アルコール、否、きみ - 後編

「僕と、さんは、今日から、たった今から、付き合ってる」

 返す言葉がなかった。直接的な単語を言われたわけではないのに、まるで愛の告白を受けているような気分だった。口唇が震え、喉の奥が強く締まるような感覚がして声が出ず、息が上手く出来ない。顔が段々と熱くなっていくような気がして、恥ずかしいという気持ちも湧き上がってきた。

「だそうだ。それじゃ仲良くな、ご両人。会計はしといてやったからよ」

 すぐ近くにいた海藤さんはそう言うと、小走りで店の出入り口へ向かっていく。その声は上ずっていて、顔を見なくともどんな表情をしているかはなんとなく分かった。

 去り行く海藤さんの背中に声を掛けようとした私の腕を何かが掴む。杉浦くんだった。彼は何も言わず、座席に腰を下ろしたままこちらを見上げていた。とろんとした瞳で穴が開きそうな程に私のことを見つめている。どう反応したら良いか分からず、何と言ったら良いか分からず、私はその場に立ち尽くした。

「好き」

 なんの躊躇いもなく、杉浦くんが私に言う。先ほどは直接的な単語を言われたわけではないのに、まるで愛の告白を受けているような気分だったが、今度こそ本当に愛の告白を受けてしまった。全身から汗が吹き出し、膝が震え、立っているのがつらくなる。そんな私に構うことなく、杉浦くんは私の手を両手で包むと、手の甲にキスでもするかのように、まるでなにかに縋るかのように、顔を近付け囁いた。

「僕、好きなんだよ、さんのこと。ずっと好きだった。誰にも渡したくない。だからお願い、今すぐ僕のものになって」

 今まで生きて来て何十年。こんなストレートな告白を受けたことがあっただろうか。いま目の前で起きている出来事をまるで他人事のように考えた。今の杉浦くんは見たことがないくらいに酷く酔っている。これはどう見ても明日の朝目覚めたら記憶をなくす酔い方だ。

 私は杉浦くんの両腕を掴むと、強く引いてその場に立たせた。軽くふらついたが、流石杉浦くんと言うべきかすぐにバランスを立て直し、しっかりとした足取りでその場に立つ。

「杉浦くん、その、やっぱ飲みすぎだと思うし、とりあえず事務所に行こ?あそこだったら休めるし、お水あるし、ね?ここだと人目が……」

「ごちゃごちゃうるさいなぁもう早く“うん”って言ってよ」

 私の言葉を杉浦くんの声が掻き消したのは、これで三度目だ。そしてこちらに伸びて来た彼の両手が私の頬を包み、そのまま引き寄せられたのは一瞬だった。顔を軽く斜めに傾けられ、口唇に何かが触れたかと思うとそれを強く塞がれる。お酒のにおいがして、触れられている顔と喉が一瞬にして熱くなるのが分かった。

 了承していないのに付き合っているとされたうえに、了承していないのにキスをされた。これは一体なんなのだろう。一体何が起こっているのだろう。他者から見れば、決して広くはない店内のど真ん中でイチャつく至極迷惑なバカップルといった感じに違いない。店員と私たち以外の客の視線が体中に突き刺さるように思え、穴があったら入りたい気持ちになる。

 私は手の平を突き出し、杉浦くんの口元を塞いだ。幸い彼の顔はそこまで大きくはないので、私の貧相な手でも十分だった。杉浦くんは「んぅ」とくぐもった声を上げたが、特に抵抗はしなかった。口を塞ぎながら腰の辺りに手を回し、その体を引きずるようにしながら半ば無理矢理に店の出入り口に向かう。

「帰ります!ご馳走様でした!」

 店員に向かってそう叫んでから、体当たりでもするかのように店の扉を開け、足早に外に出た。後ろの方で「ありがとうございました。またどうぞ」という気だるげな声が聞こえた。

 通りに出て、すぐ傍を通ったタクシーを捕まえると、杉浦くんの体を車内に押し込む。杉浦くんには先ほどまでの勢いはなく、車の揺れが心地良いのか眠たそうに黙り込んでいた。

