あるいは裏切りという名の愛 - 6
あの後なんとか事務所の鍵を探し当て、ドアを開けることに成功した。眠ってしまった杉浦の体を引きずり強引にソファに寝かせる。私が何をしようと杉浦は目を覚ましそうになかった。
冷蔵庫を開くと小さなペットボトルに入ったミネラルウォーターがあり、取り出してテーブルに置く。朝になって杉浦が目を覚ました時すぐに飲めるようにするためだった。近くにあった誰のものかも分からないジャケットを上に被せる。これでとりあえずは彼が風邪をひくことはないだろう。
事務所の電気を消しドアを閉めると、私はその場を後にした。外に出ると夜明けが近いのか空の端の方が薄っすらと明るかった。それを見ながら、もう杉浦に付きまとうのはやめようと決意する。
ジェスターが何も言わずに私の前から姿を消したのには大きな理由があったようだった。彼の『僕の勝手な事情に巻き込みたくなかった』という言葉から察するにやむを得ない事情があったんだろう。ジェスターが何も言わずに姿を消したのは私を想ってのことだった。その“やむを得ない事情”が何なのかはわからないが、それももうどうでも良かった。
恐らくこれが杉浦の言っていた『真実』なんだ。誰にでも真実を知る権利は平等にあって、もしもその真実に悲しい想いをしたとしても前に進むことは出来る。たとえジェスターと一緒に居られなくとも、私の想いを伝えることが出来なくとも、この『真実』さえあれば私は前を向いて生きていける気がした。
夜が明け一日が始まり、そろそろ昼食の時間になるという頃に私は横浜九十九課を訪ねた。ここ最近はずっと天気が良かったけれど今日は珍しく朝から曇り空で、雨が降るのか降らないのか分からない中途半端な天気のように思えた。
杉浦は一人がけのソファに腰を下ろし、二日酔いなのか頭を抱えるようにしながら表情を歪めていた。私の姿を見るなり驚いたように目を丸くして立ち上がる。
「あれ、さん?」
いつもであれば外で待ち伏せをしているため、事務所を訪ねて来た私が珍しかったのだろう。杉浦は首を傾げながらこちらに近付き「昨日いつ帰ったの?」とか「僕、記憶が曖昧でさ」などと話した。
「今日はさよならを言いに来たの」
単刀直入に話し始めた私に杉浦の口と足が止まる。喉の奥がキュッと締まったような感覚がし、上手く声が出そうになかった。それでも言わなければならないと思った。
「私はあなたが元窃盗団だって知ってて近付いた。私はあなたの過去を出版社に売って、あなたを陥れようとした。でも、もうやめる」
杉浦の眉間に皺が寄る。混乱しているのか何度も瞬きをしながら私を見つめた。『元窃盗団』という単語に、事務所奥にあるデスクについていた九十九さんも反応してこちらに振り向く。
「もうここには来ない。あなたにもこの事務所にも二度と関わらない。もう二度と、会わない。本当に悪かった。ごめんなさい」
そう言って深々と頭を下げると返答も待たずに事務所を出る。エレベーターに乗り込みすぐにドアを閉め、地上階に降りた。道に出ると相変わらず天気は中途半端に悪く、まるで自分のようだと感じた。
もうこれで終わりだ。ジェスターのことも杉浦のことも忘れて生きて行こう。そう思いながら歩き出す。彼のことを『忘れて生きて行く』ということが今の私に出来るとはとても思えなかった。それでも進むしかなかった。
「待ってよ」
背後から声をかけられた。聞き慣れたその声に振り返りたくはなかった。それなのに足が止まってしまう。まるで石のようにその場から動けなくなった。
「二度と会わないなんて、勝手なこと言うな」
杉浦の声だ。大きな足音が近付いて来て、人影が私の目の前に回り込んでくる。思わず顔をそむけた。それを許さんとばかりに杉浦は私の頬に手を添え、無理矢理に目を合わせる。
