ネプトゥーヌス - 4
もう一度抱き締めたいと肩を引き寄せようとした瞬間だった。が両手で僕の胸辺りを強く押して体が離れる。急に体を押されたことに対しての驚きはあったものの、それはすぐに“勢い余ってしてしまった行動”への後悔に変わる。目の前に居るは目に涙を溜め、顔を真っ赤にしてこちらを見つめていた。その表情に怒りの感情はないようには見えたが、細かく震えるまぶたと泳ぐ目線、汗が滲みしっとりとしている髪、そしてずっと口元をおさえているその仕草に、ひどい動揺が見て取れた。
自分はなんてことをしたのだろうと思ってももう遅い。弁明しようと名前を口にしようとした瞬間、は僕を押しのけ、小走りで自室の方へ向かった。僕が引き留める隙もなく、そのまま部屋に飛び込むと大きな音を立ててドアが閉められる。
「、?」
を追いかけ部屋の前まで行き、ドアを拳で叩きながら何度も名を呼ぶが返答はない。ドアに鍵は付いていないため開けようと思えば開けられるだろう。しかしこの扉を無理矢理に開けたところでは僕に不信感を募らせるだけに違いない。そう思うと、ドアノブに手を掛けることも出来なかった。
今までずっと同じ屋根の下で暮らして来た家族同然の男に、まるで恋人同士がするかのような強引なハグをされれば誰だって驚くし、不信感や嫌悪感を抱くだろう。それは当然だ。でも我慢できなかった。はじめこそ僕は、にあのバーでは働いて欲しくないという気持ちだけだったのに。あの男にこの以上触れられて欲しくなかった。僕を弟だと説明したことに腹が立った。何より僕が、を自分の物にしてしまいたいと思ってしまった。
先ほどの言葉が頭の中に蘇る。
“私はダニエルより年上なんだから、あなたとの生活を守る義務がある”
例のバーで働く理由をはそう話した。年上?義務?そんなものくそくらえだ。僕だってもう十五歳だし、僕たちの僅かな歳の差なんてはっきり言ってどうでもいい。があんな所で働かなくたってやっていける。そう、僕には“力”があるんだ。この数年間ひた隠しにしてきた、に対する唯一の“嘘”。
お金さえあればいい。お金さえあれば僕たちは生活していける。まだ若いからという理由でまともな職にもつけないのなら、“働くこと以外”でお金を手に入れるしかない。そう思った。僕は立ち尽くしていたの部屋の前から走り出し、そのまま家を飛び出す。周囲にあるいくつかの住宅らしき建物の前を通り過ぎると、比較的交通量の多い太い道路に出た。目の前を大きな車が数台走り去っていき、砂埃が舞う。
この道路沿いにはコンビニやスーパーがいくつかあることと、その店内にはATMがあることも僕は知っていた。夜まで待って店が閉店したら、セキュリティを無効にして店に侵入しATMからまとまったお金を盗もう。夜ならば人を傷つけるリスクも減る。手のひらに汗が滲んだのが分かって、強く拳を握った。何を今更ためらうことがある。僕は今までに何人も人を傷つけて来た。色々なものを盗んで来た。ATMからお金を盗むなんて何でもないことだし、朝飯前じゃないか。
ショーンは今の僕を見たら何と言うだろう。好きな女の子のために、のためにお金を盗もうとしている僕を見たら、ショーンは僕を叱るだろうか。それとも、良くやったと褒めてくれるだろうか。
日が落ち、辺りが真っ暗な闇に覆われる時間帯。僕は一番最初に目に着いた何の変哲もないコンビニに侵入した。店のドア、鍵、セキュリティ、ATMの機械、そのほとんどを破壊しておこなった犯罪行為だったが、ATMに入っていた金額はそこまでではなく、成果は想像以上に少なかった。
家に帰った時はすでに深夜を回っていて、中は静まり返り電気すら点いていなかった。閉まったままのの部屋のドアを見る限り彼女はまだ部屋の中に居るのだろう。僕が盗みを働いて帰ってきたなんてことも知らずに。僕はお金の入ったバッグをダイニングテーブルの上に置いた。朝が来て、が部屋から出てきたらこれを渡そう。これからは僕がお金をなんとかするから、はバーで働かなくてもいい。そう言おう。
