神の星 - 3
オーナーである西谷さんをアイスペールでぶん殴った。私はあの店どころかキャッスルにも居られなくなるだろう。蒼天堀あたりにある場末の店に売り飛ばされ今度こそ風俗をやらされるに違いない。このまま海に身投げでもしてしまおうかと思ったがどうしても死にきれなかった。私はまだ生きたかった。やりたいこと、行きたい場所、食べたいものだってたくさんある。まだたったの二十余年ほどしか生きていない人生を終わらせる勇気が私にはなかった。
しかし、危惧していたことは何一つ起こる気配がなかった。どうせクビになるのだからと出勤せずにいると店のボーイが部屋までやってきて「無断欠勤なんていい度胸ですね借金まみれのクセに」と静かな暴言を浴びせて来たし、急いで身支度をして店に出てみれば何事もなかったように今まで通りだった。殺人未遂現場と言っても過言ではないだろうVIPルームも問題なく使用されているようだった。
この状況はつまり、私にぶん殴られた西谷さんは店側に何も言わなかったということになる。確かに彼はおかしかった。『その目がたまんねえ』とか『殺意がこもった目』だとかわけのわからないことばかり言って、最終的には何に欲情したのか知らないが勃起までしていた。頭がおかしいというよりただの変態なのかもしれないとも思う。それでも彼が私をかばうような真似をする意味が分からなかった。西谷さんの一声さえあれば私のような人間を消すことなど容易いはずなのに。
VIPルームでの出来事から、西谷さんは頻繁に店に顔を出すようになった。オーナーという最高権力者の登場にボーイたちのみならずキャストたちもみな戸惑っていて、店は常に緊張状態だった。
私はまた指名を受けるのではないかと怯えていたが、西谷さんに呼び付けられることはなかった。しかし彼は店に居る間中ずっと私のことを見ていた。西谷さんは個室になっているVIPルームではなく一般の客が座る開けた席を好み、ひたすらに私を見ていた。どのテーブルについても彼の視線が体のあちこちに突き刺さり痛いほどだった。呼び付けるわけでもなく声をかけるわけでもなく、ただジッと見つめているだけなんて男子中学生か。そんな風にも感じたが、あの夜のように指名されて個室でわけのわからないことを言われ犯されるよりはマシだと思い気にしないことにした。
西谷さんはこれでもかという程に店に金を落としてくれた。高い酒を注文したり札束レベルのチップをばら撒いたりとやりたい放題だった。きっと金など腐るほどあるのだろうから当然と言えば当然かもしれない。西谷さんが一番最初にここへ来た時に接客をしたのが私だったため、ボーイの一人に「さんのお陰でオーナーがこのお店を気に入ってくれたみたいですね」と言われ、私はただ謙遜の意味を込めた苦笑いを返すことしか出来なかった。
ある晩のこと、店に出勤するといつものように西谷さんが店に来た。彼の姿を視界の端に捕らえながらも気にしないふりをして自分の仕事をこなす。途中、横暴な客に強いお酒を大量に飲まされた。胃が熱く膨らんで脚に力が入らなくなる。頭痛と吐き気が同時に襲ってきて、私はいつものようにバックヤードへ逃げ込んだ。迷いなく裏口から外に出るといつもの喫煙所でしゃがみ込む。
西谷さんと初めて会った夜のことを思い出した。あの時彼は私の口に指を突っ込んで無理矢理に吐かせた。吐いたことで気分の悪さが治まり多少はすっきりしたものの、はっきり言えばあの出来事はトラウマだ。再び同じようなことが起こりそうで怖くなる。背後から『だらしねぇなぁ』なんて声をかけられるような予感がしてしまう。
「あれぇ?ちゃんじゃん。どうしたの?」
聞こえてきた声は私の想像とは全く違っていた。伏せていた顔を上げ声のした方向を見ると、そこに立っていたのは店長だった。キャバクラや風俗店をいくつも経営しているやり手で極道関係者とのつながりもあり、借金を理由に私を買った男。私がいまキャッスルに居るのも彼の指示だった。
店長は足早にこちらに近付き、同じようにしゃがみこんだ。下心しか感じない生暖かい手で私の背中をさする。すぐにでも振りほどきたかったが、吐き気がひどすぎてそれどころではなかった。
