ワンダーキス - 前編
セクハラ。正式名称セクシュアルハラスメントは、主に職場において行われる「性的嫌がらせ」のことを指す。例えば相手の同意なしに体に触れたり、性的な冗談やからかいなどもこれに当たる。職場上で地位の高い人間が権力や立場を利用し、自分より弱い立場に対して行われる行為としてパワーハラスメント、通称パワハラと呼ばれることもある。
そんなセクハラ、パワハラに悩む人が、僕たちの所属する九十九課に依頼人としてやってきたのは数日前のことになる。依頼人は女性で、横浜市内にあるバーで店員をやっていると話した。そこの雇われ店長の男が従業員の女性たちのほとんどに手当たり次第セクハラをし、そこのバーは店員の入れ替わりが激しいのだと言う。そんなクズが店長をやっているお店には長く勤めたいと思えないため、当然と言えば当然だ。
依頼人の女性も被害者だった。体を触られるのは日常茶飯事で、仕事終わりに家に誘われたり、性行為を強要するかのような言葉を浴びせられたこともあったと言う。
「どんな手段を使って頂いても構いません。あの男がしてきた行為の決定的な証拠を掴んで貰いたいんです」
来客用のソファに浅く座り、姿勢を正しながら女性は言った。恐らく女性はその“決定的な証拠”を持って訴えを起こすつもりなのだろう。その真剣な眼差しに対して曖昧な言葉を口にする気は全く起きず、僕は隣に居た九十九君が何かを言う前に「まかせてください」と言った。九十九君も僕と同じ考えだったようで、こちらを見るなり優しい笑顔を浮かべていた。
バーには僕とさんの二人で潜入することになった。今回のような酒を提供する店であるならば一人より二人、そして同性同士より異性同士のほうが他人の目をあざむきやすいという九十九君の提案だった。
さん。彼女は横浜九十九課に所属する調査員で探偵としての経歴は僕より長く、一応は僕の先輩ということになっている。だがしかし、さんは先輩というより同僚に近い存在だった。先輩風をふかすわけでもなければ、後輩のように僕を頼り切ったりもしない。
さんは少し抜けている所があるものの、とても一生懸命に仕事をこなす人だ。何よりもまず自分以外の誰かを想い、優先させる人で、依頼人の精神面を気遣ったりアフターケアも評判が良い。僕はそんな彼女が好きで、ここ最近は分かりやすくアプローチしているつもりだったが、気付いているのかいないのか体よくかわされたりしていた。
僕たちの待ち合わせ場所は駅前。そこから二人で一緒にバーに向かう段取りとなっていた。
「ごめん!お待たせ。杉浦くん早いね」
さんはそう言いながら駆け足気味に現れた。僕はそれに「大丈夫だよ」というありきたりな返事をしつつ、さんの姿を頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見る。今日のさんはいつもの格好とは全く違う服装で、胸元が大きく開いた服を着ていた。しかし下品さはまるで感じられず、浮き出た鎖骨が妙に色っぽい。下は短めのスカートで、そこから伸びる細くて白い脚が眩しかった。全体的に目のやり場に困る服装のように感じたが、率直に言えばとても綺麗だった。
黙り込んで凝視していた僕を不審に思ったのか、さんは眉間に皺を寄せ、どこか不安そうな顔をする。
「やっぱ違和感ある?潜入場所はバーだって聞いたから、一応それっぽい格好で来たつもりなんだけど……」
「ううん。大丈夫だよ。綺麗だったから見惚れちゃっただけ」
素直な気持ちを口にするとさんは目を見開いて驚きの表情をしつつ、頬を赤らめた。そして目を泳がせたかと思うと遠慮がちに「ありがと」と小さく呟く。その些細な仕草にでさえ愛しさを感じ、僕はその気持ちも口にしてさんに聞かせようとしたが、困らせてしまいそうだったのでやめておいた。
のぼせ上ったような気分になってしまったが、今日は仕事だと気持ちを切り替える。慣れない繁華街を地図を頼りに歩くとお目当てのバーに到着した。周囲にはラブホテルがいくつも立ち並んでおりほんの少しの気まずさを感じたが、さんは特に気にしていないようだった。
「うわ、すご……、なんかいかにも陽キャって感じ。私こういう店来たことないよ」
さんは独り言のように呟く。確かに彼女の言う通り店の外観は派手だった。地下に続いているのであろう階段の向こう側からは重低音が響き、入り口付近の壁にはドクロやコウモリなど良く分からない物がゴテゴテと飾り付けられている。
「とりあえず行こうか。さん、準備は良い?」
そう言ってさんの顔を見ると、さんは強気な笑みを浮かべながら親指を立てて見せる。僕たちは階段を降り入店した。遠かった重低音が大きくなり、耳の奥や内臓にまで響いてくる。
