ネプトゥーヌス - 6

 微かに聞こえてくる波の音。重いまぶたをゆっくりと開けると、目の前には薄汚い色の天井が広がっている。ああ、そういえば昨夜はすぐに眠ってしまったんだっけ、となんとなく思い出した。なんだか長い夢を見ていたような気がする。

 プエルト・ペニャスコを離れてから約三年ほどの月日が経ち、僕は十八歳になった。ここは街のはずれにある海岸沿いで、以前ギャングのたまり場になっていた空き家を襲撃して奪ったこの場所に僕は住んでいた。辺りは抗争を続けているギャングたちが多くおり、僕は他の人間に舐められないようにと髪を金色に染めて体のあちこちにタトゥーを入れた。

 そして、“力”を使い数えきれないほどの盗みを働いて生活費を稼ぎ、数年前には銀行強盗をして大金も手に入れた。はっきり言えば以前よりもとても生活は裕福だし、腹を空かせることも買えない物があって困ることもない。それなのに、僕の気持ちは何一つ満たされなかった。プエルト・ロボスで有名なギャングを襲撃したあと、さまざまな奴らが僕を仲間にしようと声をかけてきたが、誰ともつるむ気はなかった。誰もが羨むような良い女に声を掛けられて誘われたとしても、これっぽっちも嬉しくなかった。もうこれ以上何かに思い入れしたくなかった。どうせまた失うことになるのならば。

 。その名は今でもはっきりと覚えている。今頃どうしているのだろうと考えることもあるが、もしも今の僕の姿をが見たら、今度こそ完全に嫌われてしまうだろう。盗みも強盗も厭わず、人の金品や財産を奪って暮らし、奪ったアジトを寝床にしている僕なんて。

 コンクリート造りの汚いアジトに人の足音が響き渡る。随分と乱暴な歩き方だと思いながら音のした方向を見ると、背が高い髭面の男がこちらに近づいてきていた。鍛えられているのだろう太い首にびっしりとタトゥーが入っている。

「よぉ、ダニエル。起きてたか」

 男は僕の名を呼びそう言った。彼の名は確かウーゴ。少し前から僕の周囲を嗅ぎまわっているようだが、特に悪影響はないので放っておいている。ウーゴの顔を朝一番の寝起きの状態で見たくはないと思いつつも、そのことを口には出さず、黙ってベッドから起き上がった。あまり質の良くないベッドだったらしく背中が痛む。

「さっき街で“ダニエル・ディアスを知らないか”って声かけられたぜ、なぁ、有名人さんよ」

 僕が何も返事をしていないにもかかわらず、ウーゴは構わずに話し続ける。目元を擦りながら軽くため息をついたが、そんな僕の様子にもウーゴはまるで気付かない。空気を察し気遣いをするということがこの男に出来るとは思えない。

 はっきり言えば、僕の“ダニエル・ディアス”という名はギャングや犯罪者の間ではかなり知れ渡っている。僕を探し、殺して名を上げようとする者や、反対に仲間にしようとする者も居たため、こうして人から探されることは慣れっこだった。

「でもな、聞いて驚けよ。今度は今までとはワケが違う。さっき声かけて来たのは女だ。いつもみてぇに男じゃないんだぜ、喜べよ」

 ウーゴは両手を振りながらまるでおどけるようにそう言う。男じゃなくて女。その言葉に思わず「は?」という声が漏れた。僕を探すのはいつもギャングか犯罪者のたぐいなので男であることがほとんどだ。しかし“ダニエル・ディアスを知らないか”と声をかけてきたのは女だと言う。珍しいこともあるものだなと思うが、そんなことも無いことは無い。例えば一回抱いてほしいとか、恋人にして欲しいとかそういうことを言ってくる女も居る。

