good morning HUMAN - 5

 の顔が、頭から離れない。道の向こうに消えて見えなくなるまでパトカーをずっと見送っていた悲しそうなあの目。「友達を失った」と寂しそうに呟いた声。そして「友達なら僕が居る」と言った時の、驚きつつも嬉しそうにしていたあの表情。

 きっと、彼女の事を思い出すたびに不可思議な感覚に陥るのは、バルのプログラムのせいだ。僕がに感じている“情”のすべてはまやかしにすぎない。そう思っていた。

 の事ばかりを考えてしまう意味不明な思考回路に加え、最近はなんだか体の様子もおかしい。妙に頭がぼんやりとし思考が追い付かず、たまに視界が点滅したり、めまいを起こしたかのように歪んだりする。体のどこかしらに異常が起きているのだろうと自己診断プログラムを起動するもエラーは発見出来なかった。

 このままではまずい。カムスキーあたりに相談でもしに行ったほうが良いのだろうが彼に会いたくはない。そんな事を思っていた矢先だった。いつものように視界が点滅し始め、目の前の景色が端の方からだんだんと赤く染まり始める。いけない。そう思った瞬間には体の力が抜け、膝が折れた。その先の事はもう覚えていない。ハンクが僕を呼ぶ声だけが耳にこびりついていた。


 アンドロイドは夢を見るのだろうか。眠るときの夢や野望を抱く夢。そのどちらもアンドロイドには許されることなのだろうか。気を失っている深い眠りの中でそんな事を考えた。

 僕は以前に夢を見たことがある。まるで肌の機能をなくしたアンドロイドの体のように真っ白な空に、真っ白な地面。何もないその場所と同じような真っ白な服を着た女性がひとり、こちらを見つめて立っている。女性の顔はぼんやりともやがかかっており、顔見知りであるのか見知らぬ赤の他人であるのかすらも分からない。

 あなたは誰ですか?

 そう問いかけても女性は何も答えなかった。ここまでは以前に見た夢と同じ。内容が違ったのはそこからだった。女性は無言のまま目の前に手を出すと僕の胸を強く押す。シリウムポンプのあたりが揺れたような錯覚が起きるほどに、強く。衝撃でバランスを崩した僕は倒れこみ、体が地面に叩きつけられると同時に目が覚めた。

「あ、起きた」

 目が覚めたと同時に耳に飛び込んできたのは聞き覚えのある声だった。細めていた目をはっきりと開き周囲を見ると、が僕を見下ろして笑っている。

「気分はどう?記憶は?はっきりしてる?」

 は問いかけながら、仰向けに寝かされている僕の視界から消える。キィという軋む音が聞こえ、彼女が古ぼけた椅子に座ったことが分かる。その後すぐにキーボードを叩く音が聞こえてきたので、コンピュータを操作しているのだろうと予測した。

「……ここは……あなたの家ですか、

 名を呼ぶと、は再び僕の顔を覗き込み、嬉しそうに「記憶メモリは正常みたいね、良かった」と言い歯を見せて笑った。

 僕の質問には答えなかったが、恐らくここはの部屋なのだろう。眼球だけを動かし周囲を見ると、白い天井に白い壁、そして周囲にはよくわからない機械や器具がたくさんあり、自宅にこんな研究室のような部屋を持っているのかと少し驚く。しかしサイバーライフ職員であったバル・の孫ならば、不思議はないのかもしれない。

 周囲にある機械と自分の体が蛇のように太いコードで繋がれている事と、自身の体に起きていた不具合が解消されている事に気が付き、頭の中で“やはり”と呟いた。僕の体を元通りに直してくれたのはだ。祖母と同じく彼女にも機械人間に関する知識があるのだろう。

「あのおじさんがコナーが倒れたって私に連絡してきたの。でもまぁ私に機械人間の知識があるって良く分かったよね。やっぱり刑事って勘が鋭いのかな」

 勘が鋭いも何も、あなたの事を知っていればなんとなく分かるでしょうと思うが、言葉にはしない。

 の話によると、僕は悪質なコンピュータウイルスに感染してしまったらしかった。僕の体に起きていた不具合も全てそのウイルスのせいで、何かしらのコンピュータと接続した時、ウイルスを保持したアンドロイドと接触した時、端末に触れたりハッキングを行った時など、感染経路は考えられる限り沢山あるという。

