※自死願望の描写有り
青空の果て - 1
女子更衣室に行くふりをして体育の授業をさぼった。鍵のかかっていない屋上に出ると強い日差しに目が潰れそうになる。雲一つない青空を見ながら、ここから飛び降りて死ぬには絶好の日なのかもしれない、なんて考えた。
悪ぶって吸い始めた煙草はあまりにも不味すぎて三秒でやめた。お酒なんかよりもジュースの方が美味しいし、薬に手を出す勇気もなかった。私は不良になろうとしていた。不良になれば誰かに批判され、私の存在を殺してくれると思ったからだ。お前なんか生きる価値のない人間だと誰かに言われたかった。
屋上に設置されているフェンスは事故防止のためかとても背が高い。これを乗り越えるためにはまるでロッククライミングのようによじ登らなければならないだろう。網目の間に指をかけ、向こう側の景色を眺める。ここから飛び降りたらきっと痛いだろうな、怖いだろうなと思うと心臓を掴まれるような気分だった。不良になりたくても不良になりきれない私は、死にたいくせに死ぬ勇気がないというどこまでいっても愚図な存在だと思う。
「さん、なにしてんの」
背後から急に声が飛んできて思わず振り返る。そこには見覚えのある人物が突っ立っていた。同じクラスの寺澤文也くん。寺澤くんは眼鏡を日差しでキラキラとさせながら、私をジッと見つめているようだった。“ようだった”というのは、その反射のせいで寺澤くんの表情が見えなかったためだ。
「別に……」
ただそれだけを口にして、すぐに前に向き直る。今は授業中のため寺澤くんもさぼりなのだろうかと考えながらも、はやくここではないどこかへ行ってくれないかなと思っていた。私と寺澤くんは同じクラスというだけであまり話したことはないし、たいして接点もあるわけではない。そんな彼と二人っきりなんて気まずいにもほどがある。
背後から足音が聞こえる。屋上の出入り口に向かって欲しいと思ったが、私の希望に反して足音がどんどんとこちらに近付いてくるのが分かる。自分の隣に寺澤くんが立ったことが気配で分かった。
「僕、てっきり死のうとしてるのかと思ったんだけど」
小さく息を飲んだ。授業をさぼり、屋上のフェンスに片手をかけながらぼんやりと空を見ていただけなのに、何故そう思われたのかが分からなかったからだ。クラスでは空気、もしくは教室の壁扱いの私の気持ちを言い当てたのは彼が初めてだった。
「寺澤くんこそなんでここに?今は授業中でしょ」
問いに深い意味はなく、ただ沈黙を作りたくなかっただけだった。寺澤くんは呆れたような声で「つまんないからさぼろうかと思って」と言った。その「つまんないから」という言葉に私は同意を覚え、首を縦に振りたくなる。
「わかる。何しててもつまんなくて、生きてる意味あるのかなとか思っちゃう」
「なんだ。さん、やっぱり死のうとしてたんだ」
うっかり口にしてしまった「生きてる意味」という言葉を寺澤くんに指摘され、しまったと思う。しかし寺澤くんはゆっくりと口角を上げて弱く笑った。追及するわけでも咎めるわけでもなく、ただ笑ってくれた。私にはその笑顔がひどくまぶしかった。
「僕もさ、進路も決まってないし、なにをしたいのかもどうなりたいのかも分かんないしで、もうどうしよっかなーって感じ。それでも死のうと思ったことは一度もないけど」
寺澤くんが空を仰いだ。強い風が吹き髪が大きく揺れる。寺澤くんは額のあたりに手を添えながら、眩しそうに目を細めた。
「まぁ、とりあえず生きてみたら?そのうち見つかるかもしれないじゃん。生きる意味みたいなやつがさ」
私はその言葉に、胸が熱くなったわけでも感銘を受けたわけでもなかった。ただ、心の中で主張していた死ぬ理由に“もや”がかかり、ぼやける。ここから飛び降りて死ぬよりも、寺澤くんが言った「とりあえず生きてみたら?」という言葉を実行したくなってしまった。
