あるいは裏切りという名の愛 - 5
杉浦に連れて行かれたのは個人経営らしき小さくも洒落た店だった。店内は薄暗く、青を基調とした照明になんとも言えない不思議な気持ちになってくる。
奥まった場所にあるテーブル席に向かい合って座ると、二人とも同じグラスビールを注文する。お通しと共にお酒が運ばれてきて、私たちは自然とグラスをぶつけ合い乾杯をした。
杉浦のほうから『もう少し君と話したい』と誘ってきたにもかかわらず彼の口数は少なかった。 ジェスターが他の窃盗団のメンバーとお酒を飲んでいる姿は何度か目撃していたけれど、私がそこへ加わることはなかった。アルコールの入った彼を間近で見るのは初めてで、なんだかこちらまで緊張してくる。
「そういえばさ……、」
あと数口で手元にあるグラスが空になるという時になってからやっと、杉浦はまるでいま思い出したかのように口を開いた。
「さっき仕事中に不倫の話をした時も思ったんだけど、さんって彼氏、……居るの?」
想像以上にストレートな質問が飛んできて面食らう。ずっと好きだった想い人に問われるのは悲しさもあった。でも、もはやその感情すらも意味がないもののように思った。
「好きな人なら……、居る。昔、大切な仲間だった。もうずっと何年も好きで、私にとっては忘れられない人」
自分でも独り言のようだと思った。呟きながら杉浦の方向が見れずに視線をテーブルへ落とす。杉浦はもうジェスターではない。そのはずだったのに、しばらく接してみて分かったのは彼が良い意味でも悪い意味でも何も変わっていないということだ。杉浦は私が大好きだった頃のジェスターのままだ。本人を目の前にして告白しているというこの状況に顔が熱くなってくる。
『好きな人なら居る』という答えに対するリアクションがなく、不安になった私はテーブルに落としていた視線を恐る恐る上げた。杉浦は私を真っ直ぐに見つめており自然と目が合う。息が浅くなるのが分かった。
「忘れられない大切な仲間なら、僕も居るよ」
杉浦はこちらを見つめているようで、私ではないどこかを見ているように思えた。遠くの記憶に想いを馳せているような、そんな表情だった。
「むかし、ずっと一緒にいた女の子。でも僕はその子を裏切った。何も言わずにその子から離れたんだ」
『ずっと一緒にいた』。『その子を裏切った』。『その子から離れた』。全ての言葉に私の心臓が反応し音と衝撃が増していく。まさか、という言葉が頭の中を埋め尽くした。
「その子の……、名前は?」
動揺をなんとか押さえ込み懸命に平然を装って訊いたつもりだった。上手く出来ていたかどうかは分からない。杉浦は私の問い掛けに対し悲しく笑う。見ていて胸が苦しくなる笑顔だった。
「その子の名前は……、知らない。変だよね。ずっと一緒にいたのに。努力家で、しょっちゅう生傷作っててさ。僕が手当てしてあげてた。他にも知ってることたくさんあるんだけど、名前も顔も分かんないんだ」
私のことだ。杉浦はいま、私のことを話している。自惚れだと言われても構わなかった。
彼が過去を語り始めたいま、『自分は元窃盗団だ』と口を滑らせるよう上手いこと誘導するチャンス。それなのに、速さを増してうるさく鳴り続ける心臓と、ひたすらに揺れ動く心のせいで何も出来そうにない。手が震え、ポケットに忍ばせたボイスレコーダーに手を伸ばすことすらも出来なかった。
「今頃どうしてるんだろ。僕のことなんかもう、忘れちゃってるかな」
「忘れてない」
杉浦の言葉に対し反射的に答えてしまった。しまったと思い強く口を閉じて下口唇を噛む。杉浦はそこまで驚いていない様子で「え?」と小さく呟いた。
「いや、あの……、忘れてない、と思うよ。裏切ったんでしょ。きっと今でも恨まれてるんじゃない?」
なるべく平静を装い誤魔化すように言う。忘れていないのも本当だし未だに恨んでいることも本当だ。私はジェスターを恨み、憎んでいる。その気持ちは今でも変わらない。この世で誰よりも彼を恨み、憎み、そして自分でもどうしようもないくらい彼が好きだ。
「そっか……。そうだよね。でも、忘れないでいてくれてるなら、それはそれで良いのかも」
杉浦は寂しそうに呟くと、グラスに残る最後の一口を流し込んだ。追加のお酒を注文するため店員を呼ぼうと軽く手をあげる彼の姿を見ながら、私は気付かれない程度の溜息をついた。
その後は他愛ない話ばかりを続け、過去の話題が出たのはそれきりだった。私は動揺を立て直すことが出来ず、言いくるめることも口を滑らせるよう誘導することも出来なかった。何をしているんだろうと自己嫌悪してもポケットにあるボイスレコーダーの録音ボタンを押すことすらも出来ない。自分があまりにも不甲斐なかった。
何杯目のお酒なのかが分からなくなった頃に私たちはやっと店を出た。杉浦は大分酔ったのかおぼつかない足取りで、隣を歩く私の肩に時折ぶつかってきた。