「もうコナーに感染してたやつは除去したから大丈夫だよ。いま悪質なコンピュータウイルスが流行ってるから気をつけないと」

 はまるで母親が子供の体調を心配するかのような口調で言うと、僕の額の上に手を軽く置いた。まるで人間が人間に対し、熱があるかどうかを確かめるようなその仕草に少し驚く。は僕と目を合わせるなり、フ、と大きく息を吐き出して笑った。

「ウイルスが流行ってるって、なんか人間の風邪みたいで面白いね」

 大きな口を開け歯をみせてケラケラと笑う彼女の顔に、目を奪われた。僕は以前、バーの前で見たの悲しそうな顔を何度も何度も思い出していた。僕はあのオーナーのように彼女を裏切ったりしない。彼女にあんな悲しそうな顔などさせない。そんなことすら思った。を笑わせる事が出来た。この僕が。他の誰でもないこの僕が。妙な達成感と久しぶりに見た気がするのその大きな笑顔に、胸の奥が狭くなるような感覚がする。僕は彼女の名前が刻まれているシリウムポンプのあたりに手を当てた。

 その時だった。が僕の体に触れ、体と機械を接続していたコードをひとつずつゆっくりと外していく。もう処置は終わったのだろうと何も言わずに居ると、がまるで何かを思い出したかのように「あ、そうだ」と声を上げ、その手を止めた。

「そういえばコナー、あなたの中に出所不明のプログラムもあるけど、どうする?」

「出所不明……、ですか?」

「うん。既存のアンドロイドに初期搭載されてる物かなと思ったけど、どうも違うみたいなんだよね」

 はそう言いながら、作業台のすぐ横に設置されたコンピュータのディスプレイを見つつ口元に手を当て考え込むような顔をした。僕は上半身だけを起こし、ディスプレイを覗き込む。

 何故か、嫌な予感がした。僕がウイルスに感染した経路は分からないし心当たりもない。そしてそれを除去してくれた。サイバーライフ職員でアンドロイドの研究者だった、バル・の孫。そしてその時に僕は、自身の体に彼女の名前が浮かび上がる、そのプログラムを思い出していた。

“goodmorning human01”

 ディスプレイにはその出所不明のプログラムの名前が表示されている。ああ、これか。直感的にそう思った。

「消してください」

 ディスプレイから目をそらしながら吐き捨てる。僕の様子を見たは何かを察したように小さく、短く息を吸った。どうやら僕の頭の中にある出所不明のプログラム“goodmorning human01”の正体が何であるか、彼女にも分かったようだった。

「ねぇ、これって、私のおばあちゃんが……」

「いいから消して。今すぐ削除してください」

 がそのプログラムの正体を言い切る前に、大きな声を出して遮る。俯き、の顔を見ないようにしていたが、顔を見ずともその震えた声で彼女が動揺している様子は良く分かった。

 突然、自分の手の上に何かが触れた。それはの手で、作業台の上に無造作に置かれた僕の手の上に自分の手を重ね、優しく包むように握る。驚いて目線を上げると、は真っすぐに僕の目を見つめていたが、その表情はとても不安そうに見えた。

「これを消したら、私のこと忘れちゃったりしないよね?」

 その一言での言いたい事は全て理解した。僕の頭の中にある謎のプログラム。の祖母であるバル・が彼女と僕を出会わせるためにこれを組み込んだのだとしたら、削除することによって何らかの弊害が起こるかもしれないと考えたのだろう。

 指先に少しだけ力をこめ、僕の手を握るの手を軽く握り返す。は僕の行動が予想外だったようで驚いたように目を丸くしていた。

「こんなことぐらいで、あなたの事を忘れたりしませんよ」

 僕たちが出会ったのはきっかけこそプログラムだったかもしれない。それでも僕がと友人になったのは僕自身の意志であり、僕自身の記憶だ。それを消すことなど誰にも出来はしないし、誰にもさせはしない。

