good morning HUMAN - 6

 タクシーを捕まえることもパトカーを使うことも忘れ、僕はの家まで走った。あそこから署までどう戻ったかは分からないし思い出せないのに、何故かの自宅は僕の記憶の中に残っていて、まるで通いなれた道かの如く、走る。

 今更気付いたが、の自宅があるアパートは外観がとても上品で、ホテルのような佇まいだった。エントランスを通り階段を駆け上ると、彼女の部屋のドアの前で立ち止まる。上がっていた肩を落ち着かせるように一度落とし、冷静な気持ちでドアを叩いた。

、僕です、コナーです」

 返答はない。先ほどの出来事を考えると簡単にドアを開けてくれるとは思っていない。僕はもう一度ドアを叩き、先ほどよりも大きな声で言った。

、ここを開けてくれませんか。君と、話がしたいんです」

 乱暴な二度目のノックをした時に僕はやっと気が付いた。このドアの向こう側には人の気配を感じないという事に。もしかして留守にしているのか?そう思いドアノブに手をかけたが、しっかりと施錠されている。すぐにピンと来た。僕はドアに背を向け来た道を引き返すと、階段を駆け下りエントランスから外に飛び出る。そしてそのまま自身の記憶を頼りに再び走り始めた。

 僕はのことをあまり良く知らない。彼女が好むものも分からないし、彼女の過去もはっきりとは知らない。それでもはきっと“あそこ”に居る。証拠も確信もないのに何故かそう思った。

 デトロイトの繁華街から少し離れたその場所は相変わらず汚く寂しく薄暗かったが、とても静かな場所だ。バル・の墓がある墓地。以前も見た、葉が落ち痩せこけた木はデトロイトの寒さでさらに痩せたように感じる。

 墓地の門をくぐりの姿を探した。この墓地は背の高い墓石が少なく見通しは良い。バルの墓がある方向へ走り出そうとした時、ひとつの墓の前にしゃがみこむ人影が見えた。

!」

 本人だと確かめることもしないままに叫ぶ。その人影はすぐに立ち上がって僕と目を合わせた。だ。やっぱりここに居た。あの日と同じようにバルの墓の前に立ち、墓前に赤い薔薇の花束を供えている。

 僕が走ってに近づく間、彼女はその場に立ち尽くし微動だにしなかった。先ほど『絶交』と言われ、もう二度と会う事もないだろうと考えていたため、僕の姿を見たは逃げ出すのではないかと思っていたが、その心配はなかったようだ。

、すみません、僕は、僕は……、」

 機械である僕の体は走っただけで息が上がるような事はない。しかし胸の奥のシリウムポンプが内側から僕の体を叩くように何度も何度も大きな音を立てて脈打っている。僕の顔を見ても、声を聞いても、は無表情のまま何も言おうとはしなかった。

「僕は、君が好きです」

 自分の胸に手を当てた。ここにはもう彼女の名は刻まれていない。それはプログラムされたことだったかもしれない。それでも僕の気持ちは違う。が教えてくれたこの感情と、を想うこの気持ちは、プログラムされたことなんかじゃない。

「これは人間の模倣なんかじゃない。プログラムなんかじゃない。僕の本当の、心からの気持ちです。君が好きです。

 言い終えた瞬間、目の前にの手が伸びてきた。まるで言葉を遮るように僕の口唇に人差し指を当てる。彼女の目は、それ以上何も言わないでと訴えているようだった。

「コナー、わたしね、さっき気づいた事があるの」

 名を呼ぼうとした時、再び僕の声を遮るようにが呟く。何が分かったというのだろう?僕はその疑問を言葉にせず、彼女を見つめた。

「たぶんおばあちゃんが最終的に望んだのは、コナーに恋を分からせること」

 言葉の意味が分からなかった。以前、一緒に潜入したバーでは、自身の祖母であるバル・が僕に恋をし、そんな僕を孫であるに会わせたかったのだろうと言った。だからこそ僕の体にの名が浮かび上がるようなプログラムを組み込んだと。

