嘘吐きは色恋のはじまり - 5

 が目を覚ましたらどんな風に声をかけようか。そんなことを考えながら彼女の寝顔を見つめていると、あっという間に小一時間ほどの時間が経っていた。電車などはもうとっくに終わってしまっているし、どうやってを家に帰そうかと考える。それこそ本当に俺の家に連れ込んでしまおうかと不埒なことを考えるも、流石に横浜流氓のシマに連れ込むわけにはいかないだろうと思い直す。

 ああだこうだと考えていると、ただリズムよく呼吸をしていただけのが微かに動いた。ゆっくりと開かれた目が瞬きを繰り返し、テーブルに突っ伏していた上半身を持ち上げる。すぐ隣に居る俺をぼんやりと見つめるその表情は酷く可愛らしかった。

「おはよ」

 テーブルに頬杖をついたまま軽く挨拶をする。は状況が飲み込めないのか眉間に皺を寄せて目を泳がせた後、すぐにきょろきょろと周囲を見渡し始めた。恐らくあの先輩とやらの姿を探しているのだろう。もうここには俺との二人しか居ないというのに。

「先輩なら先に帰したよ。が酔い潰れちゃったから」

 そう言うと、は大きな溜息をついて頭を抱えた。酔いはすでに醒めているようで、「休み明けに謝らないと」「置いてくなんてひどい」などと独り言をぶつぶつともらしていた。あの先輩はを置いて帰ったわけではないため、誤解をされてしまっていることを不憫に思う。

「あの人を責めないであげなよ。『趙さんと一緒に帰る』って言ったのはなんだから」

「……え!?」

 俺は『私は趙さんと一緒に帰る』という言葉をさりげなく指摘した。やはりはその時の記憶がないらしく、酷く驚いた様子で声を上げ、目を丸くしていた。そしてその顔はどんどんと赤みを帯びていく。

「うわ、やだな。そんなこと言ったんですか?私。ほんとお酒って怖い……」

 は自分が赤くなっているという自覚があるんだろう。火照りを冷ますかのように両手をぱたぱたと動かし顔に風を送り始める。そんな僅かな抵抗もむなしく、赤は次第に耳や首のあたりまでどんどんと広がり、色味は強くなっていく。

 つい先ほどまでは『私は趙さんと一緒に帰る』という言葉の真意を訊くつもりでいた。しかし真っ赤に染まったの顔を見ていたら、そんな質問をすることが野暮に思えた。ゆっくりと手を伸ばし、の頬に触れる。予想通りにとても熱くて手のひらが溶けそうだった。

 それこそ本当に穴が開いてしまうのではないかと思うほどに、至近距離での顔を見つめた。まつ毛が長いなとか、こんな所にほくろがあるんだなとか、様々なことに気が付く。の真っ黒な瞳の中に自分の姿が映っているのが見えた。

「嫌だったら抵抗して。じゃなきゃ俺、たぶん、止まんないから」

 両手での顔を包んで顎を持ち上げると、そのまま口唇を塞いだ。手を耳の辺りにまで移動させていやらしく触れ、髪を混ぜる。指先にからみつく柔らかさを感じながら、ああ指輪を外しておけば良かったと後悔した。

 は僅かな抵抗すらも見せなかった。上口唇を甘く噛んでも下口唇を軽く舐めても体を僅かに震わせるだけ。ただ彼女がキスに慣れていないのだということだけは良く分かった。固く閉じられた口唇は何者の侵入も許してくれない。

、口、開けて」

 俺がそう言うと、の口唇が小さく動いた。その隙に隙間から舌をねじ込む。奥の方から「んぅ」という甘く高い唸り声が聞こえて高揚感が増していく。はしがみ付くように俺の腕を掴んだ。