 スナック街から九十九課まではそこまでの距離はなかったため、タクシーはあっという間に私たちを事務所まで運んでくれた。杉浦くんを来客用のソファに寝かせると、彼の体はまるで骨のない人形かのように力なく横になり、すぐにスウスウと小さな寝息を立て始めた。

「杉浦くん、大丈夫?気分悪くない?お水飲む?」

 しゃがみ込み、横になった杉浦くんの顔を覗き込んで問いてみたが、彼は既に深い眠りの中にいるのか返事はなかった。酔っ払いの介抱は酷く面倒臭いものだということは知っている。あの杉浦くんですらこうなってしまうのだから、お酒とは本当に恐ろしい物だと実感する。

 そんなことよりも、杉浦くんをこのままにしてしまっては風邪をひいてしまうだろう。仮眠室に厚手の毛布があったはずなので掛けてあげた方が良いかもしれないと思い、私はしゃがみ込んでいた体を持ち上げその場に立ち上がろうとした。しかし、それは出来なかった。いつの間にか杉浦くんが私の服の裾を掴んでいたからだった。

「ここにいて、……そばに、いてよ」

 私にしか聞こえない程度の小さな囁き。それは私に対する言葉ではなく、ただの寝言だということはすぐに分かった。杉浦くんの顔をゆっくりと覗き込むと、目を閉じ眠ったまま、眉間に皺を寄せて苦しそうな表情をしていた。嫌な夢でも見ているのだろうかと心配になり、額の辺りに手を当てて軽く髪を撫でる。じんわりと汗をかいているようだった。

「いかないで、……絵美」

 杉浦くんは再び寝言を口にすると、閉じられた目から涙を流した。濡れたまつ毛からゆっくりと涙の筋が横向きに落ち、高い鼻の上を滑っていく。絵美という名に聞き覚えはなく、少しだけ悔しい気持ちになった。

「まったく……、私のこと好きだって言ったくせに、寝言で他の女の人の名前なんか呼ばないでよね」

 独り言を呟いたが、その言葉に悪意も嫌味もなかった。ただ絵美という人物が羨ましいと思ってしまった。杉浦くんが夢にまで見て涙を流すほどに恋しさを感じる人ならば、きっと彼にとって一生記憶に残る、素敵な人なのだろう。それは過去の恋人か、想い人か、それ以上に大切な人だったのかもしれないが、私には分からない。杉浦くんが私に絵美という人のことを話してくれる日が、いつか来るのだろうか、なんてことをぼんやり考える。

「私は、どこにもいかないよ、杉浦くん」

 小さく囁くと、私は杉浦くんの明るい髪を再び撫でた。変わらずに聞こえてくる寝息が酷く心地良く感じる。

 それにしても、この調子ならばきっと杉浦くんは明日の朝には記憶をなくし、どうして自分が事務所のソファで眠っているのかが分からずに混乱するだろう。そのことについては説明しても良いが、あの告白とキスはどう説明するべきなのだろうか。説明した所で信じてもらえるのだろうか。そもそも、杉浦くんは本当に私のことが好きなのだろうか。

 杉浦くんの告白と、随分と強引だったキスを思い出し、顔が熱くなってくる。その反対に、いつまでも私の服の裾を離さずに小さな寝息を立てている杉浦くんからは、子供のような無邪気さしか感じられない。もし自分に弟が居たらこんな感じなのだろうかとも考えてしまう。あまりにも綺麗で穏やかなその寝顔を見ていたら、あの愛の告白とキスは彼の本当の気持ちなのだと信じたくなってしまった。

 お酒という物は恐ろしいと思う。酔った状態というのは理性をつかさどる大脳新皮質の活動が低下し、反対に本能や感情をつかさどる大脳辺縁系の活動が活発化するのだと、以前に九十九くんが話していた。「理性で押さえている感情、つまり“本性”が出てきてしまうのです」、と。

 杉浦くんが目を覚ましたら、記憶があるにしろないにしろ、告白の返事をしてみようか。あなたの“本性”を見るのは、今までもこれからも私だけでいい、なんて言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。そんなことを考えながら涙に濡れた長く美しいまつ毛に口唇を落とすと、言葉にし難いような、ひどく恋しい味がした。

END‎
‎(2022‎.11.‎5)‎