店内はバーというよりクラブに近い感じだった。決して狭くはないフロアには背の高い椅子とテーブルがいくつかあるだけで、客は立ったまま酒を楽しんだり音楽に合わせて体を揺らしたりしている。張り巡らされた蜘蛛の巣のように店内のあちこちを照らすブルーライトが妖しさを増長させているように感じた。
僕たちの作戦はこうだ。まずカップルを装って店に潜入する。酒や音楽を楽しむふりをしながら時間を過ごし、例の店長が現れるまで待つ。そしてセクハラをしている現場を動画に撮る、という寸法だ。カメラは九十九君に用意してもらった超小型の物があるし、体の小さいさんが僕の影に隠れれば撮影など造作もないだろう。
とりあえずカウンターで酒を注文し、それぞれ飲んだ。周囲ではカップルと思わしき男女が体を寄せ合い音楽に合わせて体を揺らしたり、ごく普通にキスをしたり体に触れ合っている人たちも居る。そんな中僕たち二人は隣り合って立ったまま、適度、というよりは微妙な距離を保っていた。
僕は酒を一気に煽り喉へ流し込むと、空になったグラスを近くにあったテーブルに置いた。少し甘めのカクテルの味が妙に濃く感じ、喉がきゅっと締まる。
「ねぇさん、もうちょっとくっつかない?」
そう言ってから間髪入れずにさんの腰の辺りに手を伸ばし、自分の方へ引き寄せた。僕の胸の辺りにさんの肩がぶつかり、飲み干したカクテルよりもずっと甘い心地の良い香りが漂ってくる。
「ちょ、ちょっと、何してんの」
さんは僕に行動に対し抵抗をすることはなかったものの、ひどく動揺した様子で言った。
「だって僕たち一応カップルでしょ?今は。ずっと微妙な距離感保ってるのって不自然だよ」
「う……、まぁ、それは、そうだけど……」
引き寄せたさんの体がどんどん固く、ぎこちなくなってくるのが分かる。それがあまりにも可愛くて、彼女をもっとからかいたくなってしまった。
僕は素早く手を伸ばして、さんが持っていたカクテルグラスを奪い取ると、それを近くにあったテーブルに置く。反応を待つこともせず間髪入れずに正面に回り込み、さんの腰を両手で支えながら顔を近付けた。
「さんって、ほんと……」
“可愛い”。そこまで口にすることはしなかったが、何かを察したのかさんの顔がみるみるうちに赤くなっていくのが分かる。僕は笑いを堪えながらさんの額と自分の額をくっつけた。さんの肌はまるで溶けるように熱く、その熱はこちらにまで伝染してくるように感じる。いやこれは伝染などではなく、まるで恋人同士かのような距離の近さに僕がやっと緊張してきただけなのかもしれない。
あまりにも心地良かった。お互いの熱が溶け合うような感覚がした。ずっとこのままで居たいとすら思った。しかしそれは長くは続かなかった。
「……来た」
甘ったるい空気をさんの低い声が切り裂く。何も聞かずともそのトーンと雰囲気で僕には分かった。あの例の店長が現れたのだと。
さんは身を寄せたまま僕の上着のポケットに手を突っ込み、そこから小型カメラを取り出す。そして周囲に気付かれないよう僕の肩越しにカメラを構え、店長が居るのであろうカウンターの方へ向けて撮影を始めた。
「男の近くに女の子が居る。多分やると思う。杉浦くんはそのまま盾になってて。動かないでね」
先程の雰囲気とは打って変わり、さんは真剣な面持ちで囁くように言った。
「オッケー。ゆっくりで良いよ。気を付けて」
同じような囁き声で返答しつつ、僕は怪しまれないようにさりげなくカウンターへ目線を送る。そこには例の店長がだらしないにやけ顔ををぶらさげて立っていた。近くには若い女性の店員が一人、カウンターで仕事をしている。
その直後だった。店長はさりげなく女性店員の臀部、つまりお尻のあたりに触れた。あまりにも自然な動きだったため周囲に居る客は気付いていないようだった。そしてすぐに今度は女性の肩に手を置き、何かを耳元で囁いている様子が確認できる。女性はカウンターで接客をしているが、その表情は不快感を隠しきれていなかった。眉間に皺が寄っているし、下口唇を噛み締めて何かを耐えているように見える。
「最低。あいつ本当に触ってる。許せない」
「さん、今は堪えて。あいつには後で死ぬほど痛い目に合わせてやろう?ね?」
さんの声には明らかに怒りの感情が混ざっていて、表情を確認すると、今にも店長に飛び掛かっていきそうなほどに怖い顔をしていた。落ち着かせるようにさんの肩に手を置き、そこをポンポンと軽く叩く。その時だった。
「やば……!」
不穏な言葉をさんが小さく呟き、持っていた小型カメラを僕の上着のポケットに半ば無理矢理突っ込む。一瞬にして緊迫した空気に心臓が一度大きくドクリと鳴った。