※『あるいは裏切りという名の愛』と同一主人公の後日譚

ボイル

 寒い。頭のなかで何度も呟きながら曇り切った空を睨みつけて見ても、気温が上がるわけでもなければ冷たい風が止まるわけでもない。三寒四温などとは言うが出来るだけ早く温かい春が来て欲しいと切に願ってしまう。

 前を歩く文也が私と同じことを考えているかどうかは分からないが、体を縮めるように肩をすくめ、冷たい風に耐えているような仕草を見せた。

「ねぇ。今日の晩ご飯、鍋にしない?」

 文也はこちらに振り向いたと同時に言った。確か自宅の冷蔵庫には先日買った野菜がまだ残っているし、肉類も何かしら冷凍している物があるだろう。というか鍋なんかとりあえずそれらしい材料を入れてだしを入れて煮込めばどうにでもなる。

 鍋にしようという提案に「いいね。そうしよ」と返すと、文也は嬉しそうに笑った。

 自宅に到着し、玄関で靴を脱ぎ捨てて足早に部屋の中に入る。暖房をつけてからすぐに上着を脱ぐと、文也はそれを半ば奪うように受け取りハンガーにかけてくれた。

、晩ご飯より先にお風呂に入ってあったまっちゃえば?お湯張ってきてあげるよ」

 文也は私の返答も聞かないまま、お湯を張るためにお風呂場へ向かった。

 上着を受け取ってくれたり、お風呂の準備をしてくれたり、なんて出来た彼氏なのだろうと思う。きっと私がお風呂に入っている間に晩ご飯に一緒に食べようと言った鍋の用意もある程度してくれるに違いない。

 文也と出会ってから早数年。窃盗団がなくなり一緒に居なかった時期もそれなりに長かったが、彼はいつだって私のことを思いやり大切にしてくれる。甘えっぱなしの私が文也に何かしようと思っても「は僕の傍に居てくれるだけでいいよ」なんて言われて終わってしまう。私もたまには奉仕がしたいと思うのに。

「文也」

 洗面所へ続くドアに手を掛けた背中に呼びかける。

「一緒に入ろっか?お風呂」

 ドカッ、という鈍い音が響き渡る。それは文也が洗面所のドアに正面からぶつかった音だった。目の前で起きた光景と大きな音に驚き言葉を失う。文也は声にならない声を出しながら、ぶつけたのであろう顔面を押さえ痛みに耐えるようにしゃがみこんでいた。

「ちょっと!?大丈夫!?」

 思わず駆け寄り文也の顔を覗き込んだ。おさえている額のあたりをよく見ると赤くなっており、相当な勢いでぶつかったのだろうということが分かる。普段からこういうドジは私の役目で文也はほとんどしないというのに、珍しいこともあるものだと思った。

「血、出てない?すごい音だったけど。もう、びっくりさせないでよ」

 ぶつけた部分を隠すようにおさえている文也の手を退かす。赤くはなっているが血は出ていないため傷跡が残ることなどはなさそうに見えた。こういう時は患部を冷やしたほうが良いのだろうかなどと考えていると、いつの間にか文也が私の手を握り返していた。

「びっくりしたのは僕のほうなんだけど」

 よく見れば、文也はぶつけたのであろう額のみならず、顔全体が真っ赤だった。ここまで赤面している彼を見るのは初めてかもしれない。新鮮な気持ちになりつつも、とあることに気付いてハッとした。

 文也がびっくりしてドアに顔面を思い切りぶつけたのも、こうして赤面しているのも、全ては私のせいだ。私が『一緒に入ろっか?お風呂』という冗談のつもりで言った台詞のせいであることは間違いがなさそうだった。

「ごめん……。えっと、その、なんていうか、冗談……だったっていうか」

 本気ではなかったことが伝えにくく、言葉を濁す。文也は目を見開き驚いた後、すぐに眉間に皺を寄せて私に顔を近付けた。

「なんだよそれ!ズルい!僕ばっか動揺してかっこ悪いじゃん!」

 珍しく大きな声を出す文也に面食らい、取り繕うための言葉も出てこなくなる。何も言えない私を睨みながら口を尖らせた文也はまるで子供のようだった。普段の彼からはあまり見られない表情に、場違いな高揚感が湧き上がる。

「ご、ごめんってば、文也」

 謝罪の言葉を口にしても文也の表情は変わらず、口を尖らせていたかと思えば今度はふくれっ面をし始めた。あまりの可愛さに笑ってしまいそうになるも、今ここで私が笑顔を見せてしまえばきっと彼を更に怒らせてしまうことになるだろう。

「ね、機嫌直してよ。ほら、文也の好きなアイス買ってきてあげるから、今から!」

 文也は何も返事をせず、拗ねるようにこちらから顔をそらす。

「えっと……、じゃあ肩揉んであげるから!お風呂上りにマッサージと耳かきも!膝枕もしてあげる!」

 半ばヤケになり奉仕として思い付くことを上げてみたが、文也はいつもの優しい穏やかな笑顔とは正反対の表情をしたままだった。他に何かあるだろうかと考えつつも困り果て、軽く俯く。すると文也の手がこちらに伸びて来て、私の頬に触れた。

「お風呂……、本当に一緒に入ってくれるなら、許してあげてもいいよ」

 顔を引き寄せられ、口唇が重なった。後頭部に回された手に支えられながら、そのままフローリングの床にゆっくりと倒される。硬くて冷たい床が背中にぶつかり、寒さに体が震えた。ちょっと待って、なんて言っても聞き入れてはもらえないんだろう。

 明るすぎる浴室で同じお湯に入るのはきっといつも以上にのぼせてしまうのだろうなと想像する。しかしこの寒さならば丁度良いのかもしれない、などと馬鹿みたいなことを考えてしまった。


‎(2023‎.11.15)‎