あるいは裏切りという名の愛 - 3

 あの日から私は杉浦に付きまとうようになった。事務所を訪ねることはしなかったものの、以前も身を隠した駐車場へ行き、出て来た杉浦の後を尾けた。もちろん彼も私の存在に気付いていた。

 自称体を張る担当の杉浦が事務所から出てこない日も稀にあった。九十九さんの事務作業を手伝っているのか、それとも他の業務があるのか、外に居る私には何も分からない。一日張り込んでやっと杉浦が出て来たかと思えば、嫌味ったらしい笑顔で「じゃあ、お疲れ様」だなんて言われたりしていた。

“僕は絶対に取材なんか受けない”

 あの時杉浦は強い口調で言ったけれど、私は諦める気などさらさらない。その日もいつものように杉浦の後を尾けた。杉浦は例のおばあちゃんの所へ行ってからそのままの足でスナック街へ行き、とある店の壊れた電気看板を直してあげたりしていた。杉浦が行う依頼の中には、それが探偵の仕事なのか?と思うようなことも多くある。探偵とは名ばかりで結局は便利屋なのではないかとも思うが、そんな話はいまさらかもしれない。

 少し離れた物陰に隠れながら、さて今日の杉浦はこの後どこへ向かい何をするのだろうと予想する。素行調査だろうか?ペットの捜索だろうか?そんなことを考えながらスナックの店員と雑談をしている杉浦の横顔を見つめていると、背後に人の気配を感じた。

「おい、ねーちゃん、何してんだよさっきっから」

 振り返るよりも先にドスのきいた低い声に問い掛けられる。恐る恐る後ろを見ると強面の男性が私を見下ろしていた。大きな体は下から見るとものすごい威圧感だ。

「あ、えっと……、いえ、私、怪しい者では……」

 何かしらの言い訳を口にしようにも上手く言葉にならない。こういういかにもなチンピラなど神室町で腐るほどに見てきているためそこまで恐怖はないが、面倒なことに巻き込まれたくはない。私は愛想笑いで誤魔化し、さりげなくその場から離れようとした。その時、男性に腕を思い切り掴まれ動きを封じられる。驚きで息を飲み力の強さに思わず怯んだ。

「暇なら付き合ってくれよ。ここいらの店は若い女の子も居ねぇから退屈でしかたねんだ」

 男性は虚ろな目を私に向ける。真昼の時間帯だというのに、男性はスナック街で飲み歩いているようだった。もしかしたら次の店は二軒目、三軒目なのかもしれない。私は呆れてしまい、これ見よがしに大きな溜息をつく。

「あの、悪いけど、私 “は” 暇じゃないんで。放してください」

 口にしたあとに、しまった言い過ぎた、と感じたけれどもう既に遅かった。男性は眉間に深い皺を寄せながら「あんだと?」と言って凄む。私の腕を掴んでいる手の力が強くなり、痛みから思わず声を上げた。

「ちょっと、やめてくださいってば。大声出しますよ」

「んだとこのアマ。やれるもんならやってみやがれ」

 強い力で引っ張られ、コンクリートの地面に引き倒されるように膝をついた。足首をおかしな方向へひねってしまい、掴まれていた腕よりも強い痛みに襲われる。周囲には助けてくれたり警察に通報してくれそうな人の姿はない。ああやばい。そう思いながら思わず杉浦の居た方向を見ると彼は既にそこには居なかった。

 変なチンピラに絡まれるわ足をひねるわ杉浦を見失うわで最悪なことばかりが重なり、大げさに肩を落としながら溜息を口から吐き出す。チンピラは相変わらず私よりもよほど大きな声で何かしらを喚き散らしていた。

 私は元窃盗団だ。警察から逃げたことなど何度もあるし、喧嘩もしたことがあるため武術の心得だってそれなりにある。いま目の前に居るような自分より何倍も大きな男を相手にするのは初めてだが、ここは身を守るためにやむを得ないのかもしれない。

 痛む足を庇いながらなんとか立ち上がり拳を構えた。男性が私に向かって平手打ちをしようと大きな手のひらを振るい下ろす。動きは鈍い。見切るのは容易だと思った。平手打ちを左腕で受け止め素早く流すと、男性の顔目掛けて右の拳を繰り出した。

