ネプトゥーヌス - 5
僕は家を出て店が建ち並ぶ大通りを走り抜けた。ほとんどの店が閉まっている時間帯のため人は少なく、誰かとぶつかるようなことがなかったのは良いことだったかもしれない。バーまでそこまでの距離はないはずだが、早く早くと焦れば焦る程に道のりが長く感じた。
一本裏の道に入り、やっとバーの前までたどり着く。そしてその違和感にすぐに気が付いた。この店が昼間から営業しているかどうかは知らないしどうでもいいが、少なくとも夜間の営業はしているはず。それなのに店には電気すらも点いていないように見え、休業日の表示札もない。
明らかにおかしい。そう思い閉め切られている店の正面ドアに耳を当てた。中の音をなんとか聞き取ろうとすると、微かに聞こえるのは男性らしき低い声と、女性らしき高い声。そしてそれは言い争っているようなものに聞こえる。声の主がなのかどうかも、どんな言葉を発しているのかも聞き取れず、僕は店の側面に回った。そこにはいくつかガラス戸がありカーテンが閉め切られていたため中の様子は伺えなかったが、こんなのは僕の“力”を持ってすればどうということはない。
意識を集中させ、いま僕が居る店の外側からカーテンを動かした。中の人間が怪しまないように少しずつ隙間を開けそこから覗き込むと、信じられない、いや、信じたくない光景が広がっていた。
「……!?」
思わず名を呼び、僕の嫌な予感は的中してしまったのだと感じた。中に居たのはやはりで、拘束されているのか床に倒れ込みながら誰かに何かを訴えているようだった。大きな口を開けて話すその様子を見る限り大声を出しているのだろう。を取り囲む数人の男の中にひと際大柄な男がおり、太い腕に隙間なくタトゥーが彫られている。男はにゆっくりと近づくと目の前で膝をつき、の首を掴んで無理矢理に上体を起こすと彼女の腹に拳を突き入れた。
何が起きているのか分からなかった。その男のパンチではすぐに気を失い、まるで死んでしまったかのように床にごとりと倒れ込む。早くを助けなければと何かしらの方法を考えようとしていた思考が、目の前の光景のせいで全て吹っ飛んだ。
「やめろ……、やめろ!」
気が付けば大声を出していたが、その声は目の前の窓が割れる音でかき消される。横に並んでいた窓ガラスが全て壊れて飛び、破片が店の中に入り込む。僕の中に溢れ返る怒りはそれだけでは止まらず、窓枠とその周囲の建物の一部を破壊し、大きな穴を開けた。一瞬の出来事に中に居た下っ端らしき男たちは、誰もが驚いたように目を見開きこちらを見ていたが、に暴行を加えた大柄な男だけは乾いた笑いをこぼしつつ、両手を広げおどけているように見えた。
「おいおい、随分とせっかちなお客さんだな。どうしてくれんだよその壁。お前が弁償してくれんのか?」
男がそう言う間に僕は店の中に入り込む。下っ端は戸惑いながらも、僕を危険人物だと判断したのか腰からナイフを取り出したり、拳銃らしきものを懐から取り出す。今更そんな物でひるんではいられないと、僕は男を強く睨みつけた。
「を返せ。今すぐ」
「ああ、お前、のツレか。こりゃたまげたぜ。ナイト様の登場ってか?」
僕の言葉にも男は相変わらずおどけた様子でそう言い、少し屈みこんでの胸倉を掴んだ。まるで僕に見せつけるように彼女の首や髪を掴み、乱暴に扱うその行為に頭に血が昇るような感覚がした。
「に触るな!」
思わず出してしまった叫び声と共に、先程吹き飛ばし床に散らばったままのガラスの破片がカタカタと音を立てる。異様な雰囲気に下っ端たちは動揺しているように見えたが、恐らくを掴んだこの大柄な男はリーダー的存在なのだろう。僕に対してこれっぽっちもひるんでいる様子は感じられない。