 “コナーに恋を分からせる”。の言葉が本当ならば、そんなのは自身がまるで僕のために用意された道具かのような言い方だ。バルが僕のために用意した駒のような。嫌悪感を覚え眉間に皺が寄る。そんな言い方はやめて欲しい。率直にそう思い、僕は声を荒げた。

、やめてください、僕は、」

「コナーお願い、聞いて、私の話を」

 三回目。僕の言葉を遮ったの顔は無表情だったが、その目はとても悲しそうで、それでいて満足感に満ち溢れているように見えた。寒さのせいなのか震える口唇が言葉を紡ぐ。

「わたし、自分が生まれた意味が分からなかった。ただ生まれてただなんとなく生きていた。でも今なら自分が生まれた意味が分かる。私はきっと、コナーに恋を分からせるために生まれた。あなたと恋をするために、作られた」

 “作られた”?一瞬だけ思考が停止したのが分かる。が口にした言葉の意味を何度も考えるが、頭が追い付かない。心の片隅で、ああ、僕は故障してしまったのかななどと呑気に思った。

 気が付くと、僕の頬にの手が伸びていた。僕の顔を見つめるその瞳は慈愛に満ちて、とても美しい。

「私は、コナーが恋愛感情を自覚し、想いを伝えたのと同時期にシャットダウンするようにプログラムされて、作られた。ただあなたに恋をするために作られた、機械なんだよ」

 様々な事がまるで走馬灯のように目の前に蘇る。初めて触れたの手はまるで人形のように冷たかったこと。バーで注文した飲み物をは口にしなかったこと。機械だらけで生活感のない部屋を持ち、アンドロイドについて詳しかったのは、祖母であるバルの影響なんかじゃない。彼女自身が、“僕と同じ体をしていたから”。

「コナーに恋をしたおばあちゃんは、コナーに恋を教えたかった。それが私の役目。でも、それももう、終わり」

 僕の頬に触れているの手は変わらずに冷たく、その指先が顎のラインをなぞり、ゆっくりと離れていく。彼女の美しい瞳に射した光がだんだんと弱く、ぼんやりと滲んでいくのが分かった。あと四秒。あと三秒。僕にはの命が消えゆくのがはっきりと分かった。それなのに自身の体はぴくりとも動かず、何の声も出ない。

「さよならコナー。その気持ちを忘れないで、また違う誰かを愛してあげて。それが私の願いだから」

 あと一秒。

 “行かないでくれ”。その叫びは声にならない。人間であろうとアンドロイドであろうと、命がつきる瞬間などみな同じだ。先ほどまで僕を見つめていた目は光を失くし、その瞳にはもう何も映ることはない。まるで電池の切れた人形かのように、全ての活動を止めたの固くなった体を抱きしめて、僕は再び泣いた。

 固くなったの体を無理矢理に横抱きにして、僕は走った。目指すは郊外にあるカムスキー邸。カムスキーならを何とか出来るかもしれない。墓地を飛び出し、交通量の多い道路まで出るとタクシーを捕まえて飛び乗った。

 走る車内の窓をデトロイトの街がすべっていく。自身を落ち着かせるために軽く目を閉じると、目の前で彼女がシャットダウンする光景がまぶたの裏に蘇った。せっかく“恋”が分かったのに、せっかく自分の気持ちを伝えられたのに、はシャットダウンした。彼女は死んだのだ。

 僕はその一瞬こそ諦めたが、すぐに思い直す。諦めたくはない。もう一度に会いたい。目を見て話をしたい。ふざけあって笑いあって、もう一度、自分の中に芽生えたこの感情を確かめたいと思った。

 カムスキーの家の前に着くと僕はタクシーから飛び降りた。玄関ドアの前で一度を下ろし、片手で彼女の肩を支えながら、もう片方の手でインターホンを押す。一度鳴らしてもすぐに反応がなかったため、苛立ちインターホンを二度、三度と連続で鳴らした。

 やっと玄関がゆっくりと開いたが、その動作にももどかしさを感じ、僕はドアに手を当てて押し開けると、すぐ目の前に居たRT600に叫ぶ。

「カムスキーは?」

 その大きな声にもRT600は眉一つ動かさず、「イライジャなら奥に……」と呟いた。彼女のその態度も仕草も言葉も、以前僕がここに来た時とまるで同じ。ひとつだけ違うのはRT600が微笑みを浮かべていない事ぐらいだった。

