ネプトゥーヌス - 2
その日の夜、僕はの家に泊まり一つしかないベッドを二人で使った。会ったばかりの女の子と一緒に眠るのはすごく恥ずかしかったけれど、久しぶりに見たベッドの誘惑には勝てなかった。明日の朝、より早く起きてここをこっそりと出よう。そしてプエルト・ロボスを目指そう。そう思っていたのに、ここまでの旅で疲れ切っていた僕はなんの夢を見ることもなくぐっすり眠ってしまい、目が覚めた時に隣にの姿はなかった。しまった寝坊した。そう思い急いでベッドから飛び降りて部屋を出ると、キッチンにの姿があった。
「あ、やっと起きたんだ。朝ごはん食べる?」
フライパンを片手に僕の方へ振り返りながらは言う。卵の焼けるいいにおいが鼻をくすぐり、僕はまたもや誘惑に負けて、気が付いた時には首を縦に振りうなずいていた。朝ごはんは少し焦げたスクランブルエッグで、ぐずぐずのそれはとても美味しそうには見えなかったけれど、しばらく卵なんて食べていなかった僕にはごちそうに思えた。
フォークで卵を口に運びながら考える。この朝ごはんを食べ終わった後はあの店に働きにいくだろうから、その隙にここを出ようか。
「おいしい?」
向かいの椅子に座り、はどこか自慢げに笑いながら聞く。僕が声を出さずに頷いて返事をすると、も僕と同じように朝ごはんを食べ始めた。
今日ここを出ようと考えていた僕の気持ちが、の笑顔で少し揺らぐ。もう一晩くらいはここに泊まっても良いのかもしれない。体はヘトヘトだし、柔らかいベッドとまともなご飯が食べられることへの魅力はとても大きい。そこまで考えてハッとした。僕は何を考えてるんだろう。ショーンが撃たれ、僕の目の前で死んでしまったあの瞬間、僕はショーンのためにプエルト・ロボスを目指すと誓ったんじゃないか。
手に持っていたフォークをテーブルの上に置くと、お皿とぶつかりガチャンという思っていたよりも大きな音が出た。それに驚いたのかは食べる手を止め、目を丸くして僕の顔を見ている。
「僕、もう行かなきゃ。ベッドとご飯ありがとう」
椅子から立ち上がり、僕はさっきまで寝ていたベッドの部屋に戻ると自分の荷物を手に取った。ショーンから貰ったお下がりのリュックの中身はほとんどない。ここを出たらまた万引きをしなくちゃいけないかもしれない。そう考えると気持ちが少し沈む。そのまま家を出ようとした時、目の前にが立ちふさがっていた。行く手をはばむように両手を広げて僕を睨みつけている。
「行かなきゃって、どこに行くの?一人で行くの?子供だけで?」
「子ども扱いしないでって言ったでしょ。プエルト・ロボスになんか僕ひとりでだって行けるよ」
がまるで叱るように大きな声を出したので、僕もむきになって大きな声で言い返した。プエルト・ロボスのことを言うつもりはなかったのについうっかり口にしてしまったけれど、後悔してももう遅かった。プエルト・ロボスの名前を聞くなりは顔をしわくちゃにして、まるで僕の言ったことが信じられないとでも言うような表情をしていた。
「何言ってんの。プエルト・ロボスはここからすごく遠いんだよ。歩いて行けるような距離じゃないよ。車とかないと……」
「じゃあどうしろって言うの?僕はプエルト・ロボスに行かなきゃいけないんだ!ショーンに誓ったんだ!プエルト・ロボスに行くって!」
気が付けばショーンの名前を声に出していた。もうどうでも良かった。ここからプエルト・ロボスまでどのくらいの距離があるだとか、またあの暑い太陽の下を何日も歩かなきゃいけないとか、ご飯とか水とかベッドとか、もうどうでも良かった。僕はプエルト・ロボスに行く。行かなきゃいけないんだ。リュックを背負い、立ちふさがるの体を押しのけて歩き出す。外に出るドアに手をかけようとしたその時、僕の腕に何かが触れグンと後ろに引かれる。それはの手で、まるで駄々をこねるみたいに腕にしがみついてきていた。
「だめだってば、ダニエル、死んじゃうよ。子供だけじゃ無理だよ」
子供、子供、子供。それは何度もショーンに言われた言葉だった。僕は大人になりたかった。ショーンやフィンたちと対等になりたかった。家があったシアトルからこのメキシコまでずっと旅をしてきて、僕だって少しは大人になっていると思っていた。思いたかった。それなのに。手のひらを強く握って拳をつくる。頭のてっぺんやつま先に“力”が集まっていく感覚がした。テーブルに置かれた食器が揺れ、カタカタという音が聞こえる。
