とか探偵とか関係なしに、きみを、守るから」
まるで自分に言い聞かせるような言葉だった。もう一度口唇に触れると、かすかに涙の味がする。さんは僕の腕の中で小さく頷き、消え入りそうな声で「ありがとう」と呟いた。