 僕は玄関から奥に進み、プールのある広い空間を足早に抜けようとした、その時だった。プールサイドにある小さめの椅子にカムスキーが座り、何かを考え込むように窓の外を見ている。てっきり以前と同じ奥の部屋に居ると思っていたため、僕は拍子抜けした。

 こちらに気付いたカムスキーは僕と目を合わせると、少しだけ驚いたように両眉を上げる。僕はカムスキーが何かを言う前に走るように近づき、叫んだ。

「カムスキー、お願いです。彼女を助けてくれませんか?」

 を横抱きにしたまま少し屈み、座ったままのカムスキーに彼女の姿を見せて訴えた。僕の腕の中に居るは変わらずに体を固くしたままで、開かれたままの目に光はない。

 カムスキーは僕とを交互に見たあと、フーンと軽く鼻を鳴らし、さも楽しそうにニヤリと笑う。僕はその笑顔にとてつもない嫌悪感を覚えた。

「来なさい」

 低い呟きが耳に届く。カムスキーは特に何も聞かず、ただ僕にそう言って椅子から立ち上り玄関とは反対の方向へ歩き出した。何も言わずに黙って着いていくと、下におりる階段に差し掛かる。僕が今いるここは一階のはずなので恐らくこの階段をおりた先は地下だ。カムスキー邸に地下があったとは、と少し驚く。

 スライドドアの多いカムスキー邸だが、地下にあったそれは一般的なドアで、重厚に見えたのは白いコンクリート製だったせいなのかもしれない。中に入るとそこは真っ白な部屋。床も天井も、置かれているたくさんの機械や器具に至るまでが白く、眩しさを感じて僕は目を細める。

「そこに寝かせて」

 中央にある作業台の上をカムスキーが顎で示し、僕は何も言わずに黙っての体をそこに乗せた。固くなった肘や膝の関節に力をこめ真っすぐに伸ばし仰向けの状態で寝かせる。その時にやっと気が付いた。いま周囲にある様々な機械は、の部屋にあった物に似ているということに。

 カムスキーは部屋の奥にある棚から眼鏡を取ってかける。彼が眼鏡をかけた姿を初めて見たが、まるで違う人物かのようだった。僕の視線を気にも留めず、カムスキーは作業台に寝かされたの顎を掴み、その顔をまじまじと見ながら言う。

「見たことのないタイプだな。型番も見当たらないし、顔のデザインも既存の物と違う。このアンドロイドはどこで?」

 何も答えられなかった。どう答えたら良いか分からなかったというほうが正しい。口を結んだままの僕をカムスキーが一瞥し、再びニヤリと笑って言う。

「答えられないか?……まぁいい。見る限り君と同じプロイトタイプだろうな。テスト生産を経て市場展開する予定だったのが頓挫……、おそらくは開発途中で開発者が死んだとか、そんなところだろう」

 僕とカムスキーの目が合う。彼は無表情のまま僕を見つめた後、目を細めて優しく笑った。その笑顔は先ほどまでのいやらしく嫌悪感を覚える笑顔とはまるで違う。カムスキーには何もかもばれているのだろう。彼女が僕の胸に浮かび上がった名、、その人であり、バル・の孫娘であることが。

 正確に言えば彼女は“孫娘”などではない。初めこそ僕はそう信じていた。当たり前のようにそう思っていたが違った。彼女は人間ではなく僕と同じアンドロイドで、恐らくはバルに作られたプロトタイプ。バルが僕に恋という感情を分からせるためだけに作られたアンドロイド。

 ガチリ、という金属音のようなものが耳に響く。気が付くとカムスキーはの後頭部のあたりを開き、中にある接続部に様々な器具やケーブル類を差し込み、大きなコンピュータと繋いでいた。ディスプレイを見つつ、人差し指と親指で口唇を軽くつまみながら考え込むように黙る。

「助かりますか?」

 カムスキーの横顔に小さな声で問いかけると、彼は口唇に指を当てたままこちらを見る。大きな手で遮られた口元は見えないが、細められた目でカムスキーが笑っていることが分かった。