「もう、ほっといてよ!」
大きな声と同時にの腕を振り払った。そこまで強くしたつもりはなかったけれど、の体は後方に飛び床にドサリと倒れ込む。その光景にハッとし、自分が無意識に“力”を使ってしまったことが分かった。しまった。そう思ってももう遅い。床に倒れ込むに駆け寄ろうかと思ったけれど足が動かない。をこのままにして出て行ってしまおうかとも考えたが、それすらも出来ずに僕はその場に立ち尽くした。
「、ごめん、僕、……」
独り言のような小さな呟きはまで届いていたかどうかは分からない。目から涙が勝手にあふれ出して頬を伝っていく。そして僕の涙が伝染したみたいに、床に倒れ込んだままのの体が震えだし小さな泣き声が聞こえて来た。
「……?」
名前を呼ぶと、は上半身だけを起こし僕の方を見た。やはり僕と同じように泣いていて、鼻をすすりながら手の甲で自分の頬を何度も何度も拭っていた。
「わたし、ずっとひとりぼっちだったから、きのうはすごく楽しかった。幸せだった」
途切れ途切れの聞き取りにくい声だったけれど、“ずっとひとりぼっちだった”という言葉がまるで僕の胸に突き刺さったような気持ちだった。お父さんが死んで、ショーンが死んでしまった僕は、何があろうとこのままずっとひとりぼっちなのだと思っていた。でもは僕よりも先に、僕よりも多くの“ひとりぼっち”を感じながら今まで生きて来たんだ。僕と変わらない歳なのに、僕よりもつらい日々を長く過ごして来たんだ。
「ダニエル、行かないでよ。せっかくともだちになれたのに」
が何度拭っても次から次へと流れてくる涙が頬を濡らしていく。僕はゆっくりとに近づき、しゃがんで顔を覗き込むと、涙の溜まった瞳の表面に僕の姿が映っていた。手を伸ばしての頬に触れると、指先が涙で濡れた。
「ごめん、……ごめんね、」
ただそれだけを呟くと、が僕の手を掴みぎゅっと握る。
僕は何があろうとプエルト・ロボスに行かなきゃいけない。たとえ遠くても、危険な旅になろうと分かり切っていても、行かなきゃいけない。それがショーンとの約束だから。でも僕には、いま目の前で泣いている女の子を放っておくことが出来そうになかった。僕よりもひとりぼっちで、僕よりも泣き虫で、会ったばかりの僕を“ともだち”だと呼んでくれた、のことを。
それから一週間ほどの日にちが経った。今の所は警察官のような人は見ていないし、たぶん国境での事件で僕を探している人はここにはいないと思う。そして僕はの“仕事”を手伝うようになった。はギフトショップで観光客向けの良く分からないお土産を売っている。僕はてっきり初めて会った時に出て来た店で働いているのかと思っていたけれど違って、はあの店の中のひとつの狭いスペースを借りてお土産を売っているようだった。
店はそれなりの広さだけど、が借りているスペースは僕が昔ハンボルト郡で暮らしていた時のテントよりも狭く、そこに布を敷いてキーホルダーやら木彫りの人形やらのお土産を並べて売っていた。は「けっこう売れるんだよ」と言っていたけれど僕にはあまり信じられなかったし、実際僕がお土産売りを手伝った時も足を止めてくれる人はほとんどいなかったように思う。
との日々はとても楽しかった。一緒にお土産品を作ってみたり、一緒にご飯を食べたり、一緒に眠ったり。友達になったばかりの僕らはまるで家族みたいに過ごしていた。きっとお互いに一人ぼっちだったから余計にそう感じていたのかもしれない。このままプエルト・ロボスには行かずここで暮らしても良いのかなぁと思ったこともあった。でも、その思いが頭のなかに沸くたびにお父さんやショーンの顔も同時に思い浮かぶ。とは一緒に居たい。クリスやノアみたいにもう離れ離れにはなりたくない。それでも僕はやっぱりプエルト・ロボスに行かなきゃいけない。そうでなければ僕だけが生き残ってしまった意味がない気がしたから。
ある日のこと。僕は以前フィンに教えてもらったナイフの使い方を思い出しながら、家でお土産用の木彫りの人形を作っていた。作ろうとしているのはクマの人形。メキシコにクマが居るかどうかは分からないけれど、可愛いから良いと思う。僕が家に居る代わりに、は食べ物を探しに外に出ていた。いつものように周辺にある食べ物のお店に余り物を分けてもらうか、そのあたりのゴミ捨て場でも漁っているのかもしれない。そんなことを考えながら僕は家の壁掛け時計を見る。
「今日は遅いなぁ」
