君だけはそこにいて - 3

 酔った私たちが浜北公園に向かう足取りは、蝶のようにふわふわとしていたと思う。しかし、はっきりとしない視界に入る男性の後ろ姿は酔っ払いの丸まった背中ではなく、どこか哀愁のある寂しげなものに見えた。

 彼は公園に着くなり、真っ先に夜景が良く見える海沿いのベンチに向かい、座る。そして何も言わず自分の隣のスペースをポンポンと手で叩きながら私の顔を見た。つまり“ここに座れ”ということなのだろうと解釈した私は、黙ってそこへ腰を下ろした。

 もうとっくに日付は変わっている時刻だというのに、公園には人が多くいた。しかしその大半は男女のカップルのようで、海を眺めながら肩を抱き合ったり街灯のふもとで見つめあったりしている。私たちが座るベンチには左右同じようなベンチが設置されており、恋人たちが身を寄り添って座っていた。

 気まずい。率直にそう思った。私と彼は先ほど会ったばかりで恋人なんかではないし、それ以前に私は彼の名すら教えてもらっていない。しかしこの公園では、男女二人連れで居れば恋人にしか見えないという状況であった。

「ね、ほら見て」

 ふと、男性が海の向こうを指差しながら小さな声で言う。その方向を見ると、遠くにある高い建物がぼんやりと光っているのが見えた。外側に面している部分に窓が多くあるオフィスビルのようで、まだ人が多く居るのかいくつも光が漏れている。

「あっちの建物も、こっちの建物も光ってる。こんな時間でもまだ働いてる人が居るってことだよね。ブラック企業かなぁ?」

 ケラケラと笑う男性を見ながら、思わず眉間に皺が寄る。恋人たちが溢れる夜の公園で美しい夜景を見ながら話すようなことではないと思ったからだ。だからと言って、私たちは恋人同士でも何でもないし、ロマンチックな話をするような間柄でもないわけだが。

「なに。もっとロマンチックな話ししろって言いたいの?」

 私の心を読んだかの如くに男性が言い、驚いて肩が揺れた。動揺を誤魔化すように彼から目をそらし、再び夜景を見る。窓がいくつも光っている建物。それでもすべての窓がそうなっているわけではない。光の灯っていない窓も、光を放っている窓もある。

 深夜に輝く建物で働いている人たちの出来ること。私は私の出来ること。それを各々しているまでの話。それが“本当にやりたいこと”なのかどうかはまた別の話だが、こんな時間でも働いている人が居るからこそ、私の生活は成り立っていると言っても過言ではないだろう。

「あなたには、……あなたにしか出来ないことが、きっとありますよ」

 私の言葉に、すぐ横で男性が「あ?」と柄の悪い返事をした。彼の反応は分かる。自分でも何を言っているのだろうと思った。

 これは恐らく自分にも言い聞かせる言葉なのだろう。私にはこれといった趣味も特技も資格もないし、なんならお金だってない。言いたいことを我慢して上司や客に頭を下げる毎日の中でも、どこかで思いたかった。“どんな時間でも、どんな状況でも働いてる人が居るように、私には私にしか出来ないことがある”んじゃないかと、思いたかった。

「さっき言ってたじゃないですか。自分はボスに向いてないって。でもあなたはボスになった。他の人には出来ない、あなたにしか出来ないことがあるからボスになったんですよ、きっと」

 ダーツバーに居る時も感じたことだが、彼には人の心を惹きつける何かがある。きっとある。だからこそいまの組織の“ボス”とやらにもなれたのだと思うし、実際私は彼に心をひきつけられていた。会ったばかりで名も知らぬ彼に。

 海を見つめていた目線を男性に向ける。彼はずっと私の顔を見ていたようで、自然と目が合い視線が絡んだ。

「一人で考えすぎてもいけないですよ。周りの人をもっと頼ったらどうですか。仲間、たくさん居るんでしょう?」

 言いたいことを言い終えてから改めて彼の顔を見ると、目を丸くし口を半開きにして呆けているように思えた。その表情になんだか恥ずかしくなった私は俯き、自分の頬に手を当ててそこを擦る。

「生意気に知ったような口きくね、さん」

 耳に男性の低い声が響く。その声色は怒りが混じっているように感じ、思わず伏せていた顔を上げた。しまった怒らせてしまった。そう思い謝罪をしようと彼の顔を見たが、その表情は想像していた物とは違っていた。

「でもそういう考え、嫌いじゃないんだよなー、俺」

 彼はそう言って既視感のある笑い顔をこちらに向けていた。怒らせたわけではなかったという安心感と、彼の無邪気な笑顔にこちらまでつられて笑う。それと同時に妙に心臓がうるさかった。しかしそのうるささと早さを不快には感じない、不思議と心地の良い心音だった。