「直すことなら簡単だ。シャットダウンした原因を突き止めて部品交換をし、再起動させればいい。記憶メモリはリセットされるだろうがな」

 まるでアンドロイド専門の修理店に居る店員かのような言い草に表情が歪む。『記憶メモリはリセットされる』。その残酷な言葉に下口唇を噛み、カムスキーから目をそらした。それじゃ意味がない。が僕を忘れてしまっては意味がない。僕には“恋”という感情が残るのに、彼女にはなにも残らないなんて。全て忘れてしまうなんて。

「分かってるよ、コナー。君が望むのはそんなことじゃないんだろう?」

 ふと気が付くとカムスキーの低い呟きが聞こえ、僕の頬のあたりに手が伸びていた。カムスキーは目線を上げさせた僕の顔を改めて見るなりフン、と鼻を鳴らす。僕はその態度が気に入らず、頬に添えられていた手を振り払った。カムスキーは喉の奥でくつくつと笑い、今度は作業台の上のを見ながら言う。

「何も言わずとも顔を見れば良く分かる。このアンドロイドは君に大きな影響を与えた。そしてコナー、君も同時にこのアンドロイドに大きな影響を与えたとね。それは素晴らしいことだ」

 素晴らしいと言葉にするカムスキーの顔はひどく嬉しそうだった。僕たちアンドロイドの創造主である彼も、若い頃は研究に熱中し、新たな発見をするたびにそのような顔をしていたのだろうとぼんやり思う。

 ギィ、という不快な音が聞こえた。それはカムスキーがディスプレイ前の椅子に腰をかけた音で、彼はバックライトの光るキーボードを操作しつつ、僕に背をむけたまま言う。

「悪いが席を外してくれるか。そうだな……、三日後、またここに来ると良い。彼女が死ぬか生きるか、その結果が出ているはずだよ」

 『死ぬか、生きるか』。嫌な言葉の響きだと思ったが、カムスキーにとって一人のアンドロイドを再起動させることなど造作もないだろう。恐らく彼が言いたいのは記憶メモリが『死ぬか、生きるか』。生きていて欲しいと思った。生きて、再び笑って欲しいと、傍に居て欲しいと、強く願う。

「よろしくお願い、します……」

 ただ一言だけを呟き、カムスキー邸を後にした。RT600は僕がここを訪れた時と変わらずに玄関に立ち尽くしており、今の今までずっとここに居たのかと驚く。僕は彼女に声をかけることもせず玄関ドアから外に出ると、乗ってきたタクシーに再び乗り込んだ。

 カムスキーを100%信頼しているわけではない。しかし、いま頼れるのもカムスキーしかいない。彼は僕の中に新たな感情が芽生えたことに気付いていたようだった。僕の中にある“恋”という感情に。素晴らしいこと。カムスキーはそう言っていたが納得できなかった。恋という感情を知るのは一人では不可能だ。恋は一人では出来ない。

 君が居なくては意味がないんだよ。僕は必ず君を迎えにくる。絶対に君を、諦めたりはしない。

 タクシーはまるで僕の心とシンクロするかのように、スピードを上げてデトロイトの街を滑って行った。


 あの日からの三日間。警察での業務をこなしながらも計72時間をどう過ごしたのかハッキリとは思い出せない。僕の一番近くにいたハンクに聞けば分かるのだろうが、きっと「抜け殻みてぇだった」などと面白みもない答えが返ってくるに違いない。

 そしていよいよカムスキーに指定された三日後がやってきた。僕ははやる気持ちを抑えなんとか冷静になろうと努力しながら、いつものタクシーに乗り込み郊外にあるカムスキー邸に向かう。

 到着した時、僕の頭の中にあった“冷静になろうと努力する”という気持ちは消え去っており、飛び降りるように地面に足をつけると、そのまま踏み切って玄関ドアまで走る。前のめりになりながらインターホンのボタンを押そうとしたその時、目の前のドアが音を立てて開いた。

 この日僕がここを訪れることは分かっていただろう。しかし時間の指定まではされていないため、僕が何時何分に来るのかはカムスキーには分からないはず。それなのにどこかから僕の動向を観察でもしていたのかのように玄関のドアは開いた。

