※『あるいは裏切りという名の愛』と同一主人公の前日譚
ポラリス
神室町はあまりにも明るすぎる。今にも落ちてきそうなほどに空が重たく暗くなっても、街の明るさが陰ることは決してない。僕はこの街が好きじゃない。むしろ嫌いだ。それなのにいつまでも離れずに留まり続けるのは『本当のこと』を探し求めているからなんだろう。何処をどんな風にどうやって探せば見つかるのかすらも分からないのに。
窃盗団もそろそろ潮時だ。義賊というポリシーを掲げて盗みを働いていた僕たちだが、それに反する者が現れ始めた。いつかはこんな日が来るだろうと予想はしていた。大金を目の前にして気持ちが大きくならない人間なんか居ない。
僕は窃盗団を抜けて八神隆之を追うべきなのかもしれない。少し前にあの人が法廷に復帰したというニュースを見た。八神隆之が弁護士を辞めたのはきっと絵美のことが要因なのだろうと思う。そうなのであれば、つまりあの人は絵美のことを清算して前に進もうとしているということだ。絵美のことを忘れようとしているのかもしれない。いやもうむしろ忘れているのかもしれない。僕はいつまでも立ち止まったまま、この神室町という薄汚れた街に捕らわれ続けているというのに。
吐き気がした。窃盗団がアジトに使っている雑居ビルは酷く空気が悪い。何やら楽しそうに騒いでいる仲間たちを後目に部屋を出た。外の空気が吸いたいと思い、仮面を外しながら階段を登って屋上を目指す。外へと続く扉を開くと神室町を漂う汚い風が僕の肌を打った。
屋上の淵に設置されている落下防止用の柵まで行くと、寄りかかりながら空を見上げた。澱んだ空気と明るすぎるネオンのせいで星は見えそうにない。暗い空にひとつだけ明るく見えるのは飛行機のライトだろうか。ゆっくりとどこかに向かって移動している。
「何してんの、ジェスター」
後ろから急に声を掛けられた。人の気配に気付かなかったため驚き、慌てて仮面を装着する。振り返るとそこにはカラベラが立っていた。彼女が着けているメキシカンスカルの仮面はカラフルで、薄暗い中でも目立って見える。
「……別に。ちょっと外の空気を吸いたかっただけ」
そっけなく返答すると、カラベラは小さく「そっか」と呟いた。ゆっくりとこちらに近付いて来て、僕と同じように柵に寄りかかり空を見上げる。その時ぴゅう、と風が大きく吹いて、カラベラの髪が揺れた。柔らかく甘い香りが僕の方向へと漂って来る。カラベラは肩をすくめるようにしながら体を縮こませた。
「今日寒いね。てかジェスターは寒くないの?こんなとこにいたら風邪引いちゃう」
カラベラが仮面を外した姿を僕は見たことがないけれど、彼女がいまどんな表情をしているのかはなんとなく分かった。僕を心配している。僕を気遣っている。カラベラはいつだって僕のことを考えてくれている。彼女は努力家で、我慢強くて、甘い物が好きで、窃盗団だということを抜きにすればごく普通の女の子。それがカラベラだ。本当の顔も名前もどこから来たのかも分からないのに、彼女について知っていることは山ほどある。
ゆっくりと手を伸ばし、カラベラの髪に触れた。強く吹き付ける風に揺さぶられる髪をおさえるように撫でる。手のひらに伝わる滑らかな感触があまりにも心地良くて、永遠にこのままで居たいとすら考えてしまう。永遠なんて、そんなものは存在しないのに。
僕は窃盗団を抜ける。この居場所を去る。そして八神隆之を追う。あの人が絵美のことを清算して前に進もうとしているのならば、絵美のことを忘れたというのならば、もう一度思い出させてやる。もう一度分からせてやる。何処かの誰かが取ってつけたかのような薄っぺらい『本当のこと』に納得がいかず、いつまでも捕らわれ、立ち止まったままの僕という存在が居るということを、あの人に知らせてやるんだ。
本音を言うならば、カラベラと離れたくない。いつまでも一緒に居たい。彼女を攫ってしまいたい。自分だけのものにしてしまいたい。しかしそれは無理な話なんだろう。僕のこんな復讐めいた自分勝手な想いに彼女を巻き込むわけにはいかない。カラベラには幸せになって欲しい。ずっと穏やかな気持ちで居て欲しい。彼女の隣に居るべきなのは、きっと僕じゃない。
「ジェスター?どうしたの?」
カラベラは首を小さく傾けながら僕に問う。髪を撫でていた指先が仮面に触れた。少し力を込めれば外れて、彼女の素顔が見える。これを外してキスがしたかった。小さな顔を両手で包み引き寄せて口唇に噛みついてやりたい。瞳を見つめながら『きみが好きだよ』と言ってしまいたい。でもそれは、出来ない。
「別に。なんでもないよ」
手を離しながら明るい声を意識して言う。カラベラは数秒間沈黙したあと、最初と同じように小さく「そっか」と呟いた。散々吹いていた風が急に止んで、彼女の香りが分からなくなる。手のひらに残る感触を噛み締めるように強く拳を握った。
僕の本当の名も、本当の顔も、本当の気持ちも何一つ教えてあげられなかった。カラベラに見せた僕は嘘のかたまりだ。彼女についた嘘を星に変えられたらどうだろう。神室町の夜空ですらたくさんの星で彩られ見たことがないくらいに綺麗になるかもしれない。などと、ありもしないことを考える。
相変わらずの澱んだ空気と明るすぎるネオンのせいで星はひとつも見えない。いや違う。見えないのではなくきっと消えてしまったんだ。ビルとビルの合間から見える空のたもとがぼんやりと薄明るく見え、夜明けが近いことを知らせていた。どんなに目を凝らしても見えなくなってしまったあの北極星のように、僕も、僕のこの想いも、全て消えてしまえばいいのにと思った。
(2024.3.9)