 しかし、めいいっぱいの力を込めた拳が男性の顔にぶつかることはなかった。背後から私の腕を取り、動きを止めた存在が居たからだ。振り返るとそこには先ほど見失ったはずの杉浦が立っていた。

「やめときなって。それは僕の役目」

 杉浦の言葉を理解するよりも早く、彼の大ぶりな蹴りが男性の顔面にヒットする。まるで星でも飛んだのではないかと錯覚するほどの衝撃で、私はその光景を呆然と見つめるしかなかった。男性は杉浦のたった一発の蹴りで気を失ったようだった。

「ほら!逃げるよ!」

 杉浦は私の手を取って引く。恐らくこの騒ぎを聞きつけた誰かが警察を呼ぶ前に逃げよう、ということなのだろう。杉浦が走り出し、それにつられて私も同じように走り出そうとした時だった。先ほどひねった足に痛みが走り、その場に倒れるようにしゃがみこむ。

さん!?」

 驚いたのだろう杉浦は大きな声で私を呼んだ。自分の右足首に手を添える。腫れてはいないし熱も持っていないためそこまで重症ではないように思えた。しかし今この場から走り出すことは出来ないくらいの痛みがある。

 なんとなく情けなさを感じ、杉浦の顔を真っすぐに見れず顔を伏せた。

「ごめんなさい、ちょっとひねっちゃったみたいで。私は大丈夫だから。もしここに警察が来ても事情を説明すればちゃんと……」

 言い訳を口にしている途中で上から影が落ち、思わず言葉を途中で止める。顔を上げると杉浦が腰を曲げて私の顔を覗き込むように見ていた。今までにない距離の近さに息を飲む。

「じゃ、事務所まで走るから。しっかり捕まってて」

 杉浦はそう言うと、私の腰の辺りと膝裏に手を差し込み体を横抱きにして持ち上げた。何が起こったのか理解出来ず呼吸が止まる。杉浦は私一人の重さなどまるで感じていないかのように、その場から颯爽と走り出した。

「ちょっと!? え!? 待って! なにしてんの!? 下ろしてよ恥ずかしい!」

「うるさいなぁ。肩に担いだって良いんだよ? いいから怪我人は黙ってて」

 杉浦は私を押さえ込むように言うと、事務所の方向へ走った。窃盗団の頃から彼は脚が早く、私もそれを知っているつもりだった。もしかしたら昔よりも早くなっているのではないかという気さえしてくる。途中あまりの早さに何度か振り落とされそうになり、私は杉浦の首に手を回して強くしがみ付いた。

 事務所に到着する頃には流石の杉浦もそれなりに息が上がっていた。デスクに座って事務作業をしていたのであろう九十九さんは私たちの姿をみるなり漫画のようなリアクションをして驚く。

「どどどどどうしたのですか杉浦氏ィ!? まままままさか人をかっ攫って来たのですか!?」

「違う違う!この人怪我してるんだ。悪いんだけど九十九君、救急箱出してくれる?」

 九十九さんは驚きのあまり、私が以前に取材を申し込んだ記者だということに気が付いていないようだった。慌てた様子で「お待ち下され!」とだけ言うと、救急箱を探すためか事務所の奥へ行ってしまう。

 杉浦は近くにあったソファの上に私を下ろし、足をまじまじと見た。ひねったのは右足首だが、何度か地面に倒れ込んだ時に擦り傷も作ってしまったらしい。膝から薄っすらと血が滲んでいた。

「腫れてはいないみたいだけど、とりあえず冷やした方が良さそうだね」

 杉浦は冷蔵庫から氷を取り出しビニール袋に詰め、タオルで包んだそれを私の足首に優しくあてがう。彼の言う通り腫れてはいないし見た目にひどい変化も見られない。恐らくそこまで重症ではないのだろう。なんだか無駄に大げさなことになってしまったと感じ、恥ずかしい気持ちになってくる。

