神の星 - 6

 脱出作戦決行の日は予定の時間よりも一時間早く目が覚めた。キャッスルは基本的に夜間に営業を開始するため、燃料や物資の補給は昼間に行われる。この時間西谷さんは自室で眠っているはずなので、脱出のチャンスは今しかなかった。

 出勤の際に着ているいつものドレスに着替える。初めはカジュアルな服の方が良いのかと考えたが、帰りの資金をなくした一般客の逃走だと勘違いをされる恐れがあったし、むしろキャッスルでは煌びやかなドレスの方が目立たないと考えたためだった。唯一、走りやすいように靴だけはヒールの低い物に変えた。

 ゆっくりと部屋を出て廊下を歩く。人の姿は見当たらなかったが、誰に見つかっても違和感がないように平然を装って歩いた。途中にある従業員出入口に音を立てぬようにしながら入ると下へ続く階段を下りる。先ほどから一切船は揺れていない。恐らくすでに補給場所の港に到着しているのだろう。急がなければならなかった。

 金を散々使い果たしキャッスルに捕らえられた人たちが閉じ込められている牢屋を横目に、私は下層へとどんどん降りて行った。途中どこかのスタッフらしき人に姿を見られたが、ドレスを着ていたお陰で特に呼び止められることはなかった。やはりこの格好で来て正解だったと思う。

 物資を運び入れるスタッフが出入りする搬入口はもうすぐだった。声を出し合って作業しているのだろう。男たちの話し声がする。外からの強い光が差し込む大きな出入口が見えて来た時、手前に二人の男性が立っているのが分かった。物資のひとつであろう大きな箱の影に隠れて様子を窺う。搬入口は目と鼻の先だ。しかしその二人の男性が邪魔で外に出ることが出来ない。流石のドレスもこの場所では役に立たないだろう。きっと『キャバ嬢がこんな所で何をしてる?』と怪しまれるに違いない。

 早く何処かへ行って欲しい。そう考えていたが、男性たちは仕事をさぼっているのか荷物に寄りかかり雑談をし始めた。耳をすますと「だりー」だの「早く帰って酒飲みたいわぁ」などの愚痴が聞こえる。

「なぁ、お前知っとる?この船のオーナーの話。西谷誉っちゅうヤクザ」

 西谷誉、という名が耳に飛び込んできて心臓が跳ねる。先ほどの愚痴は耳をすまさなければ聞こえなかったのに、男性の声が急に大きくなったよう気さえした。ここへ来るまでの緊張を遥かに上回るような鼓動の早さに息が上がる。深呼吸をするために自身の胸へ手のひらを押し当てていると、男性たちは相変わらずの雑談を続けていた。

「こんな船持っとるなんて、えろう金持ちなんやろなぁ。毎晩酒飲んで、毎晩女とっかえひっかえでヤリまくっとるらしいで?」

「あー、俺も聞いたことあるわ。避妊なんかせえへんから女孕ませまくり、中絶させまくりだとかって話やろ?毎晩違う女とヤリまくれるとかめっちゃ羨ましいわ。好みじゃなかったらチェンジ!ってか?」

 ギャハハ、という下品な笑い声が響き渡る。

 人の噂とはこんなものだということは分かっている。だとしても好き勝手言っている男性たちに対して良い気分ではなかった。確かに西谷さんは『すんげぇ金持ち』なのかもしれないし『毎晩酒飲んで』いるのかもしれない。しかし避妊だってちゃんとしてくれるし私は彼の子を妊娠したことなど一度もなければ中絶したことだってもちろんない。そもそも、少なくとも私の知る限り『毎晩女とっかえひっかえでヤリまくっとる』というようなことはないはずだ。

 いや違う。『ないはず』ではない。『ない』んだ。西谷さんが抱くのはこの世でただ一人だ。身の回りの世話をしている従順な女性たちでもなければ、煌びやかな衣装を身にまとっている美しい女性でもなければ、肌の露出が激しい胸の大きな女性でもない。西谷さんが抱くのはこの世でただ一人。

「私だけです」

 気が付けば隠れていた物陰から立ち上がり、大きな声でただそれだけを口にしていた。男性たちは私を見て、一度お互いを見合い、もう一度私を見る。「誰?」「知らんがな」と言い合うと、首を傾げながらこちらに一歩近づいた。

 まずい。率直にそう思い後ろに振り返るとその場から走って逃げた。何処から来たのかもどの道を戻れば良いのかも分からない。ただひたすらに走りながら自分の口元を手で覆う。今までに経験したことがないくらいの熱さだった。