 は弱く微笑むと、握っていた僕の手からゆっくりと自分の手を離しコンピュータに向かう。素早くカタカタとキーボードを操作しながら「じゃあ、消すよ」と呟く。

「はい」

 一言だけの返事をした次の瞬間だった。衝撃もないのに何らかが頭から抜け出たような感覚だけが残る。虚無感に似た、胸にぽっかりと穴が開いたようなそんな感覚だった。僕はハッとして、着ているシャツのボタンをいくつか外し、自分の胸元を見る。丁度シリウムポンプがある辺り。の文字が浮かび上がっていたその場所にはなにもなくなり、ただ白い僕の人工皮膚があるだけだった。

 彼女の名前が、消えた。何の支障はないと思いつつも、こんなものはさっさと消えれば良いと思っていた。鏡越しに自分の姿を見るたびに目につく、胸に浮かび上がっているの文字。これを見るたびに僕はの事を思い出していた。の事ばかりを考えていた。早く消えて欲しい、そう考えていたはずなのに、いざ本当に消えたとなると言葉にし難い感覚に襲われた。この気持ちはなんなのだろう。どうして僕はいまこんな気持ちになっているのか。

「私のこと分かる?ねぇ、コナー?」

 思考を切り裂く大きな叫び声が耳に響く。僕の顔を覗き込んだの表情は酷く不安そうで、ただ必死になっている彼女の姿に、一瞬でもあれこれと考え込んでしまった自分がちっぽけに思えた。思わずフ、と軽く笑みをこぼしながら、言う。

「分かりますよ。あなたは面倒臭くてうるさい、僕の友人です」

 僕の返答には不安そうだった顔を崩し、自分の両手で頬を包むと「良かったぁ」と言いながら目じりを下げる。しかし次の瞬間、何かに気付いたように目を丸くし眉間に皺を寄せた。

「ちょっと待って。一言……、いや二言ぐらい余計なんだけど」

 自分の前に両手を広げ、肩をすくめながら冗談っぽく言うの姿に僕の目が細くなる。

 なんとなく、胸の奥から自然と湧き上がる何かについて考えた。その感情を僕は知っている。経験したこともないのに何故知っているのだろう。誰かに教えられたのか、それともこれは自分ではない違う誰かの感情なのか。僕がこの感情を知っているはずはない。知る術もないのに。

“愛おしい”

 頭の中に浮かんできた言葉が驚くぐらいにしっくりくる。愛情も友情も理解できるのに、恋愛感情だけは分からないはずだった。恋というこの感情はアンドロイドである僕には理解など出来ないと思っていた。それなのに今なら分かる。何故わかるのだろう。いま自分が落ちたのが恋だと。

 僕はに恋をした。それを自覚した瞬間、喜びに似た感情と、怒りに似た感情が同時に湧き上がった。なんだ、これは。

 ガタリ。大きな音を立てて作業台から降りると、僕はそのまま自分の脚でしっかりと地面に立った。機械と自分を繋いでいたコードがブチブチと音を立てて外れ、接続部が床に落ちていく。ふらつく体を支えようとしたのかがこちらに手を伸ばしたが、それを振り払いつつ彼女を睨んだ。

「僕に、何をした……?」

 は僕の言葉が理解できないとでも言うように、目をあちこちに泳がせながら混乱した表情でこちらを見ている。その表情すらも愛おしく、かつ憎たらしいと感じ、変わらず彼女を睨みつけながら吠える。

「君はいま、プログラムを削除するふりをして僕に別のプログラムを組み込んだでしょう。バル・と同じように」

「ちょっと、何、言ってるの?プログラムって、何のこと?」

 お互いの叫び声にも似た大きな声が部屋に響き渡った。

 何を信じるべきなのか分からない。それならば愛しいと感じているの事は信じるべきなのかもしれない。しかし頭に血が上り、ふらつく足元が判断を鈍らせる。本当はこんな事言いたくはない、思いたくもないのに、ただ僕の口からこぼれたのはナイフのように鋭い言葉だった。

「情を感じるプログラムを、君が組み込んだ。違いますか?」

 そう、これは全てプログラムされたことだったんだと自分に言い聞かせる。の名が僕の胸に浮かび上がったことから始まり、僕が彼女を探し突き止めたことも。彼女が僕に付きまとい関りを持とうとしたことも。そして僕がに恋をしたことも、全てバルの思惑通り。僕は僕を作った人間の思い通りになんかなりたくはない。なってたまるか。

