君だけはそこにいて - 4

 あの後、浜北公園から自宅までの道のりはほとんど記憶にない。気が付くと玄関に倒れ込んでおり、頬を硬く冷たいフローリングに押し付け眠っていた。

 酔いがさめていくのと同時にまるで夢から覚めたような気分になり、なんだか切なくなる。あの夜のことは夢だったのではないかと、趙天佑という人物は私の妄想が作り出した幻だったのではないかと感じた。何故ならあの日から、私は彼の姿を何処にも見つけられなかったからだ。

 バッティングセンターの裏。おしゃれなダーツバー。夜景の美しい浜北公園。どこにいっても彼の姿はなく、私は人ごみを見つけては趙さんの姿を探すのが癖になっていた。

 そんな日々を送ること数日。私はいつものように繁華街を歩きながらも目を配り彼を探していた。スーツ姿のサラリーマン。パーカーを着た若い男性。その後ろ姿は誰も彼も趙さんとは違う。

 我ながらなんて無意味なことをしているのだろうと自嘲したくなった。趙さんにもう一度会って何がしたいというのだろう。大体、たった一晩、しかもただ酒を飲みかわし会話をしただけの相手にどうしてここまで執着してしまうのかが自分でも分からない。

 その時。ああだこうだと考えている私の鼻が何かの良い香りを捉えた。思わずその場に立ち止まり鼻をすん、と鳴らすと香ばしい香りが入り込んでくる。これはパンか何かの香りだろうか。俯いていた顔を上げると、目の前には落ち着いた雰囲気のベーカリーカフェがあった。

 こんな店あったっけ、と頭の中で独り言ちる。ベーカリーカフェは太い道路のある大きな路面にあり、すぐ横にある暗く重い空気が漂う道は、確か“異人通り”という名だったはず。

 ここまで考えた所でハッとした。確か異人通りは、中華街に居つけなかったあぶれ者の中国人たちが集まる場所だと、バイト先の先輩が教えてくれたことがある。ギャングのようなマフィアのような、日本で言ういわゆるヤクザのような怖い人たちで溢れているため、近づかない方が良いという警告もしていたことをぼんやり思い出す。

 私がこのベーカリーカフェの存在に気付けなかったのも、恐らくは無意識に異人通りを避けていたからなのだろう。しかし店の外観は落ち着いていて、パンの香りはとても魅力的だ。せっかくだし入ってみようかな、などと想っていると、何故か異人通りの方に視線が吸われる。

 何故、ベーカリーカフェではなく異人通りの方を見てしまったのか自分でもよく分からない。道は薄暗く、ネオンの光が怪しさを増しているようにも思える。奥へ続く通りの中央あたりに大柄な男性の団体が見え、あれがマフィアとやらなのかな、と呑気にも思っていると、その団体の中に見覚えのある、ずっと探していた人物の姿があった。

「……趙さん?」

 思わずその名を口に出す。目がかすんできたような気がして、数回強く瞬きをした後にもう一度その方向を見る。間違いない。大柄な男たちに囲まれて少し見えにくいが、あれは趙さんだ。あの日のことはやはり夢なんかじゃなかったんだ。

 そして、興奮しつつも頭の片隅で冷静に思う。まさかとは思っていたがやはりその“まさか”だった。趙さんが言っていた“組織”とはこの異人通りに居るという中国人のマフィアで、趙さんはその責任者。つまり“ボス”なんだ。

 しかし今はそんなことはどうでも良く、何の考えもなしにその場から駆け出す。ずっと探していた彼が目の前にいる。私は真っすぐに趙さんの方向へ走り、その名を口にしようとした。

 その時、急に目の前に暗い影が落ちる。それは趙さんを囲むようにしていた人たちの一人で、背が高く腕の太い屈強そうな男性だった。私の足を止めるように目の前に立ち、冷たい目でこちらを見下ろしている。

「オマエ、何だ」

 口にした言葉のイントネーションで、男性が日本人ではないということに気付く。お前は何だ、という質問には何と答えたら良いか分からなかった。私は趙さんにとって友達?いやそれ以前にただの知り合いだろう。

 何も言わずにいると、男性は首を趙さんの方向に向け中国語で問いかける。何を言っているか分からなかったが、恐らくは「この女を知っていますか?」というような意味だったのだろうと勝手に解釈した。

 趙さんが伏せていた顔を上げこちらを見ると、目が合う。「です」、と自身の名を口にしようとした瞬間、それをかき消すように趙さんが声を上げた。

「ごめん、誰だっけ?」

 名乗ろうとした声も、呼吸すらも止まってしまったような感覚に陥る。趙さんが私を覚えていないことはそれなりに覚悟していたことだった。しかし実際にその事実を目の当たりにするととてもショックで、何を言おうかと考えていたことも全てが頭の中から消し飛ぶ。

 私にとって、あの夜は忘れられない出来事だった。趙さんにもう一度会って話がしたかった。趙さんの悩みの種であった組織がどうなったのかとか、その悩みは軽くなったのかどうかとか、そんな他愛もない話をしたい。ただそれだけだった。おこがましくも趙さんも同じ気持ちだったら良いなんて、どうして思ってしまったのだろう。

 ただ人形のように固まりその場に立ち尽くしていると、趙さんがすぐ横にいた男性の一人に何やら耳打ちをした。小さな声で聞き取れなかったが、恐らくは中国語だろう。どちらにせよ私に理解は出来ない。耳打ちをされた男性がこちらにゆっくりと近づき、同じように鋭い目つきで私を見下ろして言う。

「オマエ迷惑ね。ボス忙しい。そこをどけ」

 その言葉に従うしか出来ることはなかった。後ずさりながら端へ移動して道を譲ると、趙さんと男性たちが目の前をゆっくりと通り過ぎて行く。彼らの大きな足音を聞きながら、私は何をしているんだろうと自問した。

 私は趙さんを忘れられずずっとあの姿を探していたけれど、趙さんはそうではなかった。私のことなどさっさと忘れて、自身のやるべきことをこなし悩みに向き合っていたんだ。そんなことは当たり前だったかもしれない。

“あなたには、……あなたにしか出来ないことが、きっとありますよ”

 あの夜、浜北公園で彼に言った自分の言葉を思い出す。そう、趙さんは趙さんにしか出来ないことをしているだけ。私が言った言葉通りに。

「……趙さん」

 自分にしか聞こえない程度の小さな声で彼の名を呟いた。最後に趙さんの姿を見ておきたいと、彼が歩いて行った方向を見る。

 すると、たった一人。道に広がって歩く団体の中で、首だけを動かし一瞬こちらを見た人物が居た。趙さんだった。まるで私の呟きに反応したかのようなその状況に息を飲む。声は小さかったため彼には聞こえていなかっただろうし、こちらを見たのは偶然なのだろう。

 それでもいい。偶然でもいい。自惚れでもいい。先ほど趙さんが言った「ごめん、誰だっけ?」という言葉。それすらも嘘に思えた。

「趙さん!」

 通りに響き渡るほどの大きな声で叫ぶ。団体の中の数名は驚いたようにこちらに振り向いたが、趙さん本人が先程と同じように私を見ることはなかった。構うもんかとその背中に再び叫ぶ。

「わたし、浜北公園にいます!待ってます!……待ってますから!」

 全てを言い終えるよりも早く、趙さんたちは狭い路地の奥に消えて行った。大きな声を出したためか喉がヒリつき、小さく咳をすると視界が微かに歪む。

 趙さんが消えた路地を見つめた。ネオンが怪しく光り、壁にはポスターやチラシのようなものが貼っては剥がされたような痕がいくつもあって、とても綺麗とは言えない。

 こんな荒れ果てた土地を根城とするチャイニーズマフィア。趙さんがその組織のボスであるということは間違いないだろう。それでもよかった。そんなことはどうでもよかった。

 あなたにはあなたにしか出来ない事を、私には私にしか出来ない事をする。昨日まではそう思っていた。でも違う。私にしか出来ない事をするんじゃなく、私は私のやるべきことをやるだけだ。