神の星 - 4
相変わらず視界ははっきりとしないままで記憶も曖昧な部分が多かった。しかし店長が私にしようとしていたことや死に様だけは鮮明に覚えている。気分が悪くなり再びその場で吐いた。足元がおぼつかない私を西谷さんは軽々と横抱きにし歩き出す。どこに向かうのだろうと思いながらも問いかける気力はなかった。
そういえば横抱き、いわゆるお姫様抱っこをされたのは人生で初めてだ。初体験をこんな頭のおかしいヤクザに捧げてしまうなんて不本意すぎると思いながらも、心地良い揺れに身を任せ目を閉じる。連れて行かれたのは以前にも行ったことがある例の部屋だった。階下に見える闘技場は今夜も大盛況のようで、怒号が遠くに聞こえる。
以前は絨毯張りの床の上に押し倒されたが、今回は全く違う感触に体を包まれた。薄く目を開けると赤い布が視界に入り、自分が天蓋付きのベッドに寝かされたのだということが分かる。ふわふわとした柔らかさは心地良く、気分の悪さが和らいでいく気がした。
何かが頬を撫でる。指先のようだった。視界に西谷さんの顔が映り込み、彼もこんな風に優しく、まるで慈しむかのように人に触れることがあるのかと思った。これはきっと夢だ。母の借金を肩代わりさせられたことも、キャッスルとかいうわけのわからない場所に売り飛ばされたことも、店長に体を弄ばれそうになったことも、西谷という頭のおかしい変態に気に入られてしまったことも、きっと何もかもが夢なんだ。
その時、仰向けになっている私の背中とベッドの隙間に西谷さんが手を差し込んだことが分かった。ドレスのファスナーをゆっくりと下ろされ服が脱がされそうになっている。露出した肩にひんやりとした冷たい空気が触れた。
「うわあ!」
思わず大きな声が出て、近くにあったクッションを咄嗟に掴むと西谷さんの顔面に向かって投げる。しかし彼は動きを読んでいたようであっさりとかわされた。やっぱりこの人は只者じゃない。初めて会った時のドスも、二度目に会った時のアイスペールも、全てわざと受けていたのだとたった今確信した。
「やだ、何を、何をしてるんですか、やめてください」
「うるせえな。拒否できる立場かよお前。助けてやったんだからお礼に一回やらせてくれたって罰は当たんねえだろ」
「そういう問題じゃ……」
覆いかぶさられ、こちらに顔を近付けてくる西谷さんを手で押し返すように拒否しているとあることに気が付いた。西谷さんが脱がせようとしている私のドレスに赤い何かがいくつか付着している。よく見るとそれは血のようだったが、私の体に傷は一つもない。西谷さんも怪我などしていない。つまりこれは先ほど目の前で死んだ店長の血だ。気付かないうちに私のドレスに飛んでいたようだった。
店長が私の体に触れた行為と死に際を同時に思い出す。ごわごわとした手のひらが肌の上を這って行く感触。肉が切り裂かれるような音と流れ出す血液の色。頭の中と目の前がただそれだけでいっぱいになり、吐き気を感じた。
ああまただ。気分の悪さに抵抗する気も起きず、込み上げる何かを確かに感じたその時。西谷さんは私の顎を掴んで持ち上げると口唇を塞いだ。一瞬にして吐き気が治まり、込み上げて来ていた何かが一気に下へ落ちて行く感覚がする。
言葉にならない抵抗の声を出しながら西谷さんの肩の辺りを押して抵抗するもまるでびくともしない。腕はすぐに掴みとられベッドに押さえつけられる。微かな口唇の隙間をこじ開けるように無理矢理舌が入り込んできた。下口唇を強く噛まれ、痛い。いい加減にして。そんな気持ちを込めて同じように西谷さんの下口唇を噛み返す。ガリ、という音と共に微かな血の匂いを感じた。
流石の西谷さんもこれで怯んで口唇を解放してくれるだろうと思ったが、それは大きな間違いだった。口唇こそ離れたものの顔の距離はそのままで、鼻が触れ合いそうなほど西谷さんの顔が近くにある。切れ長の妖しい目が私だけを見つめていた。
「もっと噛めよ。もっと、もっと血が出るまで。俺の口唇ごと噛み千切ってくれよ。なぁ、」
