君だけはそこにいて - 5

「あなたには、……あなたにしか出来ないことが、きっとありますよ」

 それを聞いた時、随分と平和ボケしている女だなと思った。そんな風に考えられるのは普通の人間だけだ。普通に働いて普通に飯を食って普通に寝ているだけで生きていける。そんな人間だけ。でも、彼女のその考えや言葉を嫌いにはなれなかった

 彼女の名は。今でも忘れずにしっかりと覚えている自分になんだか馬鹿らしくなる。彼女のことを嫌いになれなかったのは、そんな“平和ボケ”がほんの少し羨ましかったからなのかもしれない。別にマフィアのボスが嫌だとかそんなことじゃない。ただ、生まれた時からそこに身を置いている自分には、未知の世界だったから。

 飯店小路でに会った時は動揺した。ただ冷静を装おうと努力したため周囲に悟られることはなかったと思う。

 俺のあの姿を見れば正体がなんなのか、にも理解出来ただろう。そう、俺は鉄の結束を誇る武闘派チャイニーズマフィア、横浜流氓の総帥、趙天佑。このことを目の当たりにし理解すれば、は俺から離れていくと考えていた。

 別に女に困ったことなんかない。俺が横浜流氓の総帥だと知ればちやほやしてくる女もいたし、逆に離れていく女もいた。誰も本当に俺のことなんか愛してなかったと思うし、俺だって誰かを本気で好きになったことなんてなかったと思う。カタギの女なんか尚更だ。

 それなのには臆することをしなかった。俺がを忘れた“フリ”をしても、俺のボディガードたちが威嚇をしても、俺がどんな人間か知っても、けっして退くことはなかった。

 もうさっさと忘れてしまおう。そう考える度に頭に浮かんでくる顔と、あの言葉。

“わたし、浜北公園にいます!待ってます!……待ってますから!”

 待ってますってなんだよ、待っててどうするんだよ馬鹿な女。そんな風に吐き捨てて悪態をつきたくなる。もしいま浜北公園に行けばに会えるのだろうか、なんて思ってしまったのは、気の迷いだ。

 そう、“気の迷い”。今だってこうしてのことを考えてしまっているのも気の迷いだし、いつもだったら女の名などすぐに忘れてしまうのに、という名だけを忘れられないのも、気の迷いなんだ。


 と飯店小路で遭遇してから数日のこと。馬淵から一本のムービーが送られてきた。パーマが失敗したかのようなモジャモジャ頭の男が拘束され、馬淵に尋問されている。“自分は星龍会の人間だ”そのようなことを喋った後に、ムービーはすぐに終了した。

 俺がそのムービーを見るより先に、馬淵は繁華街で星龍会の人間を襲撃したらしい。何人かの幹部を引き連れ一斉に発砲。そいつらは文字通り蜂の巣にされた。

 ハッキリ言って少し呆れた。星龍会だと言ったあのモジャモジャ頭が横浜流氓のシマを荒らし、その報復に馬淵が星龍会の若衆を襲撃。そしてまたその報復に星龍会の若頭が横浜流氓の根城である慶錦飯店にカチコんできた。すべての負の連鎖がテンポよく進み、まるでドラマか映画のようだと他人事のように思う。

 馬淵が神室町の近江連合と繋がっていることを知ったのは、それからすぐのことだった。最初から異人三を内側から崩すのがあいつの狙い。そのことにすぐ気付けなかったのは、きっと心のどこかでまだ馬淵を信じたかったからなんだろう。

 しかしその“信じたかった”という想いは、馬淵がクーデターを煽ったことで簡単に踏みにじられることになる。偽札の件が明るみになり、異人三は見せかけだの、上の連中だけでイイ思いをしているだのを吹いてまわり、周囲は俺への造反者が続出した。

 あのムービーが送られてきてから俺は馬淵と会っていない。せめて話がしたいと思っていると、慶錦飯店に馬淵が現れ、自分と彼は見えない何かで結ばれているのかな、なんて気色悪く冗談めいたことを思った。

「よぉ……、趙」

 馬淵は俺の名を呼んでニヤリと笑う。よく見ると負傷しているようで、口の端から血が滲んでいた。誰かとやり合ってきたのだろう。その喧嘩の内容も相手も、今の俺には最早どうでもいいし聞く気もなかった。

