アルコール、否、きみ - 前編

 九十九くんも帰り、杉浦くんも帰り、事務所には私以外誰も居ない。終わる気配のない事務作業を片付けながら、手伝うと申し出てくれた仲間二名の言葉を「大丈夫」と断ったことを今更ながら少しだけ後悔した。時刻は日付が変わってから大分経っており、終電は既に出てしまっている。九十九課の事務所奥には仮眠するスペースと簡易的なシャワーがあるため、今夜はここに泊まっても良いかもしれない。

 何度目か分からない溜息をついたその時、テーブルの上に置きっぱなしになっていたスマホが震え出した。画面を確認すると見覚えのない番号が表示されている。番号の羅列から察するに恐らくは携帯電話番号なのだろう。いつもであれば無視をする所だが、酷く疲れていたせいか気が付けば無意識に通話ボタンをタップしていた。

「もしもぉし……」

 声に力を込めることが出来ず、語尾が尻すぼみに小さくなる。電話の向こう側は外なのか、人が多いのか、ざわざわと騒がしかった。

「あ!ちゃんか?俺だよ、俺」

 通話相手はそう口にした。まさか最早もう古い手口だと言われる“オレオレ詐欺”などというやつだろうかと考えながらも、もう一度画面を確認するもやはりその番号に見覚えはない。どう返せば良いか分からなかった私は「えーっと」という曖昧な、言葉にすらならない言葉を口にする。すると相手はこちらにもはっきりと聞こえるくらいの盛大なため息をついた。

「なんだよ、もう忘れちまったのか?神室町の海藤だよ。カ・イ・ト・ウ!」

「……あ」

 なんとなく聞き覚えを感じていたその声と、“海藤”という名が私の頭の中で繋がる。海藤正治さん。彼は新宿神室町にある八神探偵事務所に勤める調査員で、私と同業者である。九十九課と八神探偵事務所は合同で調査をすることが度々あり、私と海藤さんは当然のように顔見知りだった。

「すみません、久しぶりだったもので……、どうしたんですかこんな時間に」

 失礼なことをしてしまったと反省しつつ、話を促す。私は海藤さんの番号を知らないが、海藤さんは以前私が渡した名刺でも見てかけてきたのだろうと予想した。

ちゃん、今から出てこれねぇか?スナック街のすぐ近くにあるアルバトロスって店だ」

 私の態度などまったく気にもしていない様子であっけらかんと海藤さんは言う。「スナック街のすぐ近くにある店」という言葉から、恐らくこれは飲みのお誘いなのだなと察した。海藤さんが神室町から異人町に出てきているのは特に何とも思わない。しかし飲みに誘うのならば九十九くんや杉浦くんなどもっと良い相手が居るだろう。そもそも私は仕事中であるし、朝が来る前に片付くとも思えないほどの量の仕事が残っている。飲みに行っている暇などあるわけがない。

「私ではなく、九十九くんとか杉浦くんを誘ったほうが良いんじゃ……?」

 ほんの少しだけ嫌味っぽさを込めて言ったつもりだったが、これは海藤さんには伝わらないだろうということはなんとなく分かっていた。海藤さんはまるで私の言葉を待ってましたと言わんばかりに、食い気味に「杉浦ならここにいるぜ」と言った。その言葉に自分の口から無意識に「え」という声が漏れる。

「珍しく潰れちまったんだよ杉浦のヤツ。ちゃんに電話したのはそれだ。ちょっと手伝ってくんねぇか?」

「手伝うって、……何を?」

「いやだから、杉浦を帰すのを手伝ってくれってことだよ。この野郎テコでも動かねぇ」

 杉浦くんが酔い潰れてしまうことはあまり聞いたことのない珍しいことだと思ったが、それよりも私は海藤さんの言い分に大きな違和感を覚えた。海藤さんは屈強そうな見た目をしている男性で、言い方は悪いがまるでゴリラのような人だ。もちろんそれは見掛け倒しでもなんでもなく本当に力が強くてとても強い人なのだが、そんな人が杉浦くん一人を家に帰すのに手間取ったりするだろうか。

 黙り込み考えていると、それを不審に思ったのか海藤さんが「もしもし?」と言った。大きな違和感はあるが、探偵として先輩であり、日ごろからお世話になっている海藤さんの訴えを拒むことは出来ない。私はテーブルの上に広げた資料を適当にかき集めながら、電話の向こう側に居る彼に「すぐに行きます」とだけ言い、通話を切った。

 アルバトロスという店は海藤さんの言う通りスナック街の近くにあった。金花橋を渡ってすぐ裏の路地を入った場所にあるため、客入りはあまり良くないように思える。路面側に大きなガラス扉があり、店内の様子が良く見えた。カウンター席に派手な色のシャツを着た体の大きな男性が座っており、そのすぐ隣にいる人物がテーブルに顔を伏せている姿も良く見える。

 軽く溜息をついてから店の扉を開けた。その音に気が付いた海藤さんはすぐにこちらを向くと手を振りながら私の名を呼ぶ。大きな声に店員までもが私の方を向き、目を丸くして不思議そうな顔をしていた。恥ずかしさを感じ目を伏せながら海藤さんに近付く。

「いやぁ、悪ぃ悪ぃ。ちっとばかし飲ませ過ぎちまったみたいでよ」

 海藤さんは頭の後ろに手を置き、口角を上げながら言う。口では「悪い」と言いながらも、その態度はこれっぽっちも悪びれていないように見える。そんな海藤さんに苛立ちを覚えないのは彼の人柄の良さなのだろう。

「まったくもう……、私だって暇じゃないんですからね」

「そんな冷たいこと言うなってちゃん。杉浦と付き合ってんだろ?彼氏の世話くらいいいじゃねぇか」

「……は?」

 予想もしていなかったその言葉に、私は文字通り目玉が飛び出そうなほどに目を見開いて驚いた。そしてその時にやっと私は気が付く。海藤さんが私に電話を掛けてきたのも、口では「悪い」と言いながらも態度はこれっぽっちも悪びれていないように見えたのも、全てはこれだったのだと。

「いや、つ、付き合ってないですけど?何言っ……」

「付き合ってる」

 私の否定の言葉を掻き消すように声が重なる。その声の主は海藤さんではなく、杉浦くんだった。テーブルに突っ伏していた杉浦くんはいつの間にか顔を上げ、こちらを睨むように見ている。その表情は誰がどう見ても酔っているようだった。そんな杉浦くんの様子を見た海藤さんは独り言のように「あ、起きた」と呟いた。

「僕と、さんは、付き合ってる」

 杉浦くんは単語のひとつひとつをゆっくりと口にする。それは酔っているからなのか、それとも言葉を強調したいからなのかどうか、私には分からない。それよりもまず私は杉浦くんの言葉の意味を理解するのに必死だった。私と杉浦くんは付き合ってはいない。確かに彼のことは同僚として信頼している。正義感のある優しい性格だし、背だって高いし顔だって男前だ。そもそもそんな杉浦くんと私が付き合っているなんておこがましいにも程があるだろう。

「す、杉浦くん、飲みすぎだよ。いつから私たち付き合ってることになってんの。早く帰……」

「今から」

 先ほどと同じように、杉浦くんは私の言葉を掻き消すように声を重ねた。

「僕と、さんは、今日から、たった今から、付き合ってる」

 杉浦くんはテーブルに預けていた上半身を持ち上げ、真っすぐにこちらを見た。普段の彼はとても優しい目元をしているが、酔っているせいかその目はいつもより細く鋭く見えて、私はまるで心臓を掴まれたような気分になった。