あるいは裏切りという名の愛 - 1
「ほら、行くよ!カラベラ!」
彼は大きな声で私の仮の名を呼んだ。ビルとビルの隙間を飛び越え着地した際にバランスを崩し、倒れ込みそうになった体を引っ張り上げられる。背後からは私たちを追う警察官が迫っていた。体勢を立て直し、そのまま二人並んで走る。大丈夫、ジェスターとカラベラなら逃げられる。私の心の中には常に何の根拠もない確信があった。
あの頃、私の名前は『カラベラ』だった。もちろん本当の名前じゃない。窃盗団はそれぞれが個性ある仮面をつけ、それに由来する名で呼び合う。私はいわゆるメキシカンスカル、つまり頭蓋骨を模した仮面をつけていたため『カラベラ』と呼ばれていた。
私とジェスターは助け合って生きていた。警察に追われた時はお互いに協力しどちらかがおとりになったり、怪我をすれば手当てをし合ったりした。いつだったか、廃墟になった誰もいないビルの屋上で他愛ないお喋りをしていたら雨に降られ、二人でびしょ濡れになったことがある。ジェスターは視界を覆い隠すためかジャケットを脱いで私の頭に被せると、ひっそりと仮面を外した。まるで犬かのように頭を振り、髪やフードについた雨粒を振り払っていた。私はジャケットの隙間から彼の素顔を見た。とても綺麗な顔をしていた。
「あー、ちょっとカラベラ、見たらダメでしょ」
「違う、見たんじゃない、見えちゃったんだよ」
ジェスターは素早く仮面をつけ直すと、ひねくれた返答をした私に向かって手を伸ばしてきた。
「じゃあお返しに、カラベラの顔も見せてよ、ほら」
「ちょっと、やめて」
私は逃げるように身を退いた。ジェスターは追い掛けるようにさらに腕を伸ばしてきて、私の頭を掴むように捕らえるとそこを優しく撫でた。無理矢理にでも仮面を引き剥がされると思っていた私は拍子抜けした。ジェスターは仮面越しに笑っていたようだった。彼の優しい笑い声と、濡れた手のひらの感触と、眼下に広がる神室町のネオンが、数年経った今でも忘れられない。
ジェスターにとって私はただの仲間でしかなかったとしても、私にとってジェスターは全てに等しかった。運動神経も抜きん出ており、頭もキレるため窃盗団では中心人物となっていたジェスターを私は心から信頼し、そして慕っていた。ずっとジェスターのそばに居て、いつか彼の目の前でこの仮面を外して素顔を晒し、本当の名を呼ばれることを夢見ていた。しかし、それが果たされることはなかった。
彼はある日突然、私の前から姿を消した。予告もなく、理由も語らず、さよならすらも言わずに。その日からジェスターの行方は誰にも分からなくなった。
私はジェスターが好きだった。彼が居なくなった時にそれをはっきりと自覚した。そして同時にジェスターが憎くてたまらなくなった。『なんで急にいなくなったの』。『なんで何も相談してくれなかったの』。『どうして私も一緒に連れて行ってくれなかったの』。ぶつける相手の居ない疑問が頭を埋め尽くした。
無気力になった私は誰からも必要とされず、窃盗団から追い出されることとなった。後に窃盗団はあっさりと解散になったと風の噂で聞いた。私は大好きな人と唯一の居場所をほとんど同時に失った。
それから私はジェスターを探し始め、しばらくしてから彼の本当の名前が『杉浦文也』であることを知った。 素人である私にはたった一人の男を探し出すことすらも難しく、無駄に時間がかかってしまった。彼は今現在横浜に移り住み、探偵業を営んでいるらしい。
ジェスター、いや、杉浦文也は私のことなどもう忘れている。窃盗団だった過去は捨て、今は横浜で探偵として生きている。そんな彼が憎くてたまらなかった。同時にジェスターにまた会いたいとも思っていた。会って、顔を見て、あの日のように頭を撫でて欲しかった。でもそれは叶わない。何故なら彼はもうジェスターではなく杉浦文也で、私はもうカラベラではなくだからだ。
横浜九十九課を訪ねたのは、よく晴れた日の午後のことだった。エレベーターで事務所のある階まで行くと、まるでカフェかのようなお洒落な空間が広がっていた。入口付近の床には事務所のロゴらしき物があり、自分が想像していた如何にもな“探偵事務所”とはまるで違っていた。
「こんにちは。ご予約はされてます?」
出迎えてくれたのは一人の男性だった。それは数年前に一度だけ見たことがあり、私の頭と心に焼き付いて離れない顔だった。彼は私を覚えてはいない。当然だ。彼は私の本当の顔も本当の名前も知らないのだから。
「こんにちは。わたくしフリーでライターをしております、と申します。こちらに所属していらっしゃる杉浦文也さんにお話を伺いたく参りました」
