ワンダーキス - 後編
「やば……!」
不穏な言葉をさんが小さく呟き、持っていた小型カメラを僕の上着のポケットに半ば無理矢理突っ込んだ。証拠映像の撮影には成功したように見えたが、動揺を見せるさんの様子にどうしたのかと思い横目でカウンターの方を見る。すると例の店長と思いきり目が合ってしまった。どうやら彼は僕たちを不審に感じたようだった。
すぐ前に向き直り、さんの背中に手を回してその体を強く抱き締めた。更に近い距離に心臓がうるさくなるも、今はそんなことを言っている場合ではない。
「さん、動画は?撮れた?」
「撮れてるはず。でもやばいよ。あいつ絶対怪しんでる」
「大丈夫だよ。じっとしてて。僕がなんとかする」
そう囁くと、さんの両頬を手で包み込み自分の方へ引き寄せた。鼻の頭が触れ合い、酒の香りを強く感じる。口唇は触れていない。ただの“キスをしているふり”だ。店長から見た僕たちの姿はただいちゃついているだけのカップルに見えるだろう。
自分の頬にさんの吐息がぶつかる。彼女は表情が歪むほどに強く目をつぶっているようで、僕は吹き出しそうになってしまった。もし今本当にキスをしたとしたら、さんはどんな反応をするだろう。興味もあったし、何より単純に僕が彼女とキスをしたいと思った。
「杉浦、く……」
頭の中を支配していたいやらしい欲望を、さんの小さな呼びかけが蹴散らした。ハッと息を飲み、近付けていた顔をゆっくりと離す。目の前にあるさんの顔は赤く、目は泳ぎ動揺しているように見えた。
「あ、あの、店長は……、もう、裏に行っちゃったみたいだから、大丈夫、だよ」
途切れ途切れのぎこちない言葉でさんは言う。真っ赤な顔と、震える声と、ほんの少しだけ潤んだ瞳に煽られたような気分になり、僕は再びさんの背中に手を回し、熱くて柔らかな体を抱き締めた。
「ごめん、もうちょっとだけ、このままでいちゃダメかな?」
髪に顔を埋めながら耳元で囁くと、さんはそれ以上何も言わず、抵抗もしなかった。片手で後頭部を支えると、指先に滑らかな髪がからみついてくる。本当はこのままキスをしてしまいたい。耳に近付けた口唇で甘噛みをしてしまいたい。
「杉浦くん、心臓の音すごいね」
僕にしか聞こえていないであろう程に小さな声でさんが呟いた。「心臓の音がすごい」だなんてそんな恥ずかしいことは思っていても口に出さないで欲しかった。そんな風に思いつつも、こういうことをあっさり言ってしまう彼女のほんの少しの間抜けさを微笑ましく思う。
「僕はいつもこうだよ。さんと一緒に居る時はいつも。心臓が壊れるんじゃないかってぐらいにドキドキしてる」
自分が思っていることを包み隠さず素直に口にした。腕の中にいるさんの小さな体からは鼓動が確かに響いていたが、それが僕ほどまでに強く、早いものなのかは良く分からない。
「さんは?どうなの?」
抱き締めていた腕を緩め、さんの顔を覗き込むようにしながら問いかけた。さんの顔は未だに赤く、照れているのか僕の目を見ようとはしない。
ふと気が付くと、自分の腕にさんの手が触れていた。手はそのまま僕の腕を掴み、さんの体の中央あたりに持っていかれる。それは丁度心臓がある辺りで、手のひらに触れる柔らかな感触に動揺しつつも、力強い振動が響いているのが分かる。さんの心臓も僕と同じように強く、そして早く鳴り響いていた。
「私も……、おんなじ」
柔らかさと、熱と、響きと、彼女の言葉に耐えられなくなり、僕はその赤い口唇に噛みついた。貪り付くようなみっともない姿は店内の薄暗さが隠してくれる。絡みつくようないやらしい音は鳴り響く重低音が消してくれる。僕の目を見ようとしなかったさんの目が、今は僕だけを見ている。彼女の視界にはもう僕しか映っていない。
さんが軽く僕の腕を叩いていることに気が付いた。口唇を解放するとさんは大きく息を吸い、僕の胸にぐったりともたれかかる。その仕草が妙に色っぽく、卑猥な感情がどんどん大きくなっていくのが分かった。