 俺はずっと“大目に見る”という名目で馬淵の悪行に気付かないふりをしていた。それももう限界らしい。馬淵はもう俺が思っているような“仲間”じゃない。誰から見てもそれは明らかなのに、俺は馬淵を仲間だと思っている。それこそ、こんな状況になった今でも。

「馬淵。ちょっと聞きたいんだけどさ」

 何の感情も込めないようにしながら名を呼ぶ。馬淵はニヤけた顔のまま、今までと同じように「あ?」と返事をした。

「お前はもう、俺の仲間ではいてくんないの?」

 悲しいわけでも怒っているわけでもなく、ただ無感情にその言葉を口にする。馬淵は一度だけ眉を動かすと、その後にいつものニヤリとしたいやらしい笑顔を浮かべた。答えなんか聞かなくても分かる。馬淵はもう俺を敵として見ている。

「……

 その名を口にしたのは馬淵だった。何が起こったのか分からず思わず眉間に皺が寄り、馬淵を見つめた。相変わらずのニヤニヤ顔と目が合う。

「趙……。お前、カタギの女と関係持ってるらしいじゃねぇか?あ?」

 動揺を隠し、冷静を装った。馬淵が何故のことを知っているのかと疑問に思ったが、恐らくは部下か誰かに俺の周囲について調べさせたんだろう。しかし彼の“関係”という言い方が、まるで“男女間によくある肉体関係”という意味に聞こえ、少しひっかかった。

「別にやましい関係じゃないよ。ただ一緒に飲んでしゃべっただけ」

「なんだ照れてんのか?とぼけんなよ。下のモンが色々と調べてくれたんだ。この間女がお前を訪ねて来たんだろ?なぁ?」

 からかうような馬淵の言い草に少し腹が立ってきて、軽く睨むように見る。変わらずに笑っているのだろうと思ったが、馬淵は笑顔を消しこちらを見下ろしていた。

「……それで?何が言いたいの?」

 低く、威嚇するような声を出す。馬淵の目つきが鋭くなってきたかと思うと、足早にこちらに近づき距離を詰め、俺の胸倉を掴んだ。抵抗する気も起きずにそのまま引かれ、目の前で馬淵が叫ぶ。

「俺はお前から全てを奪いたいんだよ!組織も資産も権力も何もかも!ついでにっていうあの女も掻っ攫って俺の女にしちまうか?良いだろ?なぁ?それともお前から色々と聞き出すのに、丁度良い“材料”にしてやろうか?」

 馬淵は早口でまくし立て高笑いをする。彼の笑い声が部屋にこだまし、耳を塞ぎたくなった。

「……もういいよ、馬淵」

 大きな溜息と共に言葉を吐き出す。諦め、慈悲、怒り、様々な思いが胸を埋め尽くし混ざり合い、ただ真っすぐ馬淵を見つめる。俺の胸倉を掴む腕を引き離すと、彼を思いきり睨んだ。

「お前の気が済むまで俺を好きにすればいいよ。ただし何をされても俺は喋んないし、彼女に手を出すことも許さないから。絶対に」

 腕を伸ばし、今度は俺が馬淵の胸倉を掴む。威嚇の意味を込め顔を近づけたが、馬淵は臆することなく薄ら笑いを浮かべていた。

「流石の趙も惚れた女には弱いってか?横浜流氓の総帥が聞いて呆れるぜ!」

 拳を作り素早く繰り出すと、馬淵の左頬にヒットし指輪に血が飛ぶ。これが最後の抵抗。俺は馬淵の胸倉から手を離し、両手を上げ降参のポーズを取った。

「いいじゃん。その方が、人間らしくてさ」

 最後の悪あがきかのような言葉に馬淵は笑い、俺の腹部に拳を突き入れた。内臓が揺れ、グチャグチャに混ざるような感覚がし、吐き気がする。ふらつく足元でなんとかバランスを取ると、今度は顔面を掴まれそのまま床に叩きつけられた。

 薄れゆく意識のなかでぼんやり思う。惚れたとかそんなんじゃない。あの平和ボケしている馬鹿な女、を平和ボケさせたままにしてやりたい。こんな汚い世界を見せたくない。ただそれだけなのだと。