その時だった。背後でドアが開くような音が聞こえ、思わず反射的に振り返り音の方向を見る。そこにはの姿があり、こんな真夜中の時間帯だと言うのにまだ起きていたということに少し驚いた。
「どこ、行ってたの?」
はゆっくりとこちらに近づきながら小さな声で僕に問う。まだ起きてたの?なんてことを言おうと思い口を開いたのと同時に、はダイニングテーブルの上に置かれたバッグに気付いたようだった。
「なにそれ」
問いには何も答えなかったが、それを不審に思ったのかはバッグを手に取ると迷いなく中を見る。僕はATMから盗んできたお金を“想像以上に少なかった”と感じたが、ずっと貧しい暮らしをしてきたにとっては恐らくは見たことのないくらいの大金だろう。
「ちょっと、……こんな大金どうしたの?」
大金を持っていることに恐怖を感じたのか、はすぐさまバッグをテーブルに戻し僕に詰め寄った。こちらを見つめる強い視線に耐えられなくなり、僕は彼女から目をそらして呟く。
「僕たちのお金だよ。これからは僕がお金をなんとかするから、は働かなくてもいい。あんな所、今すぐに辞めなよ」
「待って。それならこのお金は何なのか教えてよ。それが分からなきゃこんな大金使えるわけないでしょ」
は僕の腕を掴み、すがりながら必死で問う。きっと彼女はこのお金から発せられる危ないにおいを感じ取ったのだろう。目の前にあるこの大金は、僕がまともじゃない方法で手に入れたものだということを、どこかで分かっているんだ。さっき、ここから少し離れた交通量の多い道路沿いにあるコンビニのATMから盗んだ。店のドアも鍵もセキュリティもATMの機械も全てを破壊して盗んできた、顔も名前も知らない人たちの大事な財産。それを盗んできたんだよ。僕たちの生活のために。……そんなこと、口が裂けても言えるはずがない。
これ以上何も言えることはないと再び口を結んだ。まるで突き刺すような目線を送り続けるを同じように強く見つめる。その態度が気に入らなかったのか、の眉間に深い皺が寄り、僕の腕から手を離した。
「ダニエル。悪いけどこのお金は使えない。私、これからもバーで働くよ。近いうちにVIPルームでの接客もすることになると思う。そっちの方が給料も良いし」
「……は?」
信じられない言葉が飛び込んできて耳を疑い、口から間の抜けた声が漏れた。がバーを辞めてくれるようにお金を盗んできたのに、辞めるどころかVIPルームでも接客するなんて、とてもじゃないが信じたくなかったし、今すぐに耳を塞ぎたい気持ちになる。VIPルーム。店の奥にあるそこでは売春も行われているという噂も耳にしたことがあるが、もしそれが本当で、がそんなことをさせられるなんて、僕以外の男に触れられるなんて、考えただけで泣きだしたい気持ちになる。
「、待ってよ冗談でしょ?僕、VIPルームって、その……体を売ってる人がいるって話聞いたんだ。そんなの許せるわけない」
「大丈夫。そんなのただの噂だよ。お客さんと従業員の距離が近いだけで、ちょっと触られたりするぐらいだから」
“そんなのただの噂”?“ちょっと触られたりするぐらい”?火のない所に煙は立たないし、指一本でも爪の先でもが見知らぬ男に触れられるなんて、僕は嫌だ。に触れていいのは僕だけだ。ハグをすることも、同じベッドで眠ることも、全てを許されるのはこの世で僕だけなんだ。
「だめだ……。そんなの、だめだよ、」
無意識に声が漏れ、目に溜まっていく涙で視界が歪んでいくのが分かる。僕はの肩を掴んで自分の方へ引き寄せると、背中に手を回して強く抱きしめた。は抵抗をし腕の中で暴れたが、それ以上の力で抱きしめ抵抗を抑え込む。
