ネプトゥーヌス - 1
ずっと大人になりたいと思っていた僕は、一体どんな大人になりたかったんだろう。ショーンとお父さんが恥じないような大人になりたかった?二人と肩を並べられるような大人になりたかった?二人に誇って貰えるような大人になりたかった?今となってはもう、何もわからない。
あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。どれだけ涙を流してもどれだけ名を叫んでも、誰の返事も返ってくることはなく、僕たちの車を追ってくる人の姿もない。“力”を使いアクセルを踏むと、でこぼこした道の上を車が走って行き振動で体がガタガタと揺れる。辺りはひたすらに砂とサボテンしかないようだ。ついさっき走り方を教えて貰ったばかりの僕には車を上手く動かすことが出来ず、平らな道に戻ることが出来ない。しばらく走ると遠くに道路のような物が見えたためそこに沿って進もうと考えたが、ガードレールが邪魔をして車に乗ったまま道路に出ることは出来ないように見えた。
「ショーン、……ごめん」
もう僕の声はショーンには聞こえていない。ショーンは死んでしまった。少しだけ血の付いた眼帯を外しズボンのポケットに押し込むと、ショーンの顔をジッと見る。首の辺りから血を流し目を閉じたままのショーンの顔はまるで眠っているようで、僕はおやすみのキスをするようにこめかみのあたりにそっとくちづけた。この暑い気温の中でも肌はひどく冷たかった。
車の荷台に置いていたリュックの中にショーンの日記などの荷物をまとめて詰め込み外に出ると、太陽の光がジリジリと肌を焼いていくのが分かる。顔中が涙まみれで、手の平や甲でそれを適当にぬぐうと、周りを確認しつつその場から走り出す。すばやく動いた方が人に見つかりにくいと思ったからだった。
ガードレールまで到着するとそれを跨ぎ、道路に出る。一瞬ヒッチハイクをしようかと考えたけれど、それにしても車の通りはほとんどなく、いま自分が何処に居るのかも、どっちの方向に歩き出せば良いのかも分からない。それでも歩こうと思った。プエルト・ロボスを目指すしかなかった。
何もない道路をしばらく歩いた僕は標識を見つけ、そこにプエルト・ロボスの方向が書いてあった。車から持ってきた食料も水も途中で底をつき、道路沿いにあったコンビニや酒屋で力を使い万引きをした。いけないことだと分かっていた。分かっていたけれどもうどうでも良かった。悪いことをしなければ生き残れないと分かっていたから。
何日も何日も歩いて、国境を越えてからどれくらいの日にちが経ったのか分からなくなった頃、とても賑やかな街にたどり着いた。良く分からない物がたくさん売っているギフトショップや、アメリカでも見たことのあるようなピザやハンバーガーのお店が並んでいて、もしかしてここがプエルト・ロボスなのかな?とワクワクしたが、それは間違いだった。
街の名はプエルト・ペニャスコ。僕が目指すプエルト・ロボスとは違う街で、観光や旅行をしている人が立ち寄る所のようだった。プエルト・ロボスはまだ遠く、また何日も何百キロも歩かなくてはいけないと思うと、足から力が抜けその場に座ってしまいたい気分になる。
すでに日が沈みかけており、とりあえず少し休もうと思った僕は、店と店の間をすり抜けて人の目に付きにくい裏手で休むことにした。店の壁に背を付け、そこをずりずりとこするようにして座り込む。食事も水分補給もちゃんとしているつもりだったけれど、なんだか体に力が入らない。たぶんとても疲れているせいもあるとは思うが、やはりこの街がプエルト・ロボスではないというがっかりした気持ちのせいなんだろう。体がとても重たいし、なんだか不思議なくらいに眠たい。
ショーンの顔が思い浮かんだ。ショーンの死体と車をあそこに捨てて来た時、これからお前は一人だと誰かに強く言われたような気がした。今までずっと隣に居て僕を守ってくれたショーンはもういない。これからは何もかも一人でしなければならない。ご飯も、寝る時も、何かから身を護ることだって、ぜんぶ。
「ショーン……」
その呼びかけに答えてくれるお兄ちゃんはもう居ない。僕の隣に居ないんじゃなくて、もう“この世”に居ないんだ。
「¿Qué estás haciendo?」
その時だった。僕の頭の中を埋め尽くしていたショーンの姿が誰かの声のせいで消えてなくなる。声のした方向を見ると、店の裏口のような所から顔を出してこちらを見ている女の子が居た。歳は僕と同じくらいの子供に見える。何と言えばいいか分からずにそのままでいると、女の子は外に出てきてこちらにずんずんと近づいてきた。目の前で立ち止まったかと思うと、僕と同じようにしゃがんで顔を覗き込んでくる。まるで穴が空いてしまうんじゃないかというほどに顔をまじまじと見られた僕は、慌てて涙で濡れた頬をこすった。