あの時寺澤くんが屋上に来なければ私はこの世にいなかったかもしれない。いつか寺澤くんが私の手を引いて、屋上も学校もこの街すらも抜け出して、誰も知らないどこかへ連れ出してくれないかと夢見ていた。私にとって寺澤くんは救いの手を差し伸べてくれた大切な人だった。彼にそんなつもりはなかったとしても、彼がいつか私を忘れてしまっても、それは一生変わらないことだと思っていた。
それからしばらくして、寺澤くんは学校を休みがちになった。成績はそこまで悪くなかったため卒業するための単位を落とすことはなかったようだったが、寺澤くんは卒業式に出席しなかった。
式が終わったころ、名前も顔も知らない女子生徒が、男子生徒に第二ボタンを貰っている光景を目の当たりにした。なんとなく、本当にただなんとなくその二人に自分と寺澤くんを重ね合わせる。
気が付けば私は寺澤くんの自宅前に立っていた。住所は担任教師から聞いたので咎められはしないだろうし、ここへは卒業の挨拶をしにきただけだ。寺澤くんの顔を見て「今までありがとう」だとか「元気でね」だとか、そんなありきたりの言葉を彼に聞かせたいだけだった。
寺澤くんのお母さんはとても綺麗な人だった。恐らく私の母と歳は近いのだろうがずっと若く見えた。とりあえず玄関で頭を下げて挨拶をする。おばさんは私がクラスメイトだと知ると寺澤くんを呼びに行ってくれたが、しばらくしてから眉尻を下げ困ったような顔をしながら戻ってきた。
「ごめんなさいね。あの子、最近部屋から出てこなくて……」
おばさんは笑いながら言ったが、その表情は悲しさを隠しているように見えた。私は家にお邪魔し、寺澤くんの部屋の前まで行かせてもらった。「お茶とお菓子持ってくるわね」と笑いかけられ「すぐ帰るのでおかまいなく」と言ったが、おばさんは私の声が聞こえなかったのかリビングがあるであろう方向へと消えて行った。
ふう、と軽く息を吐き、気持ちを落ち着かせてからドアを数回ノックする。
「寺澤くん、私、だけど」
すぐに名乗ったが応答はない。ドアの向こう側からは物音のひとつもしなければ人の気配も感じられなかったため、本当に寺澤くんが居るのかどうか疑いたくなってしまう。事前に考えていた「今までありがとう」や「元気でね」などの言葉も出てこず、下口唇を噛む。
「寺澤くん、第二ボタン……、くれない?」
気が付けばその言葉を口にしていた。後悔などしなかった。名前も顔も知らない生徒が第二ボタンを貰っていた光景を思い出す。私も“あれ”になりたいと思ってしまった。このままさよならするならば、寺澤くんと一緒にいた何かしらの証が欲しかった。
数秒待っても反応はなく、目の前にあるドアは沈黙を続けている。私は小さく溜息をつき、その場から立ち去ろうとした。その時だった。急にドアが開き中から寺澤くんが顔を出す。上下スウェットのラフな格好で、いつも通りの長い前髪を揺らしていた。
「……こんなもの、貰ってどうするの?」
寺澤くんはそう口にして、こちらに手を差し出す。そこにはハサミで綺麗に切り取られたのであろう第二ボタンらしきものが乗っていた。それをゆっくりと受け取り、顔を伏せながら自分の手のひらの中に収める。妙にあたたかく感じたが気のせいだったかもしれない。
「さんは、生きる意味、見つかった?」
その声に伏せていた顔を上げた。寺澤くんは照れているのか、こちらから目をそらし頭を軽くかいている。その様子がおかしくて少し笑った。
「寺澤くん」
質問に答えずに名を呼ぶと、寺澤くんはこちらを真っすぐに見ながら「なに?」と返事をする。
屋上で「なにしてんの?」と声をかけられた時、私は確かに寺澤くんに救われた。あの瞬間から今日までずっと、私は寺澤くんが好きだったのだと、たった今やっと気が付いた。
「ありがとうね、今まで」
寺澤くんが好きだということも、問われた「生きる意味」についても何一つ口に出来ず、出てきたのはお礼の言葉だけだった。貰った第二ボタンを握りしめ、私はその場から小走りし、家を飛び出す。自分が何処に向かっているのかも何処へ帰るべきなのかも分からず、見慣れない道をある程度走ってから立ち止まった。