 私は一体何を口走ってしまったのだろう。いつも西谷さんの周囲にいる美しい女性たちはただの世話係のようで『そういうこと』をするのは私一人だけだ。しかしそれは私が知る限りの話。同じような女が他に居ないとも限らない。それなのに何故『西谷さんが抱くのはこの世で私ひとりだけ』だなんて思ってしまったのか。こんなのはまるで独占欲丸出しの子供と同じじゃないか。まるで私が西谷さんのことを好きみたいじゃないか。恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

 気が付くと、四方八方を壁で囲まれた何もない狭い部屋に辿り着いた。先ほどの男性たちは上手く撒けたようだったが、無我夢中で走ってきたためか行き止まりの部屋に入り込んでしまったらしい。来た道を引き返そうと振り返ったその時、視界に影が落ちた。

「やっと見つけた……」

 出入口を塞ぐように立っていたのは西谷さんだった。ここまで走ってきたのか息が荒く肩で呼吸をしている。何故こんな所に彼が居るのかという疑問と、見つかってしまった恐怖と、先ほどまで頭を埋め尽くしていた張本人の顔が見れたという妙な喜びと、様々な感情に頭を埋め尽くされる。下半身に力が入らなくなりその場にしゃがみこむようにしながら尻もちをついた。

「俺はよぉ、……。お前のことならなぁんでも分かっちまうんだよなあ。お前がどういうキスをすれば喜ぶのか、どこが一番感じるとこなのか、どうやって俺のこと裏切ろうとしてるのか、全部な」

 西谷さんは私と目線を合わせるようにしゃがみ、顔を覗き込んできた。これでもかというほどに口角を上げ歯を見せて笑っているが、私には分かる。彼の目は一切笑っていなかった。まるでナイフのような鋭さで私の体を何度も何度も突き刺している。

「お前のこと大事にしてやるつもりだった!だから渡瀬の兄貴の話もした!出所祝い一緒に行くって約束したろ!?おい!なんとか言えよ!」

 小さく「ごめんなさい」とだけ口にする。西谷さんの手が私の額に伸びて来てまるでボールかのように頭を掴まれた。そのまま倒され後頭部が床に打ち付けられる。気絶してしまうのではないかと思う程の衝撃と痛みに耐えた。

「いまさら謝ったって許さねえよ。もう手加減もしねえ。殺してやる。てめえぶっ殺して、剝製にして俺の部屋に飾ってやるよ。そしたらずっと一緒だ。いいだろ?よぉ!なぁ!?」

 西谷さんは馬乗りになり私の首に手を掛けた。力が込められキリキリと締め付けられていくのが分かる。気道が狭まっていき呼吸が上手く出来なくなっていく。目の前がチカチカと点滅したかと思うと、それがすぐにぼんやりとした感覚に変わった。ああ私、死ぬんだ。殺されるんだ。そう思った。

、なぁ、おい、……、なぁ……?」

 遠くの方で名を呼ぶ声がする。大きくあたたかな手に顔を包まれ、口唇に何かが触れた。優しくていやらしい、柔らかい何かに口唇を弄ばれる。西谷さんの口唇だった。彼の二酸化炭素が私の体の中に入ってくるのが分かる。ふわふわとした感覚に包まれゆっくりと目を開いた。

「なぁ……、行くなよ。ここに居ろ。俺の傍に居ろよ。ちゃんと生きたまま。ずっと」

 西谷さんの声は震えていた。その顔は今までに見たことのない表情で、今にも涙を流しそうなほどの悲しさで溢れていた。西谷さんの口唇がゆっくりと髪に触れたかと思うとそのまま頭を抱えられ、強く抱き締められる。まるで懇願するかのような、私に言い聞かせるような、そんな仕草に思えた。

「俺はお前に惚れてんだ。好きなんだよ、。行くな、どこにも。傍に居ろ。それが出来ないってんなら今すぐこの場でぶち殺してやっからな……」

 再び口唇を塞がれた。言葉の恐ろしさとは裏腹に西谷さんのキスはあまりにも優しく甘かった。今すぐに抱いて欲しいと考える。服を脱がせて直接肌に触れて欲しいと思う。自分はこんなにもふしだらな人間だっただろうか。

「わたしも、」

 口唇の隙間から必死に酸素を取り入れながら、擦れた声で返事をした。西谷さんがどんな表情をしているのかは良く見えなかった。

「わたしも、あなたが、好きです。西谷さん」

 言葉にしてやっと初めて、ああそうかと腑に落ちる。西谷さんは私のことが好きで、私も西谷さんのことが好きなんだ。もっとキスをされたい、もっと抱かれたい、もっと触れられたいと懇願するほどに。もっと殴られて蹴られて噛み付かれて殺されたいとすら思う。おこがましくも私は西谷さんにもっと深く重く、潰されてしまう程に愛されたいと思ってしまった。