「君なんでしょ、カラベラ」
彼の口からはもう二度と聞くことはないだろうと思っていた名で呼ばれ、息が止まる。中途半端な空から弱い雨が降り出し、まるで私が初めてジェスターの素顔を見た“あの日”のようだと感じる。このタイミングで雨なんてこんなことあるだろうか。神様は本当に意地が悪い。
私はジェスターの胸倉を掴み、自分の方へ引き寄せるとその体を強く揺らした。
「あなたが居なくなってから、わたしはずっと独りだった。心の底から恨んでた、憎んでた。どうやって復讐してやろうかって、毎日、何をしてても、ずっとずっとあなたのことばっかり考えてた!」
叫び声が響き渡る。道を行く人々がこちらを見ている。もう止まれなかった。ジェスターはただ私の叫びと揺さぶりに耐えるように眉間に皺を寄せていた。彼の肌に雨がぶつかっていくのが見える。
「会いたかった……、ずっと、会いたかったよ、ジェスター、あなたに」
自分で自分の声を聞きながら、気を失ってしまいそうなほどに苦しかった。『なんで急にいなくなったの』。『なんで何も相談してくれなかったの』。『どうして私も一緒に連れて行ってくれなかったの』。ずっと自分の中にあった疑問をぶつけることも出来ず、とりとめのない言葉と涙だけが溢れ出す。
「あの時みたいに、ただそばに居て欲しかった。私のこと攫って欲しかった。連れて行って欲しかった。あなたと一緒なら私は……、私は……、」
頬を濡らしているのは涙なのか雨なのか、もはや何も分からない。ふと気が付くと胸倉を掴んでいた私の手にジェスターの手が重なっていた。涙で歪み切った視界にジェスターの姿がぼんやりと映る。
「ごめん。一人にして、ごめんね」
ジェスターは小さな声でそれだけ言うと、私の背中に手をまわして強く抱き締めた。雨に濡れた服がひどく不快でそれでいてあたたかく、私の目からさらに涙が溢れていくのが分かった。
「今度はちゃんと、ずっと、君のそばにいる。絶対離れない。約束するよ。だからもう二度と会わないなんて、……言わないで」
耳のすぐ近くでジェスターの声が聞こえた。彼の優しい声は昔と全く変わっていない。雨粒が光る綺麗な髪も濡れた肌の感触も、全てがあの頃を思い起こさせた。
ジェスターは抱き締めていた腕を緩め、顔を覗き込むようにして私を見た。雨と涙でひどいことになっているであろう顔を見てフッと柔らかく笑いながら、額に張り付いている髪に優しく触れる。
「ジェスターって名前はもう捨てたんだ。今はただの文也だよ。文也って呼んでよ、」
今までは“さん”と呼んでいたそれから敬称が消える。私も同じように彼の名を小さな声で「ふみや」と口にした。すると文也は嬉しそうに笑い、両手で私の顔を包むとこめかみに口唇を落とした。
「もう一回呼んで」
「文也……」
「もっと、呼んで……、もっと、もっと」
せがむ彼の名をさらに呼ぼうと口を開いた時、何故かそれを阻止するように文也は私の口唇を塞いだ。雨に濡れた文也の口唇と涙に濡れた私の口唇が混ざり合う。不快なはずなのにどうしてか心地良くてたまらなかった。
気が付くといつの間にか雨は上がっていた。どうやら通り雨だったらしい。あの頃、眼下に広がっていた神室町のネオンはここにはない。私の目の前にはどうしようもないくらいに愛して止まない人の笑顔。そして中途半端だった空に浮かぶ雲の隙間から差し込む優しい光。ただそれだけが見えている。
私が彼の素顔を見たあの日、文也は『お返しにカラベラの顔も見せて』と言って追いかけるようにこちらに腕を伸ばしてきた。私が仮面を取り素顔を見せることはなかったけれど、まるで“あの時の仕返し”とでも言うように文也は私の顔を穴が開きそうなほどに見つめ、濡れた髪を優しく撫でた。