嘘吐きは色恋のはじまり - 4
あれから俺とは店で顔を合わせるたびに挨拶を交わし軽い雑談などをするようになった。しかしあくまでトモダチという関係で、最近ではむしろトモダチ以下、知り合い程度の関係なのではないかと思い始めてきた。何故なら俺はの勤務先を知っているわけでも、連絡先を知っているわけでもないからだ。彼女が佑天飯店に来なければ顔を見る事も声を聞くことすらも出来ない。
二人きりで会ったのはあの夜の一度きり。あの後さりげなくを誘ってはみたものの、仕事が忙しくなかなか時間が取れないと断られてばかりだった。いつもの昼時になっても店に現れない日も少なくなかったため、仕事が忙しいというのは本当なのだろう。特に避けられているという心配は必要ないように思えた。
が店に来ない日ははっきり言って憂鬱だった。他のお客さんには申し訳ないと思うが、食事が美味しくなくなってしまうのではないかと思う程の大きなため息が勝手にこぼれ出す。店員ちゃんに「趙サン、コイワズライ、めんどくさい男」と罵られたが、それに反論する気も起きなかった。
ある日の夜。俺はお客さんのいないがらんとした店内をぼんやりと眺めていた。店員ちゃんは先にあがってもらったため店にはいま俺一人しか居ない。明日の仕込みも早々に終わらせたし、もう店じまいにしてさっさと帰ってしまおう。そう考えながら厨房から出てテーブルが並んでいるホールに出ると、出入口の扉が開く音が聞こえた。
「こんばんは。まだやってますか?」
俺が扉の方向に目をやったのとほぼ同時に挨拶が聞こえてくる。そこに立っていたのはいま一番会いたい人、の姿だった。驚きと嬉しさから息を飲みつつ「久しぶりじゃん」と大きな声で言おうとした瞬間に体が固まる。何故ならのすぐ後ろに見知らぬ人物が立っていたからだ。男だった。
「あ、会社の先輩です。おすすめのお店があるって言ったら連れてけって言うので、一緒に来ちゃいました」
俺の表情から察したのか、はその男……、会社の先輩とやらの紹介をしてくれた。男は「どうも、こんばんは」と言いながら愛嬌のある笑顔を見せ頭を下げる。体格が良く、雰囲気がどことなく春日君に似ているような気がした。
「お店、大丈夫ですか?もしかしてもう閉めちゃいましたか?」
「いや、大丈夫だよ。いらっしゃい」
が男を連れて来たという事実に少なからず動揺してしまう。それを表に出さないように努めながら、いつも通りの営業スマイルを見せて挨拶をした。佑天飯店を他の人に勧め、周知させようとしてくれることは素直に嬉しいし、普通に働き普通に生きている彼女が俺以外の男と関りを持っていることなど当然でしかない。しかしそれを直接見るのは面白い気がしなかった。
先輩と呼ばれた男がとても感じの良い好青年だったことも面白くない要素の一つだった。と全く同じように俺の作った料理をどれも美味しそうに食べてくれたし、皿を出せば逐一「ありがとうございます」と挨拶をしてくれたし、食事のマナーも申し分なかった。隣り合って座り、食事と酒を楽しむ二人の姿は誰が見てもお似合いのカップルに見えるだろう。
久しぶりに見たは相変わらずに可愛かった。しかし今日は少なからずメイクが崩れているように見える。俺と食事をするため夜にここを訪れた際にそのような印象は受けなかったが、今日の相手は会社の先輩だからと肩の力が抜けているのかもしれないと勝手に予想する。と男はお互いに気が置けない間柄なんだろう。転職したばかりと聞いていたが、もうそんな関係を築いているのかと素直に関心した。
それにしても俺は一体何を見せられているのか、と率直に思ってしまう。好きな女の子が自分以外の男と楽しそうに食事をしている。しかも楽しんでいるのは俺が作った料理だ。俺の料理を美味しく食べてくれるのはこの上ない喜びではあるが、の隣に居るのは自分であって欲しいという醜い感情が胸に溢れ出す。ああ俺はこんなに嫉妬深かったんだと生まれて初めて自覚した。
二人の肩が触れ合う。一つの大皿を共有する。お互いに顔を見合わせ笑う。自分の中のみっともない感情がマグマのようにふつふつと沸き上がる感覚がして、俺は彼らから目をそらした。厨房に逃げ込み小さく溜息をつく。楽しそうに談笑する声がここまで響いていた。
