花笑む狼 - 1
住む世界が違う人。私が彼に抱いた第一印象はそれだった。こんなことを本人に伝えたら嫌な顔をされそうな気がするので、とてもじゃないけど本人には言えやしない。
杉浦くんは正義感があって運動神経も良くて、横浜九十九課ではいわゆる“体を張る担当”ということになっている。誰が見ても「イケメン」だという程には綺麗な顔をしているため異人町内ではそれなりに名が知れているらしく、女性ファンが多いと聞いたことがあるような気がする。九十九くんや私と同僚という立場ではあるが、年齢は私の一つ下で九十九課のメンバーの中では最年少だ。
杉浦くんの彼女になるのはどんな子なのだろうと考えたことがある。例えば陽キャ……、いや、愛嬌があって人とのコミュニケーションを取るのが上手だったり、でもどこか隙があって守ってあげたくなるようなギャップがあったり、笑顔が素敵で誰とでも仲良くなれるような、そんな子かもしれない。それはどう考えても私とは正反対の人間のように思えた。
“さん、ちょっと出てこれない?”
ある程度の仕事が片付いたある日の夜、杉浦くんからメッセージが届いた。今日の杉浦くんは仕事が終わり次第に依頼人の家から直帰ということになっている。すぐ目の前のデスクで作業を続ける九十九くんの背中に声を掛け事情を話すと、九十九くんは優しく微笑み「さんももう上がって良いですぞ」と言ってくれた。好意に甘え、来客用テーブルに散らかしていた資料をかき集め適当にまとめると、バッグを持って事務所を後にした。
外に出ると日が落ちた街はすっかり暗くなっていて、思わず腕時計で時刻を確認する。夕飯の時間はとうに過ぎていたが、先ほど仕事をしながら軽食を取ったので特にお腹はすいていない。私は杉浦くんからのメッセージに記載されていたバーへ向かった。
店に到着し中へ入ると、カウンター席の真ん中あたりで杉浦くんがこちらに手を振っていた。出迎えてくれた店員に会釈をし杉浦くんの元へ向かう。
「杉浦くん、お疲れ」
軽く挨拶をしながら背の高いカウンターチェアに座る。テーブルには空になったグラスが一つ置かれており、杉浦くんは既にそれなりの量のお酒を飲んでいるようだった。彼は目を細め私の顔を見たが、挨拶への返答はなかった。
「で、今日はどうしたの急に?何か用?」
店のメニュー表を見て何を注文しようかと考えつつ、杉浦くんに問いかける。とりあえずはビールでも飲もうかと思い、注文するためにメニュー表に落としていた目線を上げた時、杉浦くんがジッとこちらを見ていることに気が付いた。
「用がなかったら、さんに会いたいって思っちゃいけない?」
彼の真剣な表情と言い分が意外で、私は『グラスビールひとつください』と言いかけていた口を閉じた。どう返答すれば良いか分からずに黙ったままでいると、杉浦くんは表情を崩しいつものように笑って見せる。
「……なんてね。本当はさんに話したいことがあってさ。聞いてくれる?」
私は一度椅子に座り直し背筋を正すと、杉浦くんの目を真っすぐに見つめ「うん」と返事をした。店に来たばかりの初めこそ茶化そうと思っていたが、それにそぐわないのであろう微妙な雰囲気を感じ取る。私と杉浦くんは同僚ではあるが、年齢は私の方が上だ。仕事の悩みや愚痴を聞いてあげたり、人生や未来に対する不安を解消するためのアドバイスくらいは出来るかもしれない。
杉浦くんは既に空になったグラスを持ち、氷を揺らす。カラカラという音を立てながらグラスに落としていた視線をこちらに向けた。私にはそれがとても艶めかしく見えた。
「僕さ、さんのこと好きなんだよね」
何を言われたのか分からなかった。彼の口から出て来る言葉は、例えば『この間、調査結果を依頼人に伝えたら怒られちゃったんだよね』という愚痴だとか、『ファンだとかいう知らない女の人が事務所にやってきて困ってるんだけどどうしたら良いと思う?』という悩みだとか、そういうのを予想していたため、思わず自分の耳を疑う。何と言ったのか聞き返そうとした時、杉浦くんは変わらないままの真剣な表情でこちらに身を乗り出し、顔を近付けてきた。
「僕、さんと付き合いたい。さんと恋人同士になりたい。さんの彼氏になりたい。……だめ?」
先ほどまでは『何を言われたのか分からなかった』が、今は『何が起こっているのか分からなかった』。この店には来たばかりでまだ一口もお酒を飲んでいないというのに、まるで酔っぱらったかのように体の真ん中あたりが熱く苦しくなり、頭がくらくらとしてくる。