時刻を確認すると終電の時間はとっくに過ぎてしまっている。タクシーを使っても構わなかったけれど、ここまで来て何の収穫もなく帰るわけにはいかない。この後はどうするべきなのだろうと考えた時、私の肩に今までにない重さが加わった。
驚いて横を見ると、杉浦が私に寄りかかっていた。恰幅が良いわけではない彼でも流石に私一人で支えるには重すぎる。杉浦はまるで骨でもなくしたかのように体の力を抜いて、私に重心を寄せて来た。
「あの、ねぇ?ちょっと、大丈夫?」
立ち止まり、杉浦に声をかけるも返答はない。酔っぱらった彼をこのままここへ置いて帰るわけにもいかないし、彼の家に行こうにも私はその場所を知らない。杉浦の様子を見る限り住所を聞いても答えてはくれないだろう。
どうしようかと考えたその時、私の頭のなかに一つの場所が思い浮かんだ。横浜九十九課。もうとっくに営業は終了しているだろうが、あそこであれば杉浦も鍵を持っているだろうし確かソファもあったため休むことが出来る。
杉浦の体を半ば引きずるようにしながらなんとか大通りまで出ると、タクシーを捕まえて彼の体を車内に押し込む。運転手に「とりあえず鶴亀街道東までお願いします」と言った。
事務所前ギリギリの所まで運転手を誘導しそこで降りると、杉浦の体を引きずりながらエレベーターに乗り込んだ。事務所は全ての電気が切られており薄暗く、いつも開きっぱなしの入り口ドアは当然ながら施錠されていた。
杉浦を近くの床に座らせ上着やズボンのポケットを探る。そこからキーケースらしき物を発見して取り出すと、中から鍵の束が顔を出した。
「事務所の鍵、どれだろ……?」
独り言を呟き、それらしき鍵を入口ドアの鍵穴にさしこむ。
「さん」
この鍵は違う、この鍵も違うとやっているうち、ふと近くに居た杉浦に名を呼ばれた。まだ酔いが醒めてはいないのかドアに寄りかかり座り込んだまま、虚ろな目でこちらを見ている。
「ねぇ、事務所の鍵ってどれ?てかなんでこんな鍵持ってんの?どれがどれだか全然分かんな……」
「さん、聴いて」
私の愚痴を遮るように杉浦がもう一度名を呼ぶ。今までに聞いたことがないような低い囁きに思わず彼の方を見ると、真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「僕ね、昔、新宿の神室町で窃盗団をやってたんだ」
手に持っていた鍵を落としそうになる。まさか私が誘導などする前に彼の方から話してくれるとは思わず、口唇が震えた。
ポケットに入れっぱなしにしていたボイスレコーダーの録音ボタンは押していないが、今からでも録音を開始して『いま何て言ったの?』と聞き返し、もう一度彼の口から同じ言葉を言わせればいい。ただそれだけだ。震える手をポケットに突っ込む。録音ボタンに指をかけた。
「さっき話した、『忘れられない仲間』ってやつ。その人はね、同じ窃盗団のメンバーだったんだ」
指が固まって動かなくなる。やはり先ほどお酒の席で話していた『忘れられない仲間』というのは私のことだったのだと確信した。
「僕、ほんとは毎日思い出すんだ、彼女のこと。毎日思い出しては毎日後悔する。その繰り返し。もう……、嫌んなるよ」
こちらの返答も待たずに杉浦は話し続けた。『毎日思い出す』。『毎日後悔する』。全ての単語が私の胸に突き刺さり再び心臓がうるさく鳴り出す。ついには持っていた鍵を床に落とした。
「やっぱりあの時、彼女のこと攫っちゃえばよかったかなぁ……。でも、出来なかった。僕の勝手な事情に巻き込みたくなかった。彼女のこと、すごく大切に想ってたから」
その声はどんどんと弱々しく小さくなる。私は杉浦の顔を見た。悲しそうで苦しそうで、今にも涙を流しそうな表情を隠すかのように髪に触れ頭を搔きむしる。明るく綺麗な髪がぐしゃぐしゃに乱れていった。
「また会えるなら、なんだってするのに」
杉浦は独り言のように呟くと、そのままゆっくりと目を閉じた。すぐにスゥスゥという微かな寝息が聞こえて来て彼が眠ってしまったことが分かる。こんな所で寝たら風邪をひいてしまうだろう。私は事務所のドアを開けるために先ほど床に落とした鍵の束を拾い上げた。
“毎日思い出すんだ、彼女のこと”
“あの時、彼女のこと攫っちゃえばよかったかな”
“また会えるなら、なんだってするのに”
杉浦の言葉が頭の中で繰り返される。私はただ涙を流すことしか出来なかった。とめどなく溢れ続ける涙が頬を伝い顎から床へ雨のように落ちてゆく。事務所のドアを開けるため、この鍵は違うこの鍵も違うとそれらしき鍵を鍵穴にさしこむが、ドアはいつまで経っても開きそうになかった。
「ジェスター……」
小さく呟き手の甲で自分の頬を拭う。拭っても拭っても涙は止まらず、ただひたすらに顔が濡れていくばかりだった。
ジェスターは私のことを忘れないでいてくれた。毎日思い出してくれていた。そして私は今更ながらにそれを知った。もう何もかもが遅すぎる。
ポケットからボイスレコーダーを取り出す。当然ながら画面には何も表示されておらず、何も録音されてはいなかった。