いつかもし、再び寺澤くんに会うことがあるとしたら、その時までに私は「生きる意味」を見つけ出せるだろうか。そんなことを考えながら空を仰ぐ。雲一つない青空はあの日の屋上の光景を思い起こさせた。
その後、寺澤くんがどうしたのか私は知らない。何処で何をしているのかも知る術はなく、私は未練がましくもあの日彼から貰った第二ボタンを何年も捨てることが出来なかった。
それから時が過ぎるのは本当にあっという間だった。『光陰矢のごとし』とはこのことを言うのだろう。過干渉の母から距離を置きたかった私は実家を出て一人暮らしを始めた。高校を卒業してから十年近い年月が経ったが何回か引っ越しもし、親には連絡先を教えていない。私はいつの間にか三十路手前の年齢になっていた。
いま住んでいるのは横浜の伊勢佐木異人町だ。神内駅の南口方面は夜遅くまで営業している飲食店や性風俗のお店が多く立ち並び、あまり治安が良いとは言えない。しかし私が住んでいる北口方面は中華街や浜北公園など観光できる場所も多く比較的平和だ。整備された美しい街並みを見るたびに、ここに引っ越してきて良かったなと思う。
そんなある日のこと。どんな方法を使ったのかは知らないが、私の連絡先を入手した母が電話をかけてきた。母は電話口で「あんたもうすぐ三十でしょ」「結婚はどうするの」「彼氏は居ないの」「早く子供を産まないと」とまるで機関銃のように私に言葉をぶつけてきた。
これだから母に連絡先を教えたくなかったんだと思いながらも、私は何も言い返さなかった。恐らく母は“女は結婚して家庭を持ち、子供を産んで母親になるのが最上級の幸せ”と思っているんだろう。私から言わせればそんな価値観などは古臭い過去の遺物だ。
「アンタって子はホント、死んだお父さんに似て呑気なんだから。そんなことだろうと思ってね、お母さんがお見合いの話を取り付けてやったわよ。一度こっちに帰ってきなさい」
一瞬、何を言われたのかが理解出来ずに言葉を失う。そんな私に気付くこともなく母は電話口で「アンタでも知ってる有名な企業に勤めてる人でね、年収なんかすんごいんだから。この人と結婚したらアンタ間違いなく幸せになれるわよ。お母さんが友達のツテで見つけて来てあげたんだから感謝しなさいよねまったく」と、延々とマシンガントークを続けている。
「ちょっと?もしもし??聞いてるの?」
母の高く不快な声が響く。実家に帰るなんて御免だし、お見合いをするなんてもっと御免だ。大体私のような口下手で結婚願望も家庭的要素もゼロの女など相手だってすぐに断りたくなるに決まっている。
「私、付き合ってる人、居るから。お見合いなんて出来ないよ」
口から出たのはたった今思い付いた適当な嘘だった。母は黙り込み、痛いほどの沈黙が流れる。もしかしてこの嘘は有効だったのかもしれないと期待していると、大きなため息が聞こえてきた。
「連れてきなさい」
「……え?」
「え?、じゃなくて。アンタの彼氏よ。ウチに連れて来て会わせなさい。お茶菓子用意して待ってるから。いつが良い?来週?来月?来年なんて悠長なこと言わないでよね。女ってのにはタイムリミットが……」
「ちょ、ちょっと待ってよ!急にそんなこと言われても……」
「急じゃないわよ!あんた自分がいくつか分かってるの!?いいから連れてきなさい!都合の良い日が分かったら連絡ちょうだいね!それじゃ!」
この間たったの数十秒だった。母の言葉を遮ろうにもそれは叶わず、通話はいつの間にか切断されていた。先ほどまで母のうるさい声を発していた電話口からは何も聞こえなくなる。
私はスマホをソファに放り投げると、そのまま座り込んで頭を抱えた。母と話すといつだって頭が重く、痛くなってくる。お見合いをするのが嫌で恋人が居ると嘘をついたところまでは良い。しかしこんな急に「連れてこい」と言われるとは思わなかった。私の読みが甘かった。