「離して」
「嫌だ。離さない」
自分の声もの声もどちらも震えていた。僕の目から涙が零れ、の髪の上にぱたぱたと落ちる。抵抗が無駄だと悟ったのかはすぐに暴れることを止めた。抱きしめていた腕をゆるめ、恐る恐るの顔を覗き込むと僕と同じように涙を流していた。濡れた丸い頬が薄暗い部屋の僅かな光源を反射している。僕は涙で濡れたその頬に口唇を這わせると、をもう一度抱きしめた。今度は先ほどとは違う、優しい力で。
「、お願いだから、僕以外の男には触らせないって誓って。僕だけだって、言ってよ」
情けなく声が震えていたが、どう頑張っても止められそうにはなかった。次から次へと涙が溢れ、自分の頬との髪が僕の涙で濡れていく。するとがふと顔を上げ、僕を見上げた。涙で揺らめく瞳の色がひどく美しい。
「私にはずっとダニエルだけだよ。今までも、これからも」
は小さく呟くと、先程の僕と同じように涙で濡れた僕の頬に口唇を這わせる。の口唇の感触と、未だ溢れ続ける涙が妙にくすぐったく感じる。向かい合う僕たちの泣き顔はまるで、鏡合わせかのようだった。
あれから二人そろってまるで赤ん坊のように泣き続けた後、泣き疲れた僕たちはいつの間にかリビングのソファで寄り添って眠っていた。カーテンの隙間から朝日が部屋の中に差し込んできて、その眩しさにゆっくりと目を開ける。いま何時だろう。そう思いながら部屋の時計を見ようとしたとき、自分のすぐ隣にの寝顔があった。
昨夜はここで眠ってしまったのだということを思い出しながら、の顔をジッと見つめる。頬にはまだ涙のあとが残っていて目の周りはなんだか少し腫れぼったく見えた。恐らく散々泣いた僕も同じような顔をしているに違いない。の寝息を聞きながら、これからは僕がを守っていこうと強く思った。以前、お父さんが僕とショーンを守ろうとしたように、ショーンが僕を守ってくれたように、僕もを守ろう。なにがあろうとずっと傍で支えて行こう。
しかしだ。お金の件に関しては解決策が見出せていない。僕が盗んできたお金を見た時のの反応を見る限り、彼女は僕が盗みを働くことを許しはしないだろう。それでも僕はがあのバーで働くことは反対だし、そこは必ず説得するべきだとは思う。やはり、以前がギフトショップの一角を借りて土産物を売っていた時のように、まともな職を探すのが一番良いのかもしれない。たとえ稼ぎが少なくても二人で力を合わせればきっとなんとかやっていけるはずだ。
「ダニエル」
あれこれと考えていると、名を呼ばれハッとした。目の前にあるの目はいつの間にか開かれておりこちらをジッと見つめていて、僕は思わず反射的に「おはよう」と挨拶をした。は僕の挨拶に返答することなく、僕の顔を見つめ続けたまま、まだ眠気があるのかゆっくりと瞬きを繰り返す。
「あのお金については、何も話してくれないの?」
思わずぎくりとし、冷静を装おうと思ってはいたものの自分の眉が微かに動いてしまったことを自覚した。お金は盗んできたものだ、と白状してしまっても良いのかもしれない。しかしその次に、にとってはあの大金をどうやって一人で盗んできたのか?という話になるだろう。そうなれば僕の“力”のことを話さざるを得ない。何の言葉も発せられずただ口を閉じたままの僕を見たは、小さく溜息をついた。
「ダニエル、私、あなたには何か秘密があるんじゃないかって思ってた。私に隠してることがあるんでしょ?出会った時から、今までずっと」
予想もしていなかったの言葉に驚き、まるで呼吸が止まってしまったかのような感覚に陥った。が指摘した“秘密”というのは、いつだったかご飯を買うお金をチョコクリスプに使ったことでも、本を拾って勉強していることでも、内緒で車を修理したことでも、そのどれでもないということは分かっている。彼女はずっと気付いていた。僕の“力”そのものは把握してはいないものの、僕に大きな“秘密”があるということに。