「もっと、させて」
そう口にしてすぐ、僕は再びさんにキスをした。口唇を甘く噛むとさんの肩が小さく震える。僕の指先は彼女の髪に触れ、首に触れ、胸に触れた。もっと、もっと、というはやる気持ちを何とか抑えながら、さんの瞳を見つめた。僕たち二人の鼓動はやかましい音楽に吸われ、体の熱さは暗闇に映えるブルーライトに溶けていくようだった。
店を出るといつの間にか日が昇り、朝になっていた。ああいった地下にある店では時間の経過を感じにくいため、まるで時差ボケでも起こっているような感覚になる。僕もさんもそこまで酒を飲んだわけではないのに何故か足元がふらついていて、お互いを支え合うように手を繋いで歩いた。
もう電車は動いているのだろうか。正確な時間が確認できないため分からない。早朝の街に人の姿は見当たらず、別世界かのように静まり帰っている。
なんとなくジャケットのポケットに手を突っ込み、中に入っている小型カメラに触れた。ここには店長の悪事の証拠がしっかりと収められている。これがあれば依頼人が訴えを起こす際も優位に進められるだろう。僕たち探偵に出来るのはここまでだ。
「さん」
誰も居ない通りに僕の声だけが響く。おぼつかない足取りで隣を歩いていたさんは呼びかけにゆっくりと足を止めた。
「今度プライベートで飲みに行こうよ。二人っきりで。もうあんな強引なことしないから安心して。……ごめんね」
出来るだけ優しい声を意識して言った。さんは店を出てからずっと無表情のままで、それは僕が何を言おうと変わらないように思えた。怒っているのか、悲しんでいるのか、動揺しているのか、なにもかもが分からない表情だった。
「しても……、いいよ」
誰も居ない通りに声が響く。それは聞き慣れたさんの愛おしい声だった。
「杉浦くんならしても、いいよ。強引なことでも……」
その言葉に耳を疑い、思わずさんの方を見る。彼女は僕から目を反らし前だけをまっすぐに見つめていたが、朝日に照らされた横顔は少し赤くなっているように見えて、思わず笑った。
「さんって、ほんと……」
“可愛い”?“ずるい”?“怖い物知らず”?様々な言葉が浮かんでは口にすることなく頭の中で消えてゆく。さんの顔はいつの間にか真っ赤になっていて、それを僕の目から隠したいのかそっぽを向いた。しかし赤くなった耳が丸見えで、その抵抗はまるで意味を成していなかった。
やかましい音楽に吸われたはずの僕たちの鼓動は再びうるさく主張し始め、体の熱さが溶けていたブルーライトは朝日に照らされ暗闇と共に消えた。そしてさんの顔はずっと赤いままで、僕は何度も交わしたキスの感触を思い出す。早朝の陽の光に映えるさんの横顔がひどく眩しくて、同時に愛おしくてたまらなかった。
- おまけ -
「杉浦氏ィ!何かボクに言い忘れていることはありませんか!?あるでしょう!?」
「え?なに急に。なんかあったっけ?」
「またまたご冗談を!やっとさんと心が通じ合ったのでしょう!?まったく水臭いですな!今夜は赤飯を炊かねば!腕が鳴りますぞぉ!」
「ちょ……、ちょっと待って九十九君。なんで知ってるの?」
「何をおっしゃいますか!大切な相棒のことなら知っていて当然です!……と言いたい所なんですが、先日渡した小型カメラ!これに音声が入っておりまして!」
「……えっ」
「いやぁ!本当は杉浦氏から直接ご報告を聞きたかったんですがどうしても我慢できなくて!今言ってしまいました!ウヒヒ!」
「九十九君、ちょっと……」
「本当におめでたい!ボクの大切な仲間である杉浦氏とさんが恋人同士になるなんて!素晴らしい!最高!尊い!」
「九十九君ってば!!」
「はい!なんでしょ?」
「その音声データって、いまどこにあるの」
「ボクのPCの中にあります。永久保存版ですぞ」
「今すぐ消して」
「嫌です。言ったでしょう永久保存版だって」
「消して!!」
「嫌です!!」
END
(2022.8.11)