「この辺じゃあんまり見かけねぇタイプだったな。俺と一発ヤッてくれたら教えてやってもいいぜって言ってここに連れ込もうとしたら、逃げられちまった」

 いやらしく自分の口唇を舌で舐めながらウーゴは呟いた。前々から思っていたが、この男は“そういうこと”しか考えていない。毎晩のように違う女と夜を共にしているようだし、何がそんなに面白いのか僕には理解できない。僕にとって人と関わるなんて面倒臭いだけだ。このウーゴだっていずれはそういう存在になり邪魔になるだけ。だから僕は彼を“仲間”や“友達”だなんて思ったことはないし、何か不都合が生じたら彼の前から姿を消すつもりでいる。

「惜しいことしたぜ。今度会ったらお前をダシにしてでもヤリてぇなぁ。名前を聞いたから探せねぇこともねぇだろうけどよ」

 ウーゴは僕の考えも知らずに呑気に話し続け、何をそんなに執着するんだかと少し呆れた。まだはっきりと目が覚めておらずぼんやりする頭を抱えるように自分の額に触れた時、ウーゴが小さな声で、まるで独り言のように呟いた。

って名乗ってたけど、見た感じあれは旅行客だろうな。よそ者って感じがプンプンしてたぜ」

 聞き覚えのある、忘れたくても忘れられない名が耳に飛び込んできて、思わず顔を上げる。。たった今ウーゴはという名を口にした。僕は腰を下ろしていたベッドから立ち上がり、大股でウーゴに近づくと背の高い彼の胸倉を掴み顔を近づけて叫ぶ。

「いま何て言った?」

「は?」

 ウーゴは僕の言葉が理解出来ないのか目を丸くして間抜けな声を出す。その表情と声に苛立ちを覚え、僕は更に顔を近づけると先ほどより大きな声を出した。

「いま何て言ったって聞いたんだ!答えろ!」

「なんだよ急に。“旅行客だろうな”って……」

「違う!その前だよ!女の名前!」

 僕の聞き間違いならそれでも良かった。今まで数年間ずっと忘れられずに居た人の名前。メキシコに来て初めて出会った家族であり、大好きだった人の名前。それに囚われ過ぎて聞き間違えてしまったのかもしれない。むしろその方が良いとすら思った。がこの街に居るなんて、僕を探しているなんて、そんな夢のようなことがあってたまるか、と。

だよ。って名乗ってた。何日か前にプエルト・ペニャスコから来たって」

 そんな仕様もない僕の希望をウーゴの言葉が打ち砕く。“と名乗った”、“プエルト・ペニャスコから来た”、それだけで疑惑が強い確信に変わる。だ。が僕を探しに、このプエルト・ロボスに来ている。僕は掴んでいたウーゴの胸倉から手を離しその場から走り出した。

「おい!ダニエル!どこ行くんだよ!」

 背後でウーゴの叫び声が聞こえたが、聞こえないフリをした。アジトを飛び出て、ウーゴが言っていた繁華街の方向へ向かう。まだがそこに居るのかも分からなかったが、居てもたっても居られなかった。しかしすぐに、なぜ今更?という想いが湧き上がる。僕がの元を離れプエルト・ロボスに来てからすでに三年ほどの月日が経っている。今更僕を探したところでどうするというのだろう。

 僕は完全に悪に染まり切ってしまった。“力”を悪いことばかりに使い、見た目も変え、それこそ今の僕の姿を見たらは失望するに違いない。様々な考えが頭の中を駆け巡る。しかし“会いたい”という気持ちが何よりも勝った。“会いたい”というより“一目見たい”と言った方が正しいかもしれない。僕は極悪人だ。たくさんの人を傷つけ、たくさんの犯罪を犯し、お父さんにもショーンにも誰にも誇れない汚い人間になってしまった。それでも走る足を止める気にはなれなかった。に会って、顔を見て、抱きしめて、“ずっと会いたかった”なんて言う資格は、僕にはないのだろうと分かっていても。