「なぁ、落ち着けよ坊主」
男はから手を離し、まるで“話し合おう”とでも言いたげに両手をホールドアップする。
「にはもう固定の客がついてる。いま辞めて貰っちゃ店の利益が減るから困るんだよ。悪いことは言わねぇ、坊主も家に帰んな。はゆっくり俺らが“分からせて”やるから」
その言葉に、僕は以前家の前でと話をしていた男が居たことを思い出した。と楽しそうに会話をし、の肩に触れ、まるで親しい間柄かのように彼女を「ちゃん」などと呼んでいた。つまり“ああいう男”がの固定客というわけで、いまが居なくなると客から巻き上げる金が少なくなる。散々金を稼いだ後はに大した給料も渡さずに捨てるのだろう。どうせそんな事になるに決まっている。まるで、道具だ。コイツらはを“金稼ぎの道具”としか考えていない。だから僕はこんな店で働くのはやめろと言ったんだ。そう言ったのに、は僕との生活を守るため、ここで働くことを選択してしまった。僕のため。僕のせいで。
「そんなの、ダメだ」
無意識に呟いた言葉はとても小さな声で、上手く届いていなかったのか男は「なんか言ったか?」ともらした。
集中し、体の奥底に溜まる“力”を指先に移動させる。まるで埃を振り払うかのように腕を動かし、周囲にいた下っ端の数人を吹き飛ばした。大きな音をたてて壁やテーブルに突っ込み、誰しもが動かなくなる。大きな怪我をしないようにとか、死んでしまわないようにとか、そんな風に“力”を加減する余裕など、いまの僕にはなかった。
「は返してもらう。誰にも邪魔なんかさせない」
下っ端たちは何が起こったのか分からないという様子で、こちらに凶器を向けるような判断力のある人間はいなかった。先ほどとは反対のもう片方の腕を動かし、残りの下っ端たちを吹き飛ばす。周囲に砂埃が舞い、大柄な男は驚いた顔で周囲を見渡すことしか出来ないようだった。
「てめぇ、なにしやがった!?」
男は上ずった声でそう言ったが、明らかに動揺していることが分かった。自身の腰の辺りに手を伸ばし、拳銃か何かの武器を取り出そうとしていることが分かったため、“力”を使い腕をひねり上げる。男の口から汚い声が聞こえ、耳を塞ぎたくなった。そのまま男の体を“力”で拘束し、僕の倍はありそうな体重を宙に浮かべると、男は殺意と恐怖が籠った目で僕を見た。
男の憎たらしい顔を見ながら、ぼんやり考える。僕はまた、人を殺した。メキシコに行くため国境を越える際、自分を守るためにたくさんの警察官たちを殺したあの日。あれが僕が殺人をおこなう最後だと思っていた。それなのに、またたくさんの人を殺した。今度はを守るために。そしていま目の前に居るこの大柄な男。に暴力を振るった張本人。を拘束し店にとどまらせ、利用しようとしていたこの薄汚い男。この男も、僕は同じように殺そうとしている。
僕は、お父さんが誇れる息子になりたかった。ショーンが誇れる弟になりたかった。でも、それはもう無理みたいだ。を守りたい。を酷い目に合わせるわけにはいかない。こんな男たちに触れさせるわけにはいかないんだ。もしもそれが誇りを捨てることになろうとも。
男の前に手のひらを差し出し、それを優しく握る。すると宙に浮いていた体から骨が軋むような不穏な音が聞こえ、男は口から血を吐き出すとまるで糸の切れた人形かのように床に落ちた。数秒間ピクピクと小刻みに動いていたが、すぐに止まって石のようになる。
店の中に静寂が訪れた。壁に空けた大きな穴から外が見え、夜空に月が浮かんでいるのが見える。僕はゆっくりとに近づき顔を覗き込んだ。まだ気を失っているのか固く閉じられたまぶたはぴくりとも動かなかったが、上下する胸が呼吸していることを知らせている。