「¿Quién eres tú?」
女の子が口にしたのはスペイン語で、僕には何を言われているのかがさっぱり分からない。何も答えられない僕をまるで不審者でも見るような目つきで見た後に、腕を軽く触ってきた。Tシャツを着て何日も外を歩き続けてきた僕の腕は日焼けで真っ赤に染まっていて、そこに触れたらどうなるかなんて想像もしたくなかったのに。
「痛ッ!なにすんの!」
あまりの痛みに思わず大きな声が出てしまった。僕は英語しか話せないためその言葉はもちろん英語で、目の前にいる恐らくメキシコ人の女の子には通じないはずだった。
「あ、英語だ」
ついさっきまでスペイン語を話していた女の子の口から英語が飛び出す。予想外の出来事に何度も瞬きをすると、女の子は口元を手でおさえながらくすくすと笑った。
「ごめん。きみ、スペイン語が分からないってことは観光客の人だよね?日焼け止めも塗らないで外に出たら肌が大変なことになっちゃうよ」
女の子の笑った顔はとても可愛かった。ここに来るまでに色々なメキシコ人を見かけたけれど、その中でもこの子の笑顔が一番記憶に残った。今までに僕と歳の近い子供の姿を見かけなかったせいもあるかもしれない。
「わたしっていうの。この店で働いてるんだ。きみの名前は?」
ほんの少し首をかしげながら名前を聞かれる。。女の子の名前を何度も何度も頭のなかでつぶやいて忘れないようにした。でもそんなことをしなくてももう一生忘れないだろうと思う。メキシコに来て初めて出会った、歳の近い女の子。
「ぼくは……ダニエル」
その時の僕には『ディアス』というファミリーネームを口にする勇気がまだなかった。
予想どおりは僕より年上で、僕より少し背も高かった。僕と歳が変わらないのに大人と同じように働いているみたいで、顔を出したお店でお土産を売っているらしかった。は僕のことを旅行しにきた人と勘違いをしているようで、どこに泊まっているのかと聞いてきた。僕は旅行しているわけでもないし泊まっている所なんてどこにもない。答えずにずっと黙っていると、は腕時計で時間を確認してから僕の両手を取って言った。
「あ、もう晩ごはんの時間だ。ねぇダニエル、うちで一緒にご飯食べようよ」
急に言われびっくりした僕は思わず「え?」と間抜けな声が出てしまった。は掴んだ両手をぐんと思いきり引いて僕をその場に立たせると、そのまま手をつないでずんずんと歩き出す。僕は疲れて力の入らない足を引きずるようにしながら、について行くしかなかった。
の家はお店が並んでいる通りから少し離れた所にあった。壁やドアの一部がはがれていたり色が変わっていたりでとても古そうに見える。なんだか怖い映画に出てくるオバケの家みたいだと考えてしまったけれど、中に入ってみると思っていたより綺麗で少しホッとした。いくつか部屋があるものの、そこまで広くない家には誰も居なかった。お父さんやお母さんは留守なのかなと思いながら家の中を見渡していると、そんな僕の様子にが気が付いたようだった。
「私、ここに一人で住んでるんだ。誰かと一緒にご飯食べるの久しぶりだからすごく嬉しい」
両手に持っていた袋をテーブルの上に置きながら、とても明るい声では言った。その後、聞いた話によるとは僕と同じ子供なのに学校には行かず、さっきのギフトショップで大人のように働いてここで一人で暮らしているらしい。ご飯は周りにあるピザやハンバーガーのお店から貰って来た余り物で、今日はタコスか何かみたいだった。
「私のお父さんはアメリカ人でね、お母さんはメキシコ人なの。私ね、昔アメリカに住んでたんだよ。だから英語が話せるの」
はテーブルに置いた袋から今日の晩ごはんらしいものを取り出した。そのお父さんとお母さんはどうしたのだろうと思いながらをジッと見つめていると、僕が考えていることをは分かっているみたいで、その後のことを話し始めた。
「お父さんは急に居なくなっちゃって。だからお母さんとここに引っ越してきたんだ」
“お父さんは急に居なくなっちゃって”。その言葉に僕の心臓がドキドキとうるさくなる。たぶん、自分と似ていると思ってしまったからだと思う。はお父さんと離れ離れになって、僕はお母さんと離れ離れになった。その理由を聞かされることもなく。
「私はきょうだいも居ないから、ここにひとりぼっちなの。でも私ももう子供じゃないからね。ひとりでだって平気なんだ」