私が噛んだことにより西谷さんの口唇は出血していた。血色の良い赤い口唇にさらに鮮やかな赤が滲んでいる。そのままもう一度キスをされた。二つの口唇の間で唾液と血液がぐちゃぐちゃに混ざり合いいやらしい音をたてる。もう一度噛んでやろうかと思うも逆に西谷さんを喜ばせる結果になりそうで躊躇する。代わりに顔を背け、重なっていた口唇を振りほどいた。
「よぉ……、借金だなんだとか言ってくる大元のクソ野郎は俺が殺してやったんだぜ?今日からお前は俺の所有物だ。喜べよ」
西谷さんは円を描くように私の頬を撫でながら不気味な笑みを浮かべた。私が西谷さんの所有物だなんて冗談じゃない。
「違う。私は殺してくれなんて頼んでない。あなたが勝手にやったことでしょ。私は真っ当に働いて借金を返して、ここを出るの。あんたの所有物になるなんて絶対に嫌」
強く睨みつけながら言うと、西谷さんは頬を撫でていた手を止め表情から笑みを消した。こちらを見下すような目つきをしたかと思うとこれみよがしに盛大な溜息をつく。
「お前、いつまで騙されてるつもりだよ。借金なんかたいした額じゃねんだろ、どうせ」
『騙されている』という言葉がひっかかり、何も言い返せなくなる。借金は1,000万円あるという話だったはずだ。『たいした額ではない』というのは1,000万円という金額が西谷さんのような権力者にははした金だという意味なのかと思ったが、彼の言い方から察するにそういう意味ではないように思えた。西谷さんの言葉の続きが気になる。彼もそれを察したようで、ハッと鼻で笑いつつも続けて言った。
「俺はあの男をよぉく知ってる。お前よりもずっとな。あいつはあることないこと女に吹っ掛けて働かせる金の亡者だよ。大体、お前にそんなでけえ借金があるんならキャバなんて甘いこと言ってねえでさっさと風俗にでも飛ばすだろ。違うか?」
全てが理にかなっていると思った。あの店長はキャバクラや風俗店をいくつも経営しているやり手で極道関係者とのつながりもあるということは知っていた。もしかしたら、という考えで頭がいっぱいになる。
「嘘だ……。そんなの、信じない……」
信じないというよりも信じたくなかった。確かに母の借金はあったのかもしれない。それがたとえ膨大な額であろうと真っ当に働いて、返して、胸を張って太陽の下を歩ける日がもう一度来ると思っていた。それなのに母にも騙され店長にも騙され、こんなところでわけのわからないヤクザに押し倒されて好き放題にされている。こんなことがあってたまるか。
目の奥が熱くなり涙が零れた。仰向けになっている私の目尻からこめかみに向かって暖かい水が流れ落ち髪に沁み込んでいく。
「かわいそうになぁ……」
西谷さんはわざとらしく眉尻を下げて情けない声を出す。そして赤い口唇の隙間から舌を出すと、私の目尻の涙をいやらしく舐め取った。ざらざらとした感触が酷く不快だった。
「これからは俺が、お前のことを大事に、だぁいじに可愛がってやっから。……な?」
耳元で囁かれたあと、西谷さんの口唇が髪に落ちる。それこそまるで私を本当に大事に思っているのかと錯覚するような、優しく愛に満ちた仕草に思えた。そんなのは酷い勘違いだということも分かっていた。ただ私には縋るものがそれしかなかった。
その晩、私は『神』に抱かれた。殴られたり蹴られたり斬り付けられたりすることもなければ、無理矢理にされたり変な道具を使われたりすることもなかった。それは想像していたよりもずっと優しく、久しぶりに心が満たされる気持ちの良い夜だった。ああ西谷さんはこんな風に女の人を抱くのだなとぼんやり思った。
事が済んだ後、西谷さんは私の横で眠った。きっと見たことがある人は多くないであろうあどけない寝顔に目を奪われながらも、私の頭の中にあるのは『どうやってこの船から抜け出すか』。『どうやって西谷さんの手から逃れるか』。ただそれだけだった。
番外編
サル(R15)