「……、ごめん、ごめん……」
思わず口から出た謝罪の言葉は、僕のせいで危険な目に合わせてしまったことへの気持ちだったのか、人を殺してしまった懺悔からなのか、何なのかは自分でも分からない。ただ、もう僕はとは一緒に居られないだろう。その想いだけははっきりと分かっていて、自分でも理解出来ていない謝罪の言葉を繰り返しながら、彼女の体を抱きしめることしか出来なかった。お兄さん狼を失った弟狼の僕は、一匹狼。もう誰とも一緒に居てはいけなかったんだと、いまさら気が付いた。
ひとまずはここから出るべきだと思い、気を失ったままのを横抱きにしてバーを後にした。辺りはすっかり暗くなっており人の気配はほとんどなかったため、僕たちの姿を誰かに見られることはないだろう。気を失った一人の人間を運ぶには僕は非力すぎたが、少しだけ“力”を使いの体を浮かせたので運ぶこと自体は楽だった。
自宅に着き、そのまますぐにをベッドに寝かせる。あの店の奴らは今後もを利用しようとしていたため顔に傷はつけなかったようだが、問題は身体だった。
「ごめん、ちょっと見るよ」
恐らくは聞こえてはいないだろうが、申し訳ないという気持ちから思わず口に出す。僕はのシャツのすそを少しだけめくり、先ほどバーで男に殴られた付近の肌を見た。腹は赤くなっており所々が青くも見える。数日は痛むだろうし、もしかしたら痕も残るかもしれない。触ってみた感じでは内臓や骨に影響はないようだった。あの男はそれも考えてを殴ったのだろう。
涙が出そうになるのを堪え、僕は家にあった塗り薬をの腹に塗った。どのくらいの効果があるかどうかは分からないが、ないよりはマシだと思いたい。薬を塗り終わったあと、めくったシャツを元に戻しての顔をジッと見た。微かに呼吸音は聞こえるものの顔色は悪いし、あんな何人もの男に取り囲まれて恐怖と混乱に陥っていたのだろう、汗で髪が額に張り付いている。の髪に触れ、そこを撫でた。堪えていた涙が目から零れ落ち、が横たわるベッドの上にぱたぱたと音を立てて落ちていく。
すべて僕のせいだ。僕がの傍に居たからこんなことになった。もう僕はここには居られない。これ以上“力”のことを隠すことも出来ないだろうし、何よりお金を盗んできたことすらも言えなかったのに、いくらを助けるためとはいえ人を殺したなんて彼女が知れば、きっと僕を嫌いになる。そうに決まっている。
先ほどのバーにはすぐに警察が集まってくるだろう。があの場所に居たことは僕しか知らないため、疑いの目がかけられることはないと思いたい。しかし僕はどうだろうか。国境の事件からすでに数年の月日が経っているが、バーの現場が国境での大量虐殺と酷似していると誰かが気づけば、僕に多少は捜査の手が伸びてもおかしくはない。
ここを離れよう。その結論はすぐに出た。僕は自室に行き、ショーンからもらったお下がりのリュックに必要な物を詰めた。少しの水と食料。ペンとノート。デイビッドから貰った野球ボール。あの日ショーンの遺体から回収した眼帯と日記帳。それらを詰め込んだ後、もう一度の部屋に行って彼女の顔を見た。
相変わらず目を覚ましそうにないの顔を見ながら、心の中で最後のお別れをすることにした。いままでありがとう、楽しかったよ、幸せだったよ。様々な言葉が胸に溢れ、息苦しくなってくる。
「ダニエル……?」
小さくか細い声が僕の名を呼んだ。驚き、咄嗟に目に溜まっていた涙を手の甲でこすってからの顔を見ると、うっすらと開いた目がこちらをぼんやり見つめている。どうやらまだ意識がもうろうとしているようで、いま自分が置かれている状況を理解していないようだった。痛かったよね。ごめんね。色々な言葉が頭に浮かぶがそのどれもが口には出来ない。それよりも僕は一秒でも早くここを離れるために、に言わなければならないことがある。