しばらくした後に二人の姿を確認すると、がテーブルに突っ伏していた。恐らく飲みすぎたのだろう。今日のはビールのみならず紹興酒にまで手を伸ばしていたため、そのせいで酷く酔ってしまったのかもしれない。
「おい、。お前飲みすぎだぞ」
男はを呼びながら小さな肩に手を添えて体を揺らす。俺だってまだの体に触れたことなんかないんだからやめて欲しい。そう思うもとても口になんか出せない。俺はにとってトモダチ、いや、良く行く店の店主という至極どうでもいい関係でしかないのだから、そんなことを言う権利などあるわけがない。
店にある壁掛け時計で時刻を確認すると、神内駅から出る最終電車の時間が迫っていた。男もそれを認識しているのか再度の体を大きく揺らす。
「ほら、もう帰るぞ。電車終わっちまうから起き……」
「趙さん……」
男の言葉の最後を掻き消すかのようにが声を上げた。しかもそれは俺の名で、何故急に自分の名が呼ばれたのか理解出来ず「え」と間抜けな声が漏れた。はテーブルに突っ伏していた顔を上げ、とろんとした瞳で何処かを見る。
「私は、趙さんと、一緒に帰るので、大丈夫、です……」
なんで俺?と疑問を覚えつつも、同時に大きな嬉しさも込み上げた。『私は趙さんと一緒に帰る』。それが酔っ払いの戯言でしかなかったとしても、無意識に口角が上がってしまう。
は再びテーブルに突っ伏し、男は『趙さん』と呼ばれた張本人である俺のほうを見る。そして俺も同じように男を見ると、当然ながら目が合った。男はどこか安心したように歯を見せて笑う。
「あ、じゃあ、お任せしちゃって大丈夫ですか?」
予想外の言葉に呆然とし、何も返答出来なかった。男はテーブルの上にまとまった現金を置いてから立ち上がり、椅子に掛けていたジャケットを小脇に抱える。そのまま流れるように店の出入り口に向かうと、眩しい程の笑顔をこちらに向けながら「めちゃくちゃ美味かったっす!ご馳走様でした!」と挨拶して店を出て行った。
店内はまるで嵐が過ぎ去った後かのように静まり返る。の先輩というあの男は、もしかすると俺が心配するような人ではなかったのかもしれない。彼にとってはあくまで会社の後輩で、それ以上でもそれ以下でもなく、恋愛感情などこれっぽっちも持ち合わせていないのだろう。今日ここに二人で来たのはそれこそ本当にただの食事でしかなかったということだ。それなのに俺はみっともなく嫉妬してしまっていた。
「うっわ……、俺、めちゃくちゃダサいじゃん……」
思わず独り言を呟き、頭に手をやると髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。顔がどんどんと熱くなっていく自覚があった。穴があったら入りたいという言葉はこういう時に使うのだろうと呑気にも感じてしまう。
先ほどからずっとテーブルに顔を伏せたままでいるにゆっくりと近付く。先輩とやらが座っていた場所に腰を下ろし、の顔を覗き込んだ。
「ねぇ……、一緒に帰るってどういう意味?俺、ん家知らないよ?俺ん家に来るってこと?」
恐らく夢の中に居るのであろうに声をかけるも当然ながら返答はない。時折口をもごもごと動かしながらリズムよく寝息を立てている。テーブルに押し付けている柔らかそうな頬がつぶれ、おかしな顔になっていた。
もしいまが目を覚ましたら、勤務先も、家の場所も、連絡先も、全て俺に教えてくれるだろうか。先ほどの先輩とやらをどう思っているのかとか、俺のことをどう思っているのかとか、聞きたいことは山ほどある。見つめられていることも知らずに眠り続けるに問いかけても、答えなど返ってこないということは分かっていた。
「もう、好きだって、言っちゃおっかなー……」
もしもいまが目覚めたとしても独り言だと言い訳が出来るような格好悪い告白。穏やかな寝顔を見つめながら、その白くて丸い頬に手を伸ばす。柔らかく滑らかな肌に指先が触れ、酷く欲情した。もっと触れたい。あわよくばの心に触れてみたい。みっともない感情だけが俺を支配していた。