そう言うの顔はどこか得意げだったが、僕にはさっきの話がずっと引っかかっていた。前までアメリカに住んでいて、お父さんが居なくなってお母さんと一緒にメキシコに引っ越してきた。でもこの家には一人ぼっちで住んでいると言った。ここまで考えたところで、頭の中が“嫌な予感”でいっぱいになる。
「の……お母さんは?」
恐る恐る問いかけると、は僕の方を見ながらも、どこか遠くの方を見つめているような不思議な表情をしていた。
「半年前に死んじゃった」
はそう言いながら貰って来た余り物のタコスをお皿に落とす。中に入っていた野菜がドサッと音を立ててお皿の上に着地し、ぐちゃぐちゃになった。は慌てた様子で「あ、ごめん」と口にしたけれど、お腹がペコペコに空いている僕には見た目なんてどうでも良かった。タコスのいいにおいをかぎながら、と僕は同じなんだと思った。お父さんが居なくなってお母さんも死んでひとりぼっちになったと、お父さんもショーンも死んで一人プエルト・ロボスに行こうとしている僕。どっちもこの太陽の光が眩しいメキシコで、ひとりぼっち。
「ほら、食べよう。余り物だけどおいしそうだよ」
タコスの乗ったお皿をテーブルに置き、ウキウキした様子では言う。向かい合って椅子に座ると、僕はすぐさまタコスのお皿を引き寄せてかぶりついた。何日ぶりかも覚えていないくらいの久しぶりなご飯は涙が出そうなほどに美味しい。
「ねぇ、ダニエルは観光客じゃないの?スペイン語も話せないのにあそこで何してたの?お父さんとかお母さんは?」
ご飯を食べながらが僕を質問攻めにしてきた。どれから答えようかと迷ったけれど、たぶんどの質問にも答えないほうが良いんじゃないだろうか。お父さんもお母さんも居ないとか、たくさんの警察の人を吹き飛ばして国境を無理矢理越えたとか、警察は僕を探しているだろうけど僕はプエルト・ロボスに行きたいと思っているだとか、全てを正直に答えてしまえば、きっと怪しまれてしまうに決まっている。
僕は何も答えずにひたすらタコスを口に運び続け無視を決め込んだものの、は黙る気はないようだった。
「ダニエルみたいな小さい子が一人で居るなんて危ないしさ、家族の人が心配してるんじゃない?」
「子ども扱いしないでよ。お父さんとお母さんが居なくたって一人でも平気だし」
言葉をさえぎるように大きな声を上げた。言い過ぎてしまったと思った時には既に遅く、は眉の間に大きな皺を作ると睨むような目で僕を見る。と目を合わせているのが気まずくなり、僕は思わず目を伏せた。
「じゃあショーンって誰?」
“ショーン”。その名前が耳に飛び込んできて、思わず固まる。たぶんはさっき僕がお店の裏手でショーンの名前を呟いていたのを聞いていたんだ。なんて答えよう?どう答えたらいい?考えれば考えるほど焦って変な汗が出てくる。目を伏せてお皿の上にある食べかけのタコスだけを見続けているせいで、僕がどんな表情をしているかには分からないだろう。でもきっと今の僕は困った顔をしているに違いない。僕が黙ると、も同じように黙った。小さな部屋にかすかな冷蔵庫の動く音だけが響き、は大きく息を吸い、そして吐く。僕に聞こえるようにわざとらしくため息をついたみたいだった。
「私は自分のこといっぱい話したのに、ダニエルはなんにも話してくれないの?ずるいじゃん」
「僕、別に聞いてない。どうでもいいよ、のことなんか」
また言い過ぎてしまったと思った時には既に遅く、は昔の僕と同じようにふくれっ面をして顔をぷいとそむける。
の態度や言い草に引っかかりつつも、こうしてご飯を食べさせてもらっているのに何も話せない申し訳なさのような気持ちだってないわけじゃない。それでも何も話せるわけがないし、何から話せばいいのかも分からない。お父さんやショーンが死んだことや、国境を越えたこと、そして僕自身の“力”のこと。話せることなんてなにもないじゃないか。
「もう遅いし、今日はうちに泊まっていけば?ダニエルが嫌じゃなければだけど」
僕の耳にの声が届いた。目線をあげてちらりとそちらを見ると、はテーブルに頬杖をついてさっきと同じようなふくれっ面をしていた。僕は「ありがと」と小さな声で言うと、も同じように小さな声で「ん」と返事をする。
には悪いけれど、何も話せないし話すべきではないと思う。僕はこのままずっと一人でいいし、もう誰かと一緒に居ることも、誰かを頼ることもしたくなかった。明日の朝になったらには何も言わずにここを出よう。僕は、一刻も早くプエルト・ロボスに行くんだ。行かなきゃいけないんだ。