「うわ、膝、血が出てるじゃん。大丈夫? 後で消毒してあげるよ。救急箱が来るまでもうちょっと待ってて」

 杉浦はそう言うと、優しい手つきで私の脚に触れた。彼の穏やかな声と柔らかい指先が、昔の出来事を思い起こさせた。

 あれは窃盗団に所属していた頃、パルクールの練習をしていた私が段差につまずき、左半身のいくつかを擦りむいてしまった時のことだ。ジェスターはどこからか持ってきた救急セットで私の手当てをしてくれた。左腕、左足、それぞれの傷を数えながら「ここも怪我してる」、「こっちも血が出てる」と言い、優しく私を介抱してくれた。

 窃盗団の中で私は誰よりも未熟だった。脚も早くなかったし喧嘩も強くなかった。パルクールも上手く出来ないことが多く、メンバーには迷惑ばかりかけていた。そんな私にジェスターは誰よりも優しかった。私にとって彼は全てだった。

「……泣くほど痛かったの?」

 杉浦の声が、追憶に浸っていた私を現実へと引き戻す。その言葉でやっと自分が涙を流していることに気が付いた。

「あ、これは、その、違う。泣いてない」

「違くないよ。泣いてるでしょ」

「やめて。泣いてないってば」

 自分の頬を手の甲で拭ったけれど、涙は次から次へと溢れて来て止まる気配がない。彼の前でこんな自分を見せてしまうなんて最低だ。そう思ってもどうしようもなかった。心配そうな表情でこちらの様子を窺う杉浦を見ると、自然と目が合う。

 何故、どうして、私は彼のそばに居られなかったのだろうと今更ながらに考える。『なんで急にいなくなったの』。『なんで何も相談してくれなかったの』。『どうして私も一緒に連れて行ってくれなかったの』。ずっと持ち続けた疑問を今すぐにでも声に出して問いただしたかった。私はジェスターが居ないと生きて行けなかったのに、ジェスターは私が居なくてもこうして生きている。私のことなどすっかり忘れてこうして生きている。

 ふと気が付くと杉浦がこちらに手を伸ばして私の頬に触れていた。涙に濡れたそこを優しく拭うように手を這わせ、目を見つめる。

「正直、さんのこと見くびってた。あんなに勇ましいなんて思ってなかったよ。ちょっと見直しちゃったな」

 私の頬に触れた手の感触と顔の近さに緊張しつつも、『見直しちゃったな』という言葉は素直に嬉しかった。みっともなく濡れた目元のまま弱々しく笑って見せると、杉浦はどこか驚いたような呆けた顔をした。

さんもそんな顔するんだね。いつもそうしてれば、……可愛いのに」

 杉浦はそう言うと目を細めて柔らかく笑う。まるで自分の周りの世界が一瞬だけ昔に戻ったような感覚がした。『ねぇジェスター』。そんな風に声を掛けようとした時、奥へ続く扉が音を立てて開き、救急箱を持った九十九さんが現れる。私は言葉を飲み込んだ。

「お待たせしました杉浦氏!こちら、お使いくだされ!」

 杉浦は九十九さんから救急箱を受け取ると、再び私の足元にひざまずく。張り薬、固定具、包帯を取り出して手際よく応急処置をし始めた。それをぼんやりと見つめながら、相変わらず傷の手当ては上手なんだなと感じてしまう。

「はい、出来た」

 血が滲んでいた膝にも絆創膏を貼られる。処置を終えた杉浦はひざまずいたまま私を見上げて笑ったけれど、何の反応も出来なかった私はそのまま俯いた。杉浦は立ち上がり、私の頭の上に手を置く。

「痛みが続くようなら病院に行きなよ?」

 軽く叩くように置かれた手の平の感触と重さに、再び涙が出そうになるのを下口唇を噛んで耐えた。そういえばジェスターにはよく頭を撫でられたっけと思い出す。彼の素顔を初めて見たあの日もジェスターは私の頭を優しく撫でていた。

 私はこの世で誰よりもジェスターが大切で、ジェスターが好きなのだと改めて思い知らされた。そんな私が彼を取り戻す唯一の方法。それは彼を陥れること。私は彼が好きだ。それと同時に彼が憎い。しかし、こんな手段しか取れない自分自身のことが誰よりも一番憎いのだと、たった今やっと気が付いた。