 僕の名前、ダニエル・ディアスはプエルト・ロボスの裏社会では悪い意味で知れ渡っている。快楽殺人者であるとか、裏で権力者と繋がっているとか、そんな根も葉もない噂もあったが、中には真実もあった。“ダニエル・ディアスは幼いころ国境付近の警察官と警備団を皆殺しにした”ということと、“ダニエル・ディアスは不思議な能力を使い人を殺す”ということ。どちらも信じる者が半分、疑う者が半分といった感じであくまで“噂”扱いだったが、僕本人から言わせればそれはどちらも紛れもない真実だ。

 この街でそんな僕を探すということは大きな危険が伴う。恐らくが僕のことを聞いて回っている相手はギャングなど柄の悪い連中ばかりなのだろう。遅かれ早かれ彼女の身が脅かされる時が来るに違いないし、その前に何とかするべきだと思った。

 ウーゴがに声を掛けられたと言った街に向かって走りながら考える。僕はあの日、を危険な目に合わせたくなくて彼女の元から離れた。それなのに今または自らを危険にさらし僕を探している。こんなのは僕が彼女から離れた意味がないじゃないか。

 そこまで考えてハッとした。僕はのために自ら彼女に別れを告げたつもりだったけれど、それは違う。きっと僕は自分が傷つくのが怖かったんだ。を助けるために“力”を使いバーの連中を殺したこと。そして“力”そのものをに知られることが怖かった。“未知の能力を使う殺人者”なんて知られれば絶対に嫌われると思っていたから。恐らく今のはそれをどちらも知っているし、僕を“未知の能力を使う殺人者”だと認識はしているだろう。それでも僕を探している。僕を探してたった一人でこのプエルト・ロボスまで来た。僕たちが離れ離れになってから三年の月日が経っている。恐らく当時は子供だったも大人になっているだろうし、この三年の間にプエルト・ロボスまでの“足”を手に入れたのだろう。そうでなければ徒歩でここまで来れるとは思えない。

、僕、きみが好きだった。今までもこれからもずっと好きだよ。どこに居ても、離れてても、いつまででも、きみを想ってる”

 あの日。の元から離れる時、彼女に告げた言葉をふと思い出す。僕はずっと忘れなかった。忘れられなかった。忘れようともしなかった。の顔も髪も声も香りもあの笑顔も全て。会いたい。そんな資格は自分にはないだろうと分かっていても、せめて一目だけでもの姿を見たいと強く思った。

 街は広く相変わらず人が多かったため、その中から一人の人間の姿を探し出すのは難しかった。悪ガキたちが溜まっている路地裏や怪しい商売をしている店先をいくつか覗いてみたが、らしき女性の姿は見当たらない。あちこちを探し回っていると時刻は昼を過ぎ、いつの間にか夕方近くの時間帯になっていた。そろそろ日が沈み始めるかもしれないという時になって、僕はやっと、今日は諦めた方が良いのかもしれないと考える。

 今日は一旦切り上げて、また明日出直そう。今度は自分で探すだけじゃなく聞き込みもするべきかもしれない。ウーゴにも手伝ってもらうという手もある。しかしそこまで考えた所でふと気が付く。ウーゴはの話をしている最中ひたすらに「一発ヤリてぇ」というようなことを言っていた。彼女を“そういう対象”としてしか見ていないのならばウーゴに手伝わせるのは止めておいた方が良いのかもしれない。

 あれこれ考えていると、いつの間にか僕は気が付かないうちに街を出てビーチの手前まで来ていた。目の前には打ち寄せては引いていく波打ち際があり上には大きな太陽があったが、あと少しすればあの太陽は沈み始め、世界をオレンジ色に染めていくだろう。そういえば、プエルト・ペニャスコに居た時にも似たようなことがあった。いつまでも帰ってこないを心配して探しに行った時、確か彼女はビーチに居た。白い砂浜の上で膝を抱えて座り込み、海をジッと見つめていたあの姿を思い出す。確かあの時に僕はショーンの話をにしたんだっけ。