心臓の音が大きくなっていくのが自分でも良く分かる。もしいまここで僕の“力”のことをに話したら信じてくれるだろうか。理解してくれるだろうか。そして今まで僕がおこなってきた非人道的なことを聞いても、まだ僕を傍に置いてくれるだろうか。僕の傍に居てくれるだろうか。もし、“力”のことを話したら、に嫌われてしまうかもしれない。そう考えると僕の口唇は重く、思う様に声が出せなかった。
僕の耳に再びの溜息が聞こえた。その表情は僕の予想に反した、穏やかな微笑みだった。
「いいよ。ダニエルが話してくれるまで待つ。いつか聞かせてくれるなら、私はそれでいいから」
は優しい声でそう言った。今までに経験したことのないような言葉にし難い感情が胸に溢れ、僕はまだ涙が流れそうになる。それをの目から隠すために彼女の頭を抱えると、小さな声で「ありがとう」と呟くことしか出来なかった。
それから僕たちは再び職探しを始めた。レストランのウェイター、ホテルの清掃員、ギフトショップや観光客向けの商売など、様々な職種を探したが、やはり僕たちのような保護者の居ない子供を雇ってくれる所はなかなか見つからなかった。以前、ショーンと一緒にハンボルト郡の農園で働いていたが、あれは違法農園ということもあってやむを得ず雇われていたのだなと今更ながらに思う。
とはまだはっきりとしたことは話していないが、例のバーはなるべく早く辞めてもらおうと思っていた。はあの日以来店には出ていないようなので、オーナーに指摘され解雇されるか、自主的に辞職するかのどちらかにはなるだろう。
あちこちを歩き回り職を探したが今日も思ったような成果は得られず、家までの帰り道は足取りが重かった。昔の様に土産物を手作りして売ってもいいが、それでは二人分の生活費はとても稼げない。どうしたものかとアイディアを練ろうとしても何も思い浮かばない。とりあえず早く家に帰ろう。思ったよりかなり遅くなってしまったため、大通りの店はほとんどが店じまいを始めている。きっと今日もが何かしらのご飯を作って待ってくれているに違いないし、早くの顔が見たかった。
家に着くといつものように玄関ドアを開け、中に向かって「ただいま」と声をかけた。今日の夕飯はなんだろうと思っていたが、キッチンからはなんのにおいもせず、家の中は静まりかえっている。かなり暗い時間帯に差し掛かっているにも関わらず、電気すらも点いておらず真っ暗だった。
「あれ……?」
思わず独り言を呟いた。今日、はどこかに出かける予定はなかったはずだ。そういう時は必ず僕に言ってから出かけるし、もし言えなかったとしたら部屋に書き置きを残すはず。ダイニングテーブルにもリビングにも書き置きらしき物は一切見当たらない。
「?」
小さな声で名を呼びながらキッチンまで進んだ時に、床に食器“だった”物が落ちていることに気が付く。高い所から落とされたのだろう食器はばらばらに砕けていた。が落として割ったという可能性もあるが、食器の破片などという危険な物を床に放置して出かけるなど彼女ならば考えられない。
そこまで考えた所でとてつもなく嫌な予感がした。まさか連れ去られた?誰に?思い当たるのは例のバーの関係者だ。考えすぎかもしれない。心配しすぎかもしれない。しかし、僕の中に溢れ返る嫌な予感は胸騒ぎに変わりどんどんと心臓が早くなる。探さなければ。いまを探さなければ一生見つからない気がした。一生会えないような気がした。
僕は家を飛び出し、例のバーに向かって走り出す。怪しいのはあそこしかありえない。もしそこにが居なくても街中を探そう。見つかるまで探そう。そう思っていたが、僕の“嫌な予感”はそのほとんどが的中する結果になることを、この時は知る由もなかった。