青空の果て - 2
寺澤くんは私に気付いていないようだった。当然と言えば当然かもしれないが、私は少し寂しさを覚えた。エレベーターで二階に上がって見た事務所は想像以上に洒落ていて、木目やレンガを基調とした壁や床が美しかった。置いてある家具は茶や黒に統一されていて、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
私は手前にあったソファに座るように促され、テーブルにコーヒーの入ったマグが出される。その湯気をぼんやり見つめていると、いつの間にか目の前に寺澤くんと、もう一人、髪の長い眼鏡をかけた男性が腰を下ろして私を見つめていた。
彼は自身を「九十九誠一」と名乗り、この事務所の所長なのだと自己紹介をした。九十九さんから丁寧に名刺を出され受け取ると、隣に居た寺澤くんも同じように私に名刺を差し出す。そこには寺澤ではない、知らない苗字が記されていた。
杉浦文也。下の名前は同じだが苗字が違う。男性で苗字が変わる事情を考えるならばご両親の離婚、もしくは養子に入ったなどが一般的だろうか。可能性はいくらでもあるため考えても仕方がないと思った。
「まず、こちらにあなたの情報をご記入いただけますか。個人情報はお守りしますのでご安心くだされ」
九十九さんが一枚の紙を差し出した。それはプロフィールシートのような物で、氏名や電話番号などを記入する項目がある。ボールペンを借り、名を書こうとした手が一瞬止まった。ここで寺澤くん、もとい杉浦さんが私の名を見た瞬間に気付いたりすることはあるだろうか。ほんの少しの怖さと、とてつもなく大きな期待が混ざり合い、胸を満たす。
しかしそれは要らぬ心配、そして無駄な希望だった。シートに記入された“”という私の名を見ても杉浦さんは眉一つ動かさなかった。それどころか「さんだね」と私の名を口に出して呼んだ。顔を見ても名を見ても私は気付かれなかった。完全に忘れているのだろう。寂しさを感じつつも、高校を卒業してからもう十年の時が経っているし無理はないだろうと自分を納得させた。
「それで……、ご相談と言うのはどういった内容でしょうか?」
肩を落としていた私の顔を覗き込むようにして九十九さんが問う。私は先ほど自身に起こったことを事細かに話した。たったいま自分が三十路手前の年齢であること。母から結婚するようにせがまれていること。私に結婚する気持ちがないということ。母が勝手にセッティングしたお見合いをさせられそうになっていること。母に恋人が居ると嘘をついてしまったこと。そして一番最後に重要な「お前の恋人を家に連れてきて会わせろ」と言われてしまったことを話した。
「ふむ、なるほど。つまり“恋人のフリをしてほしい”というご依頼ですね」
九十九さんは理解力が高いのか、話を聞いてすぐに依頼内容を把握したようだった。そもそも探偵事務所に相談に来ているのだから、“恋人のフリをしてほしい”という内容を真っ先に伝えるべきだったのかもしれないと後悔をする。
そこでふと考えた。九十九さんはすぐに私がしてほしいことを読み取り、汲んでくれたが、そもそもこんな“恋人のフリをしてほしい”などという依頼をする人間などいるのだろうか。この事務所へ入る前にも考えたことだが、こんなことはレンタル彼氏のようなサービスを利用する方が手っ取り早いだろう。どう考えても場違いな気がした。
「あの、わたしやっぱり……」
大丈夫です、忘れてください。そんな言葉を口にしようと顔を上げると、九十九さんと杉浦さんは顔を合わせ、それぞれが何かを考え込むような表情をしていた。
「そうだなぁ。一日だけ恋人のふりをするくらいは余裕だけど、少しはリアルっぽさを出せるようにしておきたいよね」
「確かに。お話を聞く限りはとても勘の鋭そうなお母上ですから、怪しまれたら最後、痛い所を次から次へと突かれてしまいそうですな」
まるで私を無視するかのように二人だけの世界が目の前に広がっていた。誰がどう聞いてもやる気に満ち溢れている会話内容が聞こえて来て、思わず「ちょっと待ってください」と大きな声を上げる。九十九さん、杉浦さんが同時にこちらを見た。