「あのさ、俺、君に謝らなきゃいけないことがあんの」

 男性はおもむろにベンチから立ち上がり呟く。私は座ったまま“なんのこと?”という意味をこめながら彼を見上げた。

「実はさっきの野球ボール、飛んできただけで当たってなかったんだよね」

「……え!?」

 驚き大きな声を上げながら思わずベンチから立ち上がる。私のその反応が予想通りだったようで、彼は口元を押さえながらクツクツと喉の奥で笑った。

「別に誰でも良かったんだよ。遊びに誘ったら着いてくる間の抜けてそうな奴だったら誰でも。でもごめん。君は全然間抜けなんかじゃなかった。ちゃんとした人だよ、さんは」

 そう言うと、大きな手が私の頭の上に置かれる。撫でるわけでも軽く叩くわけでもなく、ただ頭の上に置かれただけの手。それでも、私には熱く、重くのしかかるように思えた。このままで居たいとすら思ってしまった。

「私は……、“ちゃんとした人”なんかじゃありません。私には、何もありませんから」

 気が付くと意思に関係なく呟いていた。自分にしか聞こえないのではないかというほどに小さな声だったと思う。

 私には何もない。先程彼に言った“他の人にはできない、あなたにしか出来ないことがきっとある”。この言葉は私が自分に言い聞かせたい言葉で、誰かに言われたい言葉なんだ。私は決して彼が思うような“ちゃんとした人”なんかじゃない。

 数秒の沈黙の後、頭の上に置かれていた手が離れ、その後すぐに額を小突かれる。何が起こったのか分からずに混乱していると、男性は私の顔を覗き込みながら再び笑った。

「みんな同じような悩みを抱えてるってことかな?誰も彼もみーんな悩める仔羊だね」

 小突かれた額を押さえると、そこだけが妙に熱い。

 可愛い仔羊なんて私には勿体ない。私は虫だ。なんとなくただ毎日を過ごしているのに、光を求めずにはいられない。暗い世界をふらふらと飛び回るしかない、なんの変哲もない虫けらだ。

「さてと、もう帰るよ。俺、ボスに戻らなきゃいけない時間だからさ」

 私の思考を引き裂くように、男性がその場で体を伸ばしながら言う。まるで時間が過ぎたら魔法がとけてしまう何処かのお姫様かのような口ぶりに少し笑った。

 男性はこちらに背を向け、ゆっくりと公園の出入口へと向かう。その後ろ姿がここへ来る前とはほんの少しだけ違って見えたのは、私の気のせいだったかもしれない。

「……あなたの名前を教えてくれませんか?」

 気が付くと彼の背中に問いかけていた。

 ダーツバーでは「知ったら後悔する」と言われ、彼の名を聞くことを諦めた。しかし今なら聞いても良い気がする。彼が名乗ってくれるかどうかは別として、今なら彼の名を知っても後悔しない気がしていた。いやむしろ、後悔しても良い。

 彼は歩みを止めその場に立ち止まる。こちらに背を向けているためどんな表情をしているかは分からないが、名乗ることをためらっているように思えた。

「……天佑」

 低く、小さな声。それが彼の名だとすぐに気が付いたが、その“テンユウ”という響きに微かな違和感を覚える。

「俺の名前は……趙天佑だよ」

 “チョウ・テンユウ”。何度も何度も頭の中で繰り返す。恐らくは日本名ではなく外国名だろう。はじめこそ違和感を覚えたが、すぐにそんなことはどうでも良くなった。

 名乗ってくれたことにお礼を言おうと口を開いた瞬間、彼、趙さんが振り返りこちらを見る。その目つきは先ほどとは違い、とても鋭く、暗いものに見えた。

「さっさと忘れたほうが身のためだと思うよ。じゃあね」

 趙さんのその目は、私の体を動かなくさせた。自身の足はコンクリートの地面に縫い付けられたように動かなくなる。何故そんな鋭く、暗く、恐怖すら感じるような冷たい目線を送られるのかが分からず、声すらも出ない。私がその場に立ち尽くしている間に趙さんは歩き出し、そのまま姿を消した。

 本来ならば名を聞いた後に「またいつかもう一度会えますか?」などと聞いてしまいたかった。それが、出来なかった。そんなことを口走ってしまったら、「冗談でしょ?」なんて言いながら、笑われてしまう気がしたから。

「……趙さん」

 教えて貰った名を呟く。彼の正体を知ったのは、それから数日後のことだった。