白々しく『杉浦文也』という名を口にし深々と頭を下げる。すぐに顔を上げると、ジェスター、いや、“杉浦”は目を丸くしてこちらを見ていた。
私の中で彼に対する愛おしさと嫌悪感が混ざり合い、頭がおかしくなりそうだった。『今度は私があなたの居場所を奪ってやる』。『あなたにずっと会いたかった』。心の中で独り言ちる。私の逆恨みも甚だしく、それでいて正反対な好意を知ったら、彼はどんな顔をするのだろうかとぼんやり考えた。
私の作戦はこうだ。まずフリーライターを自称し取材を装ってジェスターに近付く。そして情報を集め身辺調査をし、元窃盗団であるという決定的な証拠、それこそ物証や証言などを掴んだらそれを出版社に売りつける。ジェスターは異人町では『イケメンの探偵』としてそれなりに顔が売れていると耳にした。どこかしらの三流出版社がゴシップ記事を書いてくれる可能性は高いだろう。そこまでセンセーショナルな記事にならなくてもいい。そこまで沢山の人の目にとまらなくてもいい。ただ『元窃盗団』だと言うことを周囲に知らしめ、彼が私の元へ戻ってきてくれるならそれで良かった。
杉浦は私をとりあえずは客人扱いとしたらしく、来客用のソファに座るように促された。一杯のコーヒーが目の前のテーブルに出される。杉浦のすぐ後ろから眼鏡をかけた長髪の男性が顔を出し、二人はアイコンンタクトをした。事前に調べた情報によれば、恐らく彼がこの事務所の所長である九十九誠一だろう。
「それで、僕に話って何ですか?」
怪訝そうな顔をしながら、使い慣れていないのであろう敬語で杉浦が言う。私はバッグから名刺を取り出すとそれを見やすいようにテーブルの上へ置き、出来るだけ穏やかな表情を心掛けて話し始めた。
「はい。わたくしは異人町で発行している小さな情報誌でコラムをやっておりまして、地元の有名な人物やお店の記事を多く書いております。こちらの横浜九十九課は異人町ではとても評判の良い探偵事務所だと存じてまして、特に調査員の杉浦さんのお仕事ぶりが素晴らしく『イケメンの探偵』として話題になっています。今回是非、杉浦さんの記事を書かせて頂きたいと思い取材を……」
「申し訳ないですが、お断りします」
話を途中で遮るように杉浦は声を上げた。私は思わず「えっ」という間抜けな声をもらす。杉浦の目はまるでこちらを睨んでいるようで、軽蔑の感情が混ざっているように感じた。九十九さんは特に戸惑うような様子を見せなかったものの、どこか寂しそうな目で杉浦を見ていた。
「僕そういうの、興味ないので」
杉浦はソファから立ち上がり、こちらを見下ろす。まるで厄介者を払うかのようなその態度に私も思わず立ち上がった。
「あの、もう少し話だけでも……」
「もう話すことはないです。すみませんが、帰ってください」
「ちょっと、待ってください。あなたの記事が出ればこちらの事務所の宣伝にもなると思いますし、悪い話ではないはずです。もう少しご検討を……」
食い下がって言うと、杉浦は眉間の皺を深くし鋭い目つきで私を見た。先ほど感じた軽蔑の感情が色濃くなったように見える。私は思わず途中で言葉を飲み込み、口を閉じた。
「最近ではどこに行ってもワーワー言われるし、勝手に写真とか撮られるし……、『イケメンの探偵』とか、もう、うんざりだよ」
それは杉浦の、まるで独り言のような小さな呟きだった。敬語を使用していなかったため実際に独り言だったのかもしれない。
『もううんざり』。その言葉が妙に耳に残った。恐らく彼は探偵という職業に真面目に、それでいて真剣に向き合っているのだろう。見た目でああだこうだ言われることよりも、純粋に探偵としての評価を望んでいるのかもしれない。
すぐ隣で私たちのやり取りを見ていた九十九さんはこちらを見ながら、どこか困ったような顔で微笑む。
「申し訳ありません。うちの杉浦もこう言っておりますので……、今回はどうか、お引き取りくだされ」
九十九さんにそう言われ、ただ私は事務所を去るしかなかった。
外に出ると、眩しい太陽の光が私に突き刺さる。名刺はテーブルの上に置きっぱなしにしてきたけれど、今頃はゴミ箱にでも捨てられているんだろう。これからどうしようかと考えるも、特に何も思い浮かばなかった。
しかし諦めるわけにはいかなかった。ここで引くわけにはいかなかった。私は彼に取り入って、元窃盗団であったという証拠を掴む。彼の居場所を奪い、『あなたは私と同じ元窃盗団』だと言うことを知らしめる。そして嫌でも私を思い出させてやるんだ。ジェスターには、杉浦文也には、カラベラでありである私しか居ないのだと。
ああだこうだと考えている間にも、太陽の光は私を突き刺し続けている。まるで、高みの見物をしている忌々しい神様とやらに罰せられているような気分だった。