「う、受けてもらえるんですか?こんな、馬鹿馬鹿しい依頼……」
身を乗り出しながら言うと、九十九さんも杉浦さんも目を丸くして私を見た。ほんの少しの沈黙と二人の視線が顔に突き刺さり、痛い。杉浦さんが不思議そうな表情をしながら首を傾げた。
「馬鹿馬鹿しくなんてない。だって本気で悩んでるんですよね?だからここに来たんでしょ?」
あっけらかんと言う杉浦さんに、あの日の寺澤くんを思い出した。彼は私を覚えていない。それでも良かった。十年経った今でも寺澤くんは私にとって救いの手を差し伸べてくれたヒーローだったのだなと改めて感じる。
よく見ると、杉浦さんも九十九さんも真剣な顔をしていた。恋人のフリをしてほしいなどという間抜けでふざけているように聞こえる依頼ですら真面目に聞いてくれる彼らに申し訳なさを覚えつつも、とても嬉しかった。他人からは心底どうでもいいと思われる悩みを親身に聞いてくれる。そんな探偵という職業は素晴らしい仕事なのかもしれないと感じた。
涙が出そうになったが、ここで泣いてしまっては変に思われると感じ、堪える。私は顔を伏せて声を絞り出すようにしながら「ありがとうございます」と呟いた。
「では、恋人役は杉浦氏に任せます。ボクも全力でサポートしますぞ。まずは基本的な情報をさんにお聞き致したく……」
九十九さんの言葉でこぼれそうになっていた涙が引っ込む。伏せていた顔を勢いよく上げると、九十九さんの言葉を遮るように「え!?」と大きな声を上げた。再び二人分の視線がこちらに集中する。
「す、杉浦、さん……が、恋人のフリ、するんですか?」
杉浦さん、という呼び方に違和感を覚え話し方がぎこちなくなってしまった。杉浦さんは挙動不審になっているであろう私を見るなり眉を上げ、目を丸くしていた。
「当たり前でしょ。だってこの事務所、メンバーは僕と九十九君しか居ないもん。体張る担当は僕なんで」
確かにここへ来た時、私を迎え入れてくれたのは九十九さんと杉浦さんの二名のみ。だからと言ってこの事務所にメンバーが二人しか居ないなんて思わないだろう。軽くパニックになっていると、自分が座るソファのすぐ隣のスペースが沈み込み誰かが腰を下ろしたことが分かる。その方向に目をやると杉浦さんが居た。
「そうだなぁ……。じゃあ君のことはさんって呼ぶから。僕のことも下の名前で呼んで」
こちらに身を寄せながら言う杉浦さんは、恐らくその気はないのだろうが私には妙に艶めかしく見えた。一瞬にして自分の顔と体に熱が走り、妙な汗が噴き出る。
「ちょっと。恋人のフリするのにこれくらいで赤くなってどうするの」
杉浦さんはそう言って困ったように笑った。先ほど事務所前で杉浦さんを見た時はあまり変わっていないなと感じたが、歳を取って大人になり、以前よりも人懐っこくなったのかもしれない。あの頃、眼鏡越しに見ていた彼の瞳は光の反射に邪魔をされていたが、今は遮る物が何もない。整った顔が私には刺激が強すぎて、思わず目をそらしてしまった。
私は一先ず彼を「文也“くん”」と呼ぶことにした。母と会う日程はまだ決まってないため後日打ち合わせを行う約束を取り付け、今日のところは自宅へ帰ることにした。少し外に出るだけと思っていたので、化粧も服装も髪型も適当だった自分にたったいま気が付き、恥ずかしい気持ちになる。
「ありがとうございました」と口に出しながら頭を下げる。そのままそそくさと事務所を出ようとしていた時、背後から呼び止められた。
「待って。せっかくだし送るよ」
「せっかくだし」という言葉は、これから恋人のフリをするのだからある程度の親睦を深めておこうということなのだろう。まだ明るい時間帯ではあるが文也くんからの申し出を断る理由もなかったため、私は何も言わなかった。
エレベーターに乗り、地上階に出た。二人の間にある沈黙が気まずさを増長させているように感じ「わざわざありがとうございます」と口にする。自宅方面に歩き出そうとしたその時、文也くんが私の腕を掴んだ。
「さんさ、とりあえずその敬語やめない?そんなんじゃすぐに本当の恋人じゃないってバレちゃうよ」