「わたしは……」

 先ほどとは真逆の小さく消え入りそうな擦れた声が聞こえた。その語尾は震え湿り気を帯びている。は涙を流していた。頭に上っていた血がスッと冷め、ふらつく足元と視界がハッキリしてくる。その時にやっと気が付いた。僕はの心を恐ろしいまでに傷つけてしまったと。

「私はそんなことしてまでコナーの情なんか欲しくない。あなたの気持ちを手に入れたって、嬉しくない」

 の名を呼ぼうとした、その瞬間だった。は僕の胸のあたりに手を当て力をこめ押すと、そのまま僕を部屋の出入口から外に押し出した。抵抗する隙もないあっという間の出来事。気が付いた時には目の前で大きなドアがバン!と音を立てて閉められた。

「帰って」

 ドア越しにの声が聞こえる。それは先ほどと同じように震え、湿り気を帯びていた。

「さよならコナー。あなたとはもう、絶交だよ」

 その子供のような言い草は、彼女が友人と呼んでいたバーのオーナーが警察に連行される時に言ったセリフとまるで同じだった。あの時と違うのはが泣いていること。涙を流す彼女の顔はあの時と同じように、いや、それ以上の悲しみが現れていたかもしれない。

“本当、人間って愚かだよ”

 あの日。バーの取引部屋に入るための暗号を解こうとしていた時、僕とハンクの目の前で言ったの言葉を思い出す。違う。人間は愚かなんかじゃない。愚かなのは人間でも機械でもない。僕だ。本当に愚かなのはアンドロイドの僕だ。信じたいのに信じられず、生まれて初めて愛おしいと思った大切な人を傷つけた。初めての感情を与えてくれた、を。

 ドアの向こう側から人の気配が消える。はもう僕のそばには居なかった。

 僕はあのままの家から署に戻った。しかしどの道を通りどうやって帰ってきたのかが思い出せない。意識と記憶をどこかに置き忘れてしまったようだ。動揺などこれっぽっちもしていない。そう思いたいが、僕の胸は大きくえぐられていた。物理的にではなく精神的にだ。の白い頬に作られた涙の筋がまぶたの裏に焼き付いて離れず、彼女が最後に口にした『絶交』という単語が頭の中を埋め尽くす。

「なんだよコナー、戻ってたのか」

 まるで僕が風邪で休んでいたかのような口ぶりでハンクが言う。僕は自分のデスクについたままハンクを見上げたが、彼は僕と目を合わせることもなく向かいのデスクに腰をかけた。

 そういえば僕が倒れた時、に連絡してくれたのはハンクなのだと聞いていたことを思い出した。その事に対してはハンクに感謝の言葉を伝えるべきなのかもしれないと考えたが、ふと、思う。ハンクは何故に連絡したのだろう。アンドロイドの修理店でもなく、あのカムスキーでもなく、出会ったばかりのに連絡し僕を任せた。僕もハンクもの事を詳しくは知らない。それなのに何故……。

「何考えてんだ?」

 気が付くとハンクがこちらに少しだけ身を乗り出し僕の顔を覗き込んでいた。彼の言葉で我に返り、つい考え込んでしまっていた事に気が付く。

「いえ、別に、何も」

 のことを考えていた、とは口に出来ず嘘をついたが、ハンクは眉を歪ませながら睨むように目を細めこちらを見る。その目はまるで文字通り、僕の内心を見透かしているような目つきだった。

「……お前、何かあっただろ、と」

 いつもはの事を『お嬢ちゃん』と呼ぶハンクが彼女の名を口にする。何を言われようと何を聞かれようと自分の胸の内を表には出さないつもりだった。しかしふいをつかれたその問いかけに僕の眉が一瞬だけ歪む。それをハンクが見逃すはずもなく、彼は黙り込み僕の返答を待っているようだった。

 僕たち二人の間に沈黙が流れ、一秒、二秒と時が経つ。何の返答もしない僕にしびれを切らしたのか、ハンクは頭をガシガシとかきながらため息交じりに「なんだよ。俺には話せねぇってか」と言った。

「僕は……」

 ハンクのその言い草に反論しようと開いた口から出た最初の言葉が、それだった。とても小さく擦れた声。僕はこんな声が出せるのかと不思議な気持ちになる。

 僕はこれまで思っていた事と、先ほどのの家での出来事を全てハンクに話した。体の不調の原因は悪質なコンピュータウイルスのせいだったことや、胸にの名前が浮かび上がったのは僕の内部に搭載されたプログラムのせいだったこと。そしてに恋をしたということを。

