杉浦くんの好きな人

「私、婚活しようかと思ってんだよね」

 ある程度の仕事が片付き暇になった昼下がり、さんは独り言のように呟いた。僕は思わず手に持っていたマグカップを落としそうになる。さんはというとシンク近くにある椅子に座り、長机に頬杖をついている。表情はとても眠そうで、疲れ切ったような顔をしていた。

 聞き間違いでなければさんは『婚活をしようと思う』と言った。婚活というのは分かりやすく言えば、結婚相手を探す、ということなんだろう。

「なに、それ。さん、どうしたの、急に……」

 一瞬動揺が声に出てしまったものの、何とか冷静を装う努力をしながら半笑いで言う。しかし心臓はうるさいままで、僕はマグカップを長机に置いた。

「なんかさぁ、周りが一斉に結婚し始めたんだよ。親も友達もそういう話しかしないし、それ以前に私、彼氏も居ないし、このまま独りなのかなって考えたらなんか妙に焦っちゃってさぁ」

 さんは手に持っていたスマホに目を落とし、親指で軽く操作をしながら言う。ほんの数秒後に、僕に見えるように画面を目の前に突き出して見せた。そこには恐らく婚活に特化したのであろうマッチングアプリらしき物が映し出されており、思わず声が出そうになる。さんは僕の気も知らずに「ここに登録しようかと思って」と無邪気に言った。

 僕とさんはただの同僚だ。もちろん恋人ではないし友人とも言い難い関係だろう。そもそも彼女は僕が好意を寄せているということを知らない。それなりに分かりやすいアプローチをしてはいるものの、はっきり言ってさんは恐ろしい程に鈍い。僕の気持ちはさん本人よりも九十九君が先に気付いてしまったくらいだ。

 さんが結婚するということは、僕以外の人と付き合うということだ。僕以外の人と手を繋いだり抱きしめ合ったりキスをしたり、それ以上のことをするということだ。いやいや、絶対ダメだ。さんがマッチングアプリなんてダメだ。そもそも婚活がダメだ。さんが僕以外の人と手を繋いだり抱きしめ合ったりキスをしたりそれ以上のことをするなんて、絶対ダメだ。その相手は僕が良い。僕じゃなきゃダメだ。

「ダメだよ」

 頭の中だけで考え、叫んでいた言葉が無意識に口から出ていた。気が付いた時にはもう既に遅く、さんは目を丸くし不思議そうな表情で座ったまま僕を見上げている。しまったと思い、目をそらしながら長机に寄りかかった。

「あ、ほら……、マッチングアプリって、その……、体目当ての人とかも多いって聞くし、さんには合わないと思う」

 置いたままのマグカップを手に取る勇気はなかった。何故なら僕は未だに動揺したままで、コーヒーをこぼしてしまう不安があったからだ。その動揺をなんとか隠しながらさんの顔を見ると、先ほどと同じく目を丸くして不思議そうな表情をしたままだった。

「え?そうなの?杉浦くんってマッチングアプリやったことあるの?」

「え!いや、あるわけないでしょ!だって僕は……」

 また口が滑ってしまった。『だって僕はさんが好きなんだから』と、声に出して言いそうになった油断だらけの口元を手で覆う。

「ん?『僕は』?なに?」

 急に言い淀んだ僕に対して、さんは言葉の続きを催促する。いつか来るべきが来たらちゃんと『僕はさんが好き』だと告げようと思っていた大事な言葉を、こんな勢いだけの状況で口にするのは不本意だった。

「好きな人、……居るから」

 苦し紛れだったが間違ったことは言っていない。いま目の前にいる僕の『好きな人』は少し驚いたような顔をしてから「へぇ、そうなんだ」と口にする。まるで僕の『好きな人』には興味がないといった様子だ。僕が好きなのは君なんだよと言ったらどんな反応を見せるんだろうと思ったが、とても口に出来るような状況ではなかった。いま告白したとしても玉砕する未来しか見えない。

「とにかく、マッチングアプリなんてやめときなよ」

 僕はそれだけを言い残し、マグカップを持ってその場を離れた。動揺したままの心を静めるため、壁に張り出された仕事のスケジュール表を眺める。明日は溜まった事務作業と書類の整理、来週は不倫調査、その次の週は依頼人宅へ聞き取り……。そこまで見た所でコーヒーに口をつけると冷めきっており、まるで味がしなかった。

 もうなりふり構っていられないのかもしれないと感じる。さんの前で格好つけて、いつか来るべきが来たらとか勢いだけで告げるのは嫌だとか、そんな悠長なことは言っていられないんだろう。さんが僕以外の男の物になってしまう前に、僕は伝えるべきなのかもしれない。さんが好きだと。

さん」

 スケジュール表に顔を向けたまま名を呼ぶ。振り返ってさんの顔を見るのが怖かった。でもそんなことは言っていられない。勇気を出して後ろへ向くと、見慣れた顔が僕を見ていた。目が合い、目線が絡む。

「さっき言った僕の『好きな人』ってやつ、……あれさ、」

 君のことなんだよ、さん。声に出して言うために強く息を吸う。冬の訪れによって冷え始めた部屋の空気が肺を満たし、それが僕の背中を押してくれているような、そんな気がした。

‎(‎2023‎.‎9‎.‎18‎‎)‎


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