文也くんはそう言って、手を下の方へと移動させる。そして手のひらを優しく包み、指を絡ませるようにして握ってきた。いわゆる恋人同士がするような手繋ぎに、自分の顔に火がついたのではないかと思うほどに熱くなる。呼吸が浅くなり苦しさを感じた私は、口を閉じたり開いたりを繰り返して必死に呼吸をした。
そんな私に構うことなく、文也くんはそのまま歩き出す。手を引かれ、前のめりになりながら歩く私はさしずめ文也くんに連れられるペットの犬のようだ。
「す、すみません、ちょっと、あの、早い……」
「ほらまた敬語。お母さんを騙すんだよ?本気なら僕の言うこと聞いて、敬語やめてよ」
私が抗議しても文也くんが立ち止まることはなかった。心臓は今までにないくらいにうるさいし、握られている手のひらは熱く、汗がひどい。文也くんが私と真摯に向き合い仕事をこなそうとしていることは分かっていた。照れたり躊躇したりしていないで私もちゃんと向き合うべきなのかもしれない。
「ふ、文也、くん、もう少しゆっくり歩いて。転んじゃう、から……」
勇気を出して彼の名を呼んでから、敬語を消した。声は小さかったし途切れ途切れだったため私が焦っていたことは伝わってしまっただろう。文也くんはその場に立ち止まり、引っ張られていた私も同じように立ち止まる。見上げた顔はとても優しい笑顔だった。
「うん。分かった」
文也くんは何故か嬉しそうな明るい声でそう言って、繋がった手を解かぬままゆっくりと歩き始めた。自然と横並びになり、先ほどよりも近い距離に心臓の音が大きさを増す。自宅までの道のりはそこまでではないが、このままでは自分の心臓が壊れてしまうのではないかと感じ、早く着いて欲しいと考える。
文也くんの横顔をほんの少しだけ盗み見た。綺麗に通った鼻筋も、少し下を向いている優しい目尻も、あの頃と全く変わっていない。あの頃の文也くんは黒髪だったが、明るい髪色も似合うのだななどとしみじみ思う。
高校を卒業してからの十年間、彼はどんな風に生きてきたのだろう。私はただ想い出の中に居る“寺澤くん”に想いを馳せ、何の目的もなく生きて来た。生きる意味とやらもまだ見つかってはいない。想い出という物はいつだって無駄に美しく尊いものだ。文也くんが私のことを忘れてしまっても、私にとってはいつまでも心の支えだった。
しばらく歩くと私の自宅マンションの前に到着した。文也くんは物珍しそうにマンションを見上げ、日差しに目を細めていた。敬語を使わないように気を付けながら「送ってくれてありがとう」と口にして軽く頭を下げると、繋いでいた手を解く。すると文也くんはどこか妖しい笑顔を見せた。
「ねぇ、来週、どこか暇な日ある?デートしようよ」
まさかの誘いに言葉を失う。私が依頼したのは「母と会うことになっている一日だけ恋人のフリをしてもらう」ということだけだ。文也くんが仕事に真面目であることはなんとなく分かっていたが、過剰な気もしてしまう。
「デートって……、そ、そこまでする必要はないと思うんですけど……」
「何言ってんの。敬語が出ちゃってるうちはもう少し仲を深める必要があると思うけどな、僕は」
うっかり出てしまった敬語を指摘され、思わず口元を手でおさえる。文也くんの言うことはもっともだと思い、何も言い返せない私は思わず顔を伏せて自分の足元を見た。
「さん」
頭上から文也くんの声が降ってきて、心臓が口から飛び出るのではないかと錯覚するほどに跳ね上がった。顔を上げる勇気がなく、そのまま下を向き続ける。
「デートの日にちはまた後で決めよう。今夜連絡するから。それじゃあね」
文也くんは私の頭の上に手を乗せると、そこを数回ほど軽く叩く。立ち去る足音が聞こえ、私はやっと顔を上げた。文也くんの背中があっという間に小さくなっていくのが見える。
十年間、想い出の中に居続けた大好きな彼に名を呼ばれた。そして、ほんの十数分ではあるが、まるで恋人のような時間を過ごした。どうやらこれはあともう少しだけ続くらしい。私は自分の身に起きたことを現実だと受け止められる気がしなかった。