「ん?気分悪くなっちゃったの?じゃあ少し休める場所行こっか?二人っきりで、さ……」
強いお酒のせいで気分が悪いのはその通りだが、店長の猫なで声も吐きそうなほどに気色が悪く感じる。店長は私の肩を抱くようにしながらゆっくりと立ち上がらせると手を引いてどこかへ誘導し始めた。足元がふらつき視界も悪い。その上この酷い吐き気だ。従うしかなかった。
気が付いた時には狭い個室のソファに座らされていた。弱々しい照明が天井にひとつ浮かんでいる。上げていた視線を落とすと店長の頭が見えた。彼は私の胸の谷間に顔を埋めていた。抵抗したくても力が上手く入らない。店長の行為はエスカレートし、いやらしい手つきで体を触りながらドレスを脱がせようとしてくる。ありとあらゆる隙間から手が入り込んできて肌を直接触られた。
店長が私を気に入っていることは分かっていた。気に入ったと言っても恐らく顔と胸と尻くらいしかまともに見ていないだろうが、裏社会の男なんて結局はそんなものだ。女を金儲けの道具として見ているか、性的な消費物として見ているか、そのどちらかなんだろう。店長はこのまま私の体を好きなように弄ぶに違いない。なんて酷い未来だ。そう思っても私の体は動かない。
ああやばい、気持ち悪い、吐きそうだ。お腹の奥の方から何かがこみ上げてくる。それに抗うことなく私はそのまま胃の中の酒を外に吐き出した。店長の頭や服が私の吐瀉物で無残にも濡れていく。彼は「うわ!」という間抜けな声を上げながら立ち上がり、こちらから距離を取った。口から零れ出た物はほとんどが店長に降りかかったようで、私の体はほとんど汚れていなかった。
「てめぇ……、ふざけやがって!」
目の前で拳が大きく振りあげられる。ああ殴られるんだと思った。殴るならせめて拳ではなく平手にして欲しいし、仕事に支障がでるため顔ではなく体にして欲しい。場違いなほどに呑気なことを考えていると、店長の背後に人の姿がぼんやりと見えた。
「ふざけてんのはお前だよ」
聞き覚えのある声だった。声の主は店長の動きを止めるように首を後ろから掴む。強い力が込められているのだろう。店長の薄汚い口からうめき声が聞こえた。
「俺の許可なくに手ぇ出してんじゃねえぞ……」
店長を止めたのは西谷さんだった。どうして彼がこんな所に居るのだろう。どうして私を助けてくれるのだろう。『俺の許可なく』とはどんな意味なのだろう。頭のなかにいくつかの疑問が浮かぶも、それを考える気力も体力もない。
「俺だってまだ胸しか揉んでねえんだよ!」
西谷さんはわけのわからないことを叫び、店長を掴んだまま懐からドスを取り出す。光る刃が眩しく目を細めていると、西谷さんは何の迷いもなくそれを店長の腹部に突き刺した。目の前で起きた光景がまるで夢か、もしくはフィクションのように思う。西谷さんは貫通した刃を店長の体から引き抜き、再び同じ場所を突き刺した。一度目の刃とは比べ物にならないほどの血が溢れ出し床を濡らしていく。ああこんなに出血したら流石に死んでしまうだろうな、というようなことをぼんやり考えた。
まるで骨組みをなくした人形かのように、店長の体は床に崩れ落ちた。赤くたまった池の真ん中に人間だった物が倒れ込んでいるという恐ろしい状況に声も出なかった。西谷さんは私の目の前でドスを振り、刃に付着した血を反動ではじき飛ばす。壁に飛んだ血はまるで線のように綺麗だった。
「なんて顔してんだよ、」
西谷さんは何事もなかったかのように私に笑いかけた。『なんて顔』とはどんな顔なのだろう。私は自分が今どんな気持ちで、どんな表情をしているかが分からなかった。生まれて初めて目の前で人が殺される光景を見た。恐怖を感じているわけでもなければ、体が震えているわけでもない。ただどこか呆然とし、虚無感に近かったかもしれない。
きっとこの人は私を殺す時もこうして簡単にことを済ませてしまうのだろうと思った。彼にとって人を殺すということは、まるであくびと同じような感覚ではないのだろうか。厄介な人に気に入られてしまったのかもしれないと感じるには、あまりにも遅いようだった。