埋もれ木に春が咲く - 4

 