思わず独り言をつぶやいた。はいつもならば用事を済ませてさっさと帰ってくるはずなのに、この日は家を出てからすでに二時間近く経っている。もしかしたら今日は食べ物を見つけるのに少し苦戦しているのかな。そう思った僕はとりあえずを探すために家を出た。
陽が沈むにはまだもう少し時間がある街は、人が多くにぎわっていてとても楽しそうだった。ギフトショップ、タコス屋さん、ジューススタンド……。いろんな店が建ち並ぶ通りを抜けながらの姿を探すも、なかなか見つからない。そして店の並びが途切れ、気が付けば僕の足はビーチに入っていた。白い砂がつま先に少し乗っかっていて、目の前には打ち寄せては引いていく波打ち際がある。海の上には大きな太陽があって、あれが沈む時間帯になったらオレンジ色でとても綺麗なのだろうなと思った。
海なんかに見惚れていないでを探さなくちゃ。この辺りは夜になると子供だけでは危ないと思うし、何よりは女の子だ。一人でいれば余計にあぶない。そんなことを考えながら来た道を引き返そうとした時だった。少し離れた向こう側の白い砂浜の上に見覚えのある背中がある。それがだと僕にはすぐ分かった。膝を抱えながら砂の上に座り込んで、海をジッと見つめているようだった。
僕はに駆け寄り、その肩に手を置く。
「。こんなとこでなにしてんの?食べ物探しに行ったんじゃ……」
そこまでを口にした所で僕は声を止めた。の様子がおかしかったからだ。僕の方へ振り向くこともなく、ただまっすぐに海を見つめていて、いつもの明るい様子はどこにもない。お腹でも痛いのか、それとも何処か怪我でもしてしまったのかと思い、僕はの体を見る。すると、一枚の紙きれを握っていることが分かった。なんだろうと思い、その紙きれをよく見た。潮風ではためくそれに『国境』と『ショーン・ディアス』という文字が微かに見え、息が止まったような気分になる。の手から紙きれを奪って改めて見るとそれは新聞の切り抜きのようで、日付は今日よりだいぶ前の古いもののようだった。
「ショーンって、ダニエルのお兄ちゃんなの?」
小さな声でが呟く。恐る恐るそちらを見ると、はただまっすぐに僕の顔を見つめていた。その強いまなざしに心臓をギュッと掴まれたような気がして、僕はただゆっくりと頷くことしか出来なかった。
僕はにあの日の出来事を話した。お父さんの故郷であるプエルト・ロボスを目指していたこと。ショーンは僕のために全てを犠牲にしてくれたこと。そして、ショーン“は”誰も傷つけなかったということを。
ほとんどのことを話したものの、僕の“力”のことは話せなかった。きっと怖がらせてしまうと思ったからだ。メキシコに来て一番最初に出来た友達を失いたくない。がいつかクリスのように、僕の“力”のせいで嫌な思いをしてしまうことが怖かった。強い武器を持ったたくさんの警官たちをたった一人で振り切って逃げてきたなんて、きっと信じて貰えないだろう。でも、“僕が力を使って殺した”、“たくさんの警官たちを吹き飛ばして虐殺した”なんて言えなかった。言ってしまったら、はもう僕の友達では居てくれないだろう。
「わかった」
色々な思いでぐちゃぐちゃになった僕の考えを、いつも通りのの明るい声が引き裂く。思わず「え?」と間抜けな声が出てしまった。
「よし、じゃあプエルト・ロボスに行こう!私も協力する。誰か車に乗せてくれる人とかいるかもしれないし、探してみようよ」
は早口でそう言ってその場に立ち上がると、ファイティングポーズをするかのように体の前で拳を作っていた。座り込んだままの僕を見下ろし、まるで空に浮かんでいる太陽みたいな眩しい笑顔を見せる。
「……信じてくれるの?僕の話」
声が震えていたことが自分でも分かって、あまりの格好悪さに消えてしまいたくなる。僕の言葉にはきょとんとし目を丸くした後にすぐ、先ほどの笑顔を僕に向けながら手を差し出して言った。
「当たり前じゃん。だって私たち友達でしょ?」
その言葉が、その笑顔が僕には眩しすぎて、涙が出そうになるのを目を伏せて隠した。差し出されたの手を取って握り立ち上がる。小さな声で「ありがとう」と呟いたけれど、に届いたかどうかは分からなかった。
“友達にそんな嘘をついちゃだめだ”
あの日、ビーバー・クリークで“力”を使ってクリスの願いを叶えた時、ショーンに言われた言葉が頭の中に蘇る。だめだということは自分でも分かっていた。それでも僕はもう友達を失いたくない。大切な人を失うのはもう嫌だった。