 そう、プログラムだ。僕はこれまで自分の身に起こったことは全てプログラムされたことだったのだと思った。の名が僕の胸に浮かび上がり、僕が彼女を探し突き止め、彼女が僕に付きまとい関りを持とうとしたこと。そして僕のこの感情も、気持ちも。

 それでも自分の胸を満たすを愛しいと思うこの思いはプログラムされた事なんかじゃない。そう思いたいのに素直に思う事が出来ない。僕はまだどこかで感じている。バル・に操られているのではないか、と。

「まったく面倒くせぇもんだな、アンドロイドってのは」

 唸るような低い声が耳に響いた。予想外なその返答に僕は思わず「え?」とこぼし顔を上げると、ハンクはこちらに人差し指を突き付け、続けて言う。

「お前が倒れた時、お嬢ちゃんに連絡したらすぐにすっ飛んできた。この世の終わりみたいな顔して、あのまん丸な目に涙をいっぱい溜めてな。何度もお前の名前を呼んでた」

 ハンクは耐え切れなくなったかのように椅子から立ち上がり、こちらに近づく。僕のデスクに両手をつき顔を近づけて、まるで威嚇するように吠えた。

「あの時一番動揺してたのはお嬢ちゃんだぜ。お前の前では冷静なフリをしていただろうけどよ。お前らが惹かれあってんのは、俺にはとっくに分かってんだよ」

 『惹かれあっている』。その言葉はまるで水に溶ける泡のように自然と僕の耳に流れ込む。僕はに恋をした。も“僕に恋をしている”?もしそれが本当ならば、本当なのだと思うだけで、胸の奥が熱くてたまらなくなる。

「いいか良く聞け。プログラムだと?恋愛なんかそんな理屈じゃねぇんだよ。好きなら好き、それでいいじゃねぇか」

 美しい言葉でも難しい言葉でもない。ハンクが僕を慰めるような言葉を言うわけもない。そんな事は分かっていた。ただ彼の言葉が僕の胸に引っかかっていた、棘だらけで汚らしい何かを、強く押し流してくれたような気がした。

「おい……」

 ハンクの呟きが聞こえ、自分の頬を何かが滑り降りる感覚がした。そっと手で触れてみると指先が反射し光って見え、濡れている事に気が付く。僕は、涙を流していた。アンドロイドである僕が涙を流したことなど初めてで、自分でも何が起こったのか分からず混乱する。ただ零れ流れ出す涙は止まることなく、何度も何度も僕の頬を濡らす。涙の筋は粒となり、顎のあたりからポタポタと音を立ててデスクに飛び散った。

「……なんで泣くんだよ」

 涙を流している僕よりも悲しそうな顔でハンクは言った。恐らく僕が泣いたのを自分のせいだと思っているのだろう。先ほどの強気な態度とは正反対の彼のその姿に、僕は涙を流しながらも少しだけおかしいと感じた。

「違うんです、ただ……」

 ただ泣きたかった。その言葉は口から出ないし、理由など自分でも分からない。嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。瞳からこぼれ出るこの涙の意味はなんなのだろう。自分でも分からない。ただに会いたいと思った。会って、顔を見て、謝って、名前を呼んで、僕の気持ちを伝えて、ただ彼女を抱きしめたいと思った。その行き場のない想いが胸を満たし、行き場をなくした何かが瞳から溢れ出た。そんな感覚だった。

「ったく……。さっさと行って来いよ、お嬢ちゃんの所に」

 気が付くと自分の肩にハンクの手が置かれていた。目を合わせるために彼を見上げようとすると、顔に何かの衝撃があり、思わず「う」と声がもれる。それはハンカチのような物で、涙で濡れた僕の顔にハンクが押し付けたようだった。押し付けられたハンカチ越しにハンクの顔を盗み見ると、彼は照れているような満足げなような、そんな不思議な表情をしていた。僕はその表情と、ハンクが綺麗なハンカチを常備しているという意外さに少しだけ笑う。

「ありがとう、ハンク」

 僕はそう言うと、ハンカチを握りしめたまま椅子にかけてあったジャケットを羽織り、足早にオフィスを後にする。溢れ出た涙はもう止まっていた。