 そんなことを思い出しながらなんとなく波打ち際まで進んでいくと、足先に白い砂が乗る。強めの潮風が吹き、視界に自分の前髪がかかってしまったためそれをどけようとした時だった。少し離れた場所に僕と同じように立つ人の姿があった。風で揺れる髪を手で押さえながらぼんやりと海を見つめている。

「……?」

 思わず呟いたが、恐らく僕の声は彼女には届いていない。柔らかそうな髪、綺麗な色の瞳、長いまつ毛。は大人びて美しくなっていたが、その雰囲気は数年の月日が経っても何一つ変わっていない。僕が見間違えるはずがない。あれはだ。視線に気づいたのかはふとこちらを見た。目が合い、お互いに数秒間固まる。ゆっくりと近づき数メートル手前で止まると、僕は彼女の顔をジッと見つめた。

 あれから数年。僕は髪色も変わっているしタトゥーもたくさん入れた。もう立派な大人で背も伸びたし筋肉もついたため、僕が僕であるとが気づかなくてもおかしくはないかもしれない。それでも気付いて欲しかった。に別れを告げた時、「僕のことはもう忘れて」と言ったのに、それでも覚えていて欲しいと、忘れないでいて欲しいと感じているなんて僕はなんて自分勝手なのだろう。

 何も言わずにいる僕たちの間には打ち寄せては引いていく波の音だけが響いている。の口唇が微かに動き、“ダニエル”と発音しようとしているような気がした。自惚れでもいい。勘違いでもいい。彼女の口から僕の名前を聞きたかった。

「おいてめぇ、ダニエル・ディアスだな?」

 しかし僕の耳に飛び込んできたのは聞き覚えのあるの優しい声ではなく、まるでこちらを威嚇するような低い声。その方向を見ると柄の悪い数人の男たちが僕を睨みつけていた。思わず小さく舌打ちをし、同じように男たちを睨み返す。こいつらは僕の財産か命を狙っているだけの仕様もないチンピラだろう。こんな奴らは僕の敵じゃないと考えつつも、すぐ近くにがいることを思い出しハッとした。

 数歩だけゆっくりと後ずさり、から距離を取る。も危険な雰囲気を感じ取ったようで、不安そうな表情をしながら胸の前で手を握っていた。その時だった。の様子に気を取られていた僕の頭に何か固い物が当たる。それはチンピラが持っていたバットのような物で、どうやら僕の頭を思いきり殴ったようだった。衝撃に思わず膝を折りその場にへたり込む。驚いたのかが息を飲む声が聞こえた。

「ちょっと、いきなり何するの!?」

 の叫び声に目線を上げると、彼女は僕を殴った男に詰め寄ろうとしていた。ダメだ、そいつに近づくな。そんな言葉を口にしようとした瞬間、別の男がの背後に回りその体を抑え込む。

「その女おさえとけよ」

 バットを持った男はそう言い、すぐに目線を僕に落とした。に触るな。そう口にして、この男どもを全員吹き飛ばし殺してやりたい。そう思うのに体が動かなかった。バッドが体中を叩き、あちこちから拳や蹴りが飛んでくる。骨が軋む音が聞こえ口の中に血の味が広がっていくのが分かった。

 “力”を使えばこんな奴らは敵じゃない。そう思うのに僕はそれをしなかった。また、あの日のバーでの出来事のようにの前で“力”を使い人を殺したくなかった。体中のあちこちが痛み口から軽く血を吐くと、砂浜の上に数滴の血液が飛び散り滲んでいく。

「ダニエル!」

 僕の名を叫ぶの声が聞こえ、嬉しくて幸せで涙が出そうになる。僕をまだ覚えていてくれたんだ、僕はまだきみの心の中に居れたんだという想いを強く噛みしめながら、ただ砂の上の血だけを見つめていた。