杉浦くんが私のことを好き?私と付き合いたい?私と恋人同士になりたい?私の彼氏になりたい?言われたことを頭の中で何度繰り返しても分からない。言葉の意味は分かるのに理解が出来なかった。いやしかしでもちょっと待って欲しい。私と恋人同士になりたいということはつまりそれは、私が杉浦くんの彼女になるということなんじゃないか。頭が混乱してくる。
そもそも杉浦くんの彼女になるのは私のような人間ではない。杉浦くんの彼女になるのはきっと愛嬌があって人とのコミュニケーションを取るのが上手だったり、でもどこか隙があって守ってあげたくなるようなギャップがあったり、笑顔が素敵で誰とでも仲良くなれるような、私とは正反対のそんな子のはずだ。
これは何かの間違い、もしくは酔った杉浦くんの冗談かもしれない。いくらお酒の影響とは言え杉浦くんがこんな質の悪い冗談を言うはずがないと分かっていても、これは“冗談”だとしか思えなかった。
気が付くと視界に杉浦くんの指先が映り込んでいて、彼がこちらに手を伸ばし私に触れようとしていることが分かった。無意識に逃れるように身を退き、距離を取る。しまったと思った時にはもう手遅れで、杉浦くんは眉間に皺を寄せ明らかに傷ついたような表情をしていた。
「あ」
思わず声がもれる。何かしらを口にしようにも声が言葉にならない。口唇を噛んだり、開いたり、閉じたり、それだけを繰り返しひたすらに視線を泳がせながら、この状況をどうすれば良いのか考える。しかし何も思い浮かばなかった。
「ご、……ごめん!」
私はただ謝罪の言葉を口にしながら、杉浦くんに背を向け店から飛び出すと、気が付いた時にはそこから走って逃げ出していた。混乱する頭の中で『最低だ』と自分を蔑む。杉浦くんがあんな冗談を言うわけがないのに、彼の言葉が心から信じられず、その上でひどく傷付けた。
熱くなった頬に冷たい夜風が当たって痛い。しかしこんな痛みでは到底足りなかった。誰かに顔を思い切りビンタされたい気分だった。それも往復で。いや、私のような人間にはビンタだけでは生ぬるい。誰かに拳で顔を殴られ、歯でも折って欲しいと思ってしまった。
翌朝、私はいつもより数時間早く出勤した。その時間であれば杉浦くんはまだ出勤しておらず事務所に居ないだろうと踏んだためだ。あんなことをしてしまった後でどんな顔で杉浦くんに会えば良いか分からない。ほとんど眠れなかったため寝不足でまぶたが重たかったが、仕方ない。事務所へ向かう途中のPOPPOで大きなボトルのブラックコーヒーを買い、それでなんとか乗り切ろうと考えた。
早い時間のせいか街は静かで、いつもであれば人の往来が絶えない道もひっそりとしていた。私はエレベーターに乗り込み事務所のある階へ向かう。ドアが開きまるで泥棒かのように抜き足差し足でエレベーターから降りた、その瞬間だった。目の前に黒く大きな影が立ちふさがる。思わす声が出そうになり咄嗟に口元を押さえた。目の前に居たのは杉浦くんだった。
「おはよ、さん」
杉浦くんはこちらを見下ろしいつも通りの優しい笑顔で、語尾にハートマークでも付いていそうな調子で私に挨拶をした。思わず息を飲み、何の返答も出来ずにその場に立ち尽くす。杉浦くんと顔を合わせづらいからとこの時間から出勤したと言うのに、どうやら考えは読まれていたようだった。流石杉浦くん、と感心してしまいそうになるが今はそんな場合ではない。
背後でエレベーターのドアが閉まる音が聞こえた。杉浦くんが一歩こちらに近付き、私は距離を詰められないように一歩後ろに下がる。背中に固く冷たいエレベーターがぶつかり、逃げ場がなくなった。
「あのまま逃げられるとでも思った?」
「いや、えっと、あの、その……」
「どうせさんのことだから悪い冗談とでも思ったんだろうけど、違うから」
杉浦くんはどうやら怒っているようだった。至極当然だろうと納得と反省しか出来ない。しかし杉浦くんの表情や態度から察するに、彼が感じているのは怒りだけではないように見えた。こちらを見下ろす笑顔はどこか優しく、それでいて何かを“楽しんでいる”ようだった。
杉浦くんは私の背後にあるエレベーターに手を付き、少しだけ腰を折ると私の耳元に顔を近付ける。
「僕、元窃盗団だから奪うのは得意なんだ。手に入らないならいずれは強行手段に出るから。覚悟しといてね」
その言葉に、やはり昨日のあの告白は夢でも幻でも嘘でも冗談でもなかったのだと改めて実感する。何の返答も出来ず、何の反応も出来ない私はただ体を固めたまま杉浦くんの顔を見返すしかなかった。その目は今までに見たことがないくらいに鋭く、まるで獣のように見える。
ああそういえば古い歌で『男は狼』なんて歌詞があったなと呑気にも思う。羊の顔をしている杉浦くんの心の中に居る狼は、私に牙を剝いているようだった。