本当は恋人など居ないということが分かれば母は無理矢理にでも私にお見合いを受けさせるだろう。もし母からの着信をブロックしたとしても、あの人のことだ。電話番号などから辿って私の住所を割り出し、ここまで押しかけてくる未来が見える。私は盛大な溜息をついた。幸せがいくつも逃げていくような感覚がする。
ふと、寺澤くんの顔が思い浮かんだ。あれから十年経つというのに未だに彼への想いを引きずっている自分を滑稽に思う。誰がどう見ても“イタイ”女だ。しかし、私にとって寺澤くんとの想い出も第二ボタンも、自分自身を保つための大切なものだった。これがあればいつでも寺澤くんを思い出して、つらいことや悲しいことも乗り越えられるような気がしていた。想い出のなかの寺澤くんが私の心の支えだった。
その時、ぎゅう、と自分のお腹が小さく鳴る。そういえば昼食をまだとっていなかったことに気付いた。近くにあったパーカーを羽織り、財布だけを持って家の外に出る。考えることは山ほどあるが、とりあえず今はお腹を満たしたい。そう思い、神内駅の方へと歩いた。足取りはひどく重たかった。
以前から入ってみたいと思っていたカフェに立ち寄り、おしゃれなサンドイッチを食べ、香りの良いコーヒーを飲んだ。席から見える大きな窓からは、異人町を行き交うスーツや制服たちが見える。あの一人ひとりも私のように悩みを抱え、毎日を一生懸命に生きているのだろうかと思うと、少しだけ切なくなる。
美味しい物を食べれば少しは気分も晴れるかと思ったが逆に落ち込んでしまい、私は早々にカフェを後にした。家に戻って母とのことを考えなくてはならない。先ほどと同じように重すぎる脚を引きずるようにしながら歩く。すると、とある店先に貼ってあるチラシが目についた。
「横浜……九十九課……?」
大きな文字で書かれている名前らしきものを声に出して読み上げる。どうやらそれは新しく出来た探偵事務所の広告のようで、浮気・不倫調査、素行調査、ストーカー対策、ネットトラブル対策などなど、それらしく聞こえる文字が羅列されている。
私は探偵について詳しく知らないため、どんな仕事をする職業なのかが良く分からない。そしてふと、恋人のフリをする、というような依頼も受けてくれるのだろうかなどと考える。チラシに掲載されている簡易地図を見ると事務所はどうやら伊勢佐木ロード付近に構えているようで、今いる場所のすぐ近くだった。
私の足は無意識に横浜九十九課に向かっていた。気が付けば事務所が入っているビルの前に立っていて、少し高い位置に設置されている看板を見上げる。どうやら二階にあるらしい。黒地に白い文字だけのシンプルな看板は洒落ているように見えるが、若干とっつきにくくも感じる。
ゆっくりと瞬きをして看板を見ていると、我に返った。そもそも探偵事務所に恋人のふりを依頼する人間なんかいないだろう。こういうことは例えばレンタル彼氏などのサービスを利用するほうが手っ取り早いはずだ。何故そのことにもっと早く気付かなかったのだろう。私は来た道を引き返すため看板を見上げていた首を元に戻し、前を見た。
「うちの事務所に何か?」
耳に心地よい、優しい声が響く。看板を凝視していたことを誰かに見られていたということに気が付き、私は恥ずかしくなって目が泳いだ。そのせいで声の主を視界に入れるまでに時間がかかってしまう。私に声をかけたのは明るい髪色の好青年だった。
「あ、もしかしてお客さん?ご相談ならいつでもどうぞ!何なら今からでも大丈夫ですけど」
男性はそう言って笑いかけた。
私には、彼がどこの誰なのかがすぐに分かった。黒髪ではないし、前髪は短くなっているし、眼鏡もかけていない。それでも私にはすぐ分かった。声も話し方も立ち方も笑顔も、寺澤くんだった。いま私の目の前に立っているのは確かに、あの寺澤文也くんだった。