「、僕、もう行かなきゃ」
そう口にすると、は理解できないのかゆっくりと瞬きを繰り返し、眉を歪ませて不思議そうな顔をした。
「行くって、どこに?」
「プエルト・ロボスだよ」
動揺を悟られないよう出来るだけ冷静を装って返答した。プエルト・ロボスの名を出したとたん、はこちらに手を伸ばし、僕の服のすそを掴む。その行為はまるで小さな子供が駄々をこねているような仕草に似ていた。
「やだよ」
は本当に子どものように「やだ」を繰り返しながらベッドから起き上がろうとしたため、阻止するために彼女の肩を掴んで抑え込む。その間僕は涙を堪えるのに精いっぱいで、何の言葉も返せない。
「私、もう正直に言う。ダニエルにはプエルト・ロボスに行って欲しくないって、ずっと思ってた。ごめん。ほんとにごめん。でも私、ダニエルにそばに居て欲しかったから」
息苦しさを感じているのか、途切れ途切れの言葉では訴える。その言葉に僕はあることを思い出した。僕とが出会ったばかりの頃、大通りの先にある綺麗なビーチでは僕に「プエルト・ロボスに行こう!私も協力する」と言った。それなのに時が経てば経つほど、あの言葉は実は嘘でしたとでも言わんばかりには僕に協力することをしなくなった。なぜは僕に協力しないようになったのか。答えがいまやっと分かった。「そばに居て欲しかった」。その言葉が頭の中を回り、胸が嬉しさで満たされていく。しかしそれはすぐに悲しみに変わり、再び胸が苦しくなってきた。
「僕はもう、の傍にはいられないよ」
そう言ったと同時に、の表情が悲しみの色に変わったのが分かる。僕はベッドに手をつくとおやすみのキスをするようにこめかみのあたりにそっとくちづけた。あの日、ショーンの遺体にしたのと同じように。触れるだけの優しいキスは胸が潰れそうになるくらいに切ない味がした。
「、僕、きみが好きだった。今までもこれからもずっと好きだよ。どこに居ても、離れてても、いつまででも、きみを想ってる」
口唇を離し目の前の顔を見つめながら小さな声で呟くと、の瞳に涙が溜まっていくのが分かった。それと同時に自分の視界も歪んでいく。
「私も、同じ気持ちだよ」
「同じ気持ち」。そのたった一言で僕の目から涙が溢れだした。頬を伝い顎から落ちたそれがベッドに染みを作っていく。あの日のようにもう一度を抱きしめたい。そう思っても彼女の呼吸は荒く、体が限界なのだろうと感じた。これ以上彼女に無理をさせられない。手を伸ばし、の額に触れると枕に押し付けるようにおさえる。もう起きちゃダメだ、僕の後を追ってもダメだ、そんな願いを込め、顔を近付けて囁く。
「さよなら、。僕のことはもう忘れて」
それだけを口にしてその場から立ち上がると、用意していたリュックを手に取り部屋を出た。玄関に向かうまでの間にすすり泣くような声が耳についたが必死に聞こえないふりをして、そのまま家を飛び出す。外は暗く、月明りを頼りにゴミ捨て場に向かった。自身で修理した車に乗り込みエンジンをかけ、すぐさまアクセルを踏むと車はその場からスムーズに走り出す。真っ暗でほとんど何も見えない景色だけが窓の外を流れていった。
の顔、髪、仕草。そして彼女の言ったこと、彼女との思い出が走馬灯のように蘇り、どんどんとスピードを上げていく車の中で、僕は一人声を上げて泣いた。国境の壁を破壊してメキシコに行こうとしていたあの日。僕のすぐ横でショーンは死んだ。その時からすべては決まっていたことなのかもしれない。壁を壊し、人を殺し、強大な未知の“力”を持つ僕が、自分以外の誰かと共に生きていくことなど出来ないのだと。