 口唇を解放すると、は大きく肩で呼吸をしながら俺の胸元辺りに額をあててぐったりとする。俺はまるで抱き締めるかのようにの背中に腕を回しながら、髪に口唇を落とした。

「俺、のこと好きかもしんない」

 耳元で囁いてから、ああまた間違えたと思った。『好きかもしれない』ではなく、もうとっくに『好き』なんだ。全ての物事をすぐに色恋に繋げたがる鉄爪を否定してみたり、女を狙っていると指摘してくる店員ちゃんの言葉を流してみたり、そんなことはもうやめよう。自分の気持ちに素直になることなんて簡単じゃないか。

「ごめん、嘘。『好きかもしれない』じゃなくて……、好き」

 髪に埋めていた顔を持ち上げての目を見つめた。相変わらず真っ赤な顔のままで、潤んだ瞳の表面に浮かぶ俺の姿が歪んで見える。一世一代の告白にはいつまでも応えてくれず、もう一度キスをしてやろうかと意地悪なことを考えてしまった。

「ねぇ、返事は?キスを避けなかったってことは、少なくとも俺のこと嫌いじゃないってことで良い?自分に都合よく解釈しちゃうよ?俺」

 先ほどと同じようにの顔を両手で掴み、顔を近付けた。手のひらを通しての体温が伝わってくる。響く心臓の音が自分の物なのかの物なのか分からない。これが告白の答えなのだと分かっていても、俺はの口から聞きたかった。

「私、趙さんのことは、嫌いじゃない、ですよ」

 再び口唇と口唇が触れ合いそうになったその瞬間、途切れ途切れのぎこちない言葉が耳に届く。『嫌いじゃない』という言葉にひっかかりを感じた。

「ごめんなさい、嘘です。『嫌いじゃない』ではなくて……、好き、です」

 はそう言って弱々しく笑った。まるで俺をからかうかのように告白を真似されて思わず眉間に皺が寄る。憎たらしさと愛おしさが胸に溢れ、再び口唇を塞いだ。いま目の前にいるこの女をどうにでもしてしまおうかとすら思ってしまった。

 俺たちは張り紙だらけの壁に背を預け、寄り添って眠った。ぼんやりと目を覚ました時には既に明け方になっており、もうそろそろ始発が走り出すだろうかという時間帯だった。をこのまま駅まで送っていくのも良いし、それこそ彼女が言った通り本当に『一緒に帰る』ことにしても良いかもしれないなどと考える。

「趙さん」

 ふと名を呼ばれた。も俺と同じタイミングで目を覚ましたようで、眠そうに目を細めていた。俺が「どしたの?」と返事をすると、はぼんやりとした視線をどこか遠くに向けた。

「私ね、趙さんを見ていると父を思い出すんです。実はうちの父も昔、中華料理店をやってて」

 はゆっくりと昔の話をしはじめた。の父親が俺と同じように店を営んでいたという話は初耳だった。聞くと、中華料理店と言っても佑天飯店のような本格的な物ではなく、地域に親しまれるような町中華のお店だったらしい。青椒肉絲が好きでそればかり注文してしまうのも、元はの父親の得意料理が青椒肉絲だったからなのだと話した。

「趙さんと一緒にいると、あの頃を思い出して幸せな気持ちになります。私、趙さんの作るお料理、大好きです」

 昔を懐かしむような、愛おしく思うような、そんな穏やかで優しい笑顔を浮かべながらは呟いた。『趙さんの作るお料理が大好き』という言葉は素直に嬉しかったが、『大好き』という言い方が妙に引っ掛かる。そういえば先ほど告白の返事を聞いた時、は俺に『好き』だと言った。『大好き』ではなく『好き』だ。

 そこまで考えたところで思わずフッと吹き出す。人間のみならず今度は料理にまで嫉妬しかけている自分が滑稽で、あまりにもおかしかった。急に笑い声をもらした俺を不思議に思ったのか、は軽く首を傾げながらこちらを見る。



 名を呼んでみる。は「はい」と小さく返事をした。

「俺のことも、大好きって言ってよ」

 自分の欲求を素直に口に出す。は驚いたように目を丸くしていたが、すぐに顔を赤くしこちらから目線をそらすと「それはまた今度」と呟いた。