 驚いたのはそれだけではなかった。出迎えたのはカムスキーではなくRT600。今までに見たことのないような張り付いた笑顔を僕に向けながら言う。

「お待ちしておりました。どうぞお入りください」

 家の中に入るように手を差し出しながら、RT600は再びにっこりと満面の笑顔を見せた。戸惑いつつも中に入ると、背後でドアが閉まる大きな音が聞こえる。カムスキーは先日と同じように家の奥に居るのだろうと予想しつつ、僕はRT600に問いかけた。

「カムスキーは?」

「イライジャなら留守にしています」

 RT600の返答に僕は目を見開き、眉間に皺を寄せる。留守?カムスキーが?その言葉が信じられなかった。三日後という日付の指定をし、僕がここを訪れるのを分かっていたであろうに、何故不在なのか。理解不能なカムスキーの行動に信じられないという気持ちでいっぱいになる。

 しかしそれよりもまず、は大丈夫なのだろうか。『三日後、彼女が死ぬか生きるかの結果が出ているはず』。カムスキーはそう言った。この状況でカムスキーが留守にしているということで不安感が増す。

「大丈夫ですよ。は」

 RT600が言った。僕はその言葉が予想外で顔を見たが、彼女は先ほどの満面の笑みは消え無表情のまま僕をジッと見つめ返している。何故、RT600がの名を知っているのだろう。カムスキーに聞いたのだろうか。その前にまず、僕はカムスキーにの名を教えただろうか。カムスキーの事だ。彼が何もかもを見通し知っているという可能性は高い。だが……。

「地下へどうぞ。彼女が待っていますよ」

 思考を切り裂くようにRT600は言った。彼女は再び先ほどと同じような笑顔を浮かべながら、僕を地下へおりるように促す。RT600を一瞥した後、僕はその場から小走りで動き出した。

 三日前の記憶を頼りに邸内を進み、地下へ続く階段を迷うことなく駆け下りる。白いコンクリート製の固く厚いドアに半分体当たりをするような形で部屋に飛び込んだ。

!」

 何度も何度も呼んだ彼女の名前。それが真っ白な部屋に響き渡るも返答はなかった。部屋の中央部分にある作業台に駆け寄ると三日前と変わらない形での体が横になっている。ひとつだけ違うのは、が深い赤色の服を着ていたことだった。薄い生地で出来たワンピースのようなそれはカムスキーの趣味だろうかとなんとなく思う。

 そのワンピースがにはとても良く似合っていた。深い赤と彼女の白い肌のコントラストがとても美しい。人間の血液のように赤いそれはバルの墓前に供えられていた深紅の薔薇の花束を思い出させた。

 これは……。

 ぬるい風に揺られていた細い糸がどこかの糸と結びつく。そんな感覚がした。僕が以前に夢で見た深紅のワンピースを着た女性。女性の顔はぼんやりともやがかかっており、顔見知りであるのか見知らぬ赤の他人であるのかすらも分からなかった。だが今ならはっきりとわかる。僕の夢に現れた女性はいま目の前の作業台に横たわる、だ。

 僕はの手を取り、それを自身の胸のあたりに持っていく。夢の中で女性は僕のシリウムポンプのある胸のあたりに指先で触れた。そう、そこはの名が浮かび上がった場所。そこにもう彼女の名前はないけれど、その細く冷たい指先を、僕は何度も何度も自身の胸に擦り付けた。

、起きてください。

 カムスキーはの体を『直すことなら簡単だ』と言った。しかしその場合記憶メモリはリセットされると。もしかしたらいま目の前で眠ったままのは僕の事を忘れているかもしれない。そう考えると胸が張り裂けそうだった。しかし、もしが僕を忘れてしまったとしたら、もう一度僕を教えよう。君を探し出会い、友人になり、そして恋をした。短かったけれどとても素晴らしい君との日々を。

 の顔を見つめ名前を呼び続けていると、彼女のまぶたが微かに動いた事に気が付いた。そしてゆっくりと開かれ、美しい色の瞳が部屋の照明を受けて輝く。僕は身を乗り出し再び彼女の名を叫んだ。

、分かりますか?僕です、コナーです」

 その時だった。チクリ。僅かな痛みのようなものが胸に走る。アンドロイドである僕は物理的ダメージは受けるものの、痛みという概念はない。それなのに何故この感覚が“痛み”だと分かるのだろう。僕は違和感を覚えた胸のあたりを見る。そこはの指先を擦り付けていた、彼女の名前が刻まれていた場所だった。

 まさか。そう思い僕は咄嗟にシャツのボタンを外すと、明るい照明の下で自分の胸元を見る。そこにははっきりと“”の文字が刻まれていた。僕はの肩を掴んで引き上半身だけを起こさせると、手を彼女の背中に回して体を支えつつ、顔を近づけて叫ぶ。

「見てください、これが君の名前だ。わかりますか?

 もう片方の空いた手で自身のシャツを広げ胸元を見せる。はゆっくりと瞬きをし僕の胸元に刻まれている文字を見た。“”。それが君の名前だと分かってほしい、思い出してほしい。ただその強い想いだけをこめ、僕は彼女を見つめた。

「返事をしてください、

 再び名前を呼ぶと、うつろなの瞳が僕を見つめ、その美しい色に自分の姿が映っているのが分かる。

……」

 何度目か分からないほど彼女の名前を呼び続ける。自分の目の奥の方から涙が湧き上がってくるのが分かった。ああ、僕はまた君を想って涙するのか。それは喜ばしいことであるのと同時にとても切なく悲しい。もう一度僕の顔を見て、僕の名前を呼んで欲しいと、強く願う。

 その時、滲む視界の端での口唇が微かに動いた。

「コナー……」

 聞き逃しそうなほどに小さな声で、確かに僕の名前を呼んだ。驚き、顔を近づけて改めての顔をまじまじと見ると、うつろな目を細め笑っていた。

「自分の名前くらい、分かるから、何度も、言わないでよ……」

 は何度も眉を歪ませながら言う。それは目を覚ましたばかりで意識がはっきりとしない人間にとても良く似ていた。僕はの体を自分の方に抱き寄せ、その小さな肩を抱きしめる。冷たいはずの体は何故かひどく熱く感じた。

「僕が分かるんですか?覚えているんですか?」

 自分でも情けなくなるくらいに声が震えて涙が混じり、は僕の耳のすぐ横でフ、と小さく笑った。思わず抱き寄せていた肩を離し顔を覗き込むと目線が絡み合い、の大きな丸い目が柔らかく細められる。

「当たり前でしょ、コナー」

 自身の名を呼ばれ、願いが確信に変わる。彼女の記憶メモリは僕をしっかりと残してくれた。この時ばかりは神の存在を信じたいとすら思った。

 だんだんと滲む視界の中で、僕はの頬に触れた。指の腹でそこを撫でるように動かし、親指で彼女の口唇に触れる。とても柔らかくあたたかい。吸い込まれるようにそこへ自分の口唇を重ねると、ぬくもりが増す気さえした。体温を持たないアンドロイドである僕たちの、冷たくあたたかいキス。

「僕は、君が好きです。

 これは人間の模倣なんかじゃない。プログラムなんかじゃない。の名が僕の胸に浮かび上がったことから始まり、僕が彼女を探し突き止め、友人となり、僕はに恋をした。これは僕が僕の意志でしたことであり、僕だけの感情だ。を愛おしいと思う僕だけの感情。

「私も、あなたが好きだよ。コナー」

 彼女の言葉はまるで僕の言葉を真似たようなセリフだった。そのことに自身も気づいたようで「あ」という声を上げた後に小さく笑う。その笑顔が言葉に言い表せないほどに愛おしくて、僕はの髪に口唇を落とした。

 アンドロイドである僕が見た夢。その中に現れた鮮やかな赤いワンピースを着た女性。あなたは誰ですか。夢の中でそう問いかけようとした事もあった。いまなら分かる。きっと僕たちは出会う以前から、ずっとずっと前から、どこかで繋がっていたのだと。

 彼女の名は。僕の胸に刻まれたその文字をもう消させはしない。心の奥底で強くそう思った。