嘘吐きは色恋のはじまり - 3
その後の俺は、夜を待ち遠しく思っていることを店員ちゃんに悟られないよう平常を装って過ごした。そろそろの仕事が終わるであろう時間帯になり、相変わらず不機嫌そうな顔で俺を睨む店員ちゃんを上がらせ、店には俺一人となった。
が店に来る前にいくつかの品を調理する。かに玉、炒青菜、エビのチリソース煮、肉まんなど、どれも店で出しているメニューだ。酒はビールと紹興酒を用意した。デザートも用意するべきかなと考えていると、店の唯一の出入り口である建付けの悪い扉が不快な音を響かせる。
「こんばんは」
扉から顔を覗かせたのは予想通りで、俺はいつも通り客を迎える時と同じ調子で「いらっしゃーい」と言い彼女を出迎えた。はテーブルの上の料理たちを見るなり目をキラキラと輝かせ、嬉しそうに笑う。
「うわあ、こんなにたくさん作ってくださったんですか!ありがとうございます。美味しそう」
「とりあえず座ってよ。いまビール用意するから」
椅子を引いてそこへ座るように促すと、は嬉しそうに体を揺らしながら「はい」と元気に返事をした。俺は向かいの席に腰を下ろす。ビールがなみなみと注がれたジョッキをぶつけあうと、低く鈍い音が俺たち以外に人の居ない店内に響き渡った。はどうやらそれなりに酒が飲める口らしい。
は俺の作ったどの品も全て美味しそうに食べてくれた。青椒肉絲以外も食べて欲しいと思っていたので、やはり誘って正解だったなと実感する。酒と料理を楽しみながら俺たちは色々なことを話した。には好き嫌いがほとんどないこと。が勤める会社のこと。住んでいる場所など、ほとんどが彼女のことばかりだった。
話題は昨日のナンパの件に及んだ。は俺が『はぁい、ストップ』と言った瞬間から俺の声にひっかかりを覚えていたらしい。いきつけの店の厨房から聞こえる声に良く似ている、と。
「へぇ、耳が良いんだねぇ」
思わず関心してしまう。いくら良く行く店とは言え、従業員の声を記憶している人などは少ないだろう。しかしは体の前に両手を出して小さく振りながら「いえいえ」と言って謙遜していた。
「お料理が出来た時に叫ぶでしょ?エビチリ上がったよ!、とかって。その声を良く聞いていましたから。だからあの時も『あれ?』って思ったんです」
の笑顔は柔らかく、ほんの少しだけだらしなく見えた。まるで彼女の周囲だけがふわふわと優しい何かに包まれているように思え、これはきっと酒のせいだなと考える。美味しそうに食べてくれる所も、俺の声を認識してくれている所も、無邪気な笑顔も、全てが好きだなと思った。
自分の思考に驚き、ハッと息を飲む。いま俺はを『好きだなと思った』?思わず瞬きを繰り返し、ぼんやりしていた頭の中をはっきりさせようとしてみるが上手くいかない。
俺のみにくい下心に気付くこともなく、は屈託のない笑顔を浮かべ続けていた。この子には危機感がまるでない。昨日は自分がナンパされていることにも気付かずにいたし、今だって何の疑問も抱かずに男である俺と二人っきりで酒を飲みかわしている。俺が本気になればみたいな子を組み敷くなんて容易いのに。
どこからか電子音が聞こえてきて、俺の卑猥な思考を引き裂いた。その音は昼間に聞いたスマホのアラームと同じで、音を止めたはどこか淋しそうな目で画面を見つめていた。
「もうすぐ電車が終わっちゃうので、そろそろ帰りますね」
いつのまにそんな時間になっていたのかと、店の壁に掛けてある時計で時刻を確認する。がここへ来てから三時間ほど経っており、時の流れの早さに驚いた。
俺は神内駅まで歩いていくというを送っていくことにした。佑天飯店から駅までそこまでの距離はないが、こんな遅い時間に女の子を一人で出歩かせるわけにはいかない。異人通りを歩くのは危険だと判断し、異人細道を抜けて伊勢佐木ロードまで出る。遅い時間帯ではあるが営業している店はいくつもあり、あちこちから店の灯りが漏れていた。伊勢佐木ロードを抜けた正面にある一番大きな横断歩道を渡れば、もう駅は目の前だ。
「今日のメシ、どうだった?」
「全部美味しかったですよ。さすが佑天飯店ですね」
信号が青に変わり、俺たちは会話を続けながら横断歩道を渡り始める。その途中でが小さく「あ」と声を上げた。
「今日頂いた、かに玉。すっごく美味しかったんですけど……、あれをご飯に乗せて天津飯にしたら最高だと思うんです。どうですか?」
「あー、いいねぇ……、炒飯にのっけて、あんかけ炒飯みたいにするのも良いんじゃない?」
「うわ、それ最高です。絶対美味しいやつ」
は味を想像したのか、目を細めながら感慨深いような表情をした。しかし、天津飯という食べ物は日本発祥のため本格的な中華料理店で出すメニューにはそぐわないような気もしてしまう。佑天飯店では同じく日本発祥のエビチリも取り扱ってはいるのだが。
「天津飯は裏メニューってことにしようかなぁ。専用ってことで」
駅に到着し、改札へ向かおうとしている小さな背中に向かって言った。は脚を止めてこちらへ振り向くと、呆然とした顔で俺を見る。目を丸くして、口を半開きにして、ただひたすらに俺を見つめ続けていた。
「ん?どうかした?」
沈黙が数秒間続き、思わず声を掛ける。何かおかしなことを言ってしまっただろうかと心配になった。はまるでたったいま目を覚ましたかのようにハッと息を飲むと、「すみません」と謝罪の言葉を口にする。頬がほんの少しだけ染まっているように見えた。
「いま、名前を呼ばれたので、ちょっとびっくりしてしまって」
俺はずっと心の中で彼女を『』と呼んでいた。しかし、声に出して彼女の名を呼んだのはさっきが初めてだったかもしれないということにたった今気が付く。もしかして嫌がられただろうかと思うも、どこか照れくさそうな表情を浮かべながら自分の頬をさするを見る限り、どうやらそうではないようだった。
「じゃあさ、そっちも名前で呼んでよ。俺のこと」
一歩前に出て、に近付く。手を伸ばせば触れられる距離に居たが、俺はそれをしなかった。
「えっと、……趙、さん?」
俺を呼ぶの声は酷くぎこちなかった。『いやそれ名前じゃなくて苗字なんだけど』と思うも、の様子があまりにも可愛らしかったのでそこには言及せず、ただ「ん」、とだけ返事をした。
「それじゃ、失礼します」
は丁寧にお辞儀をしてから、こちらに背を向けて改札へ向かって行く。あっという間に小さくなる彼女の背中を見ながら、俺は『ああやばい』という言葉を頭の中で繰り返した。
の顔を正面からまともに見たのは昨日。とまともに会話をしたのは今日。それなのにもうこんなにも彼女に惹かれている。いや、『惹かれている』という表現では生温いような気がしてしまう。俺はのことを好きになりかけている。いや最早好きかもしれない。
鉄爪に対し『すぐ色恋に繋げようとする』と非難をしたけれど、結局このざま。今日何度目かわからない自嘲を意味する笑いがこぼれてしまう。
「明日も、会えるかなぁ……」
情けない独り言は、終電間際で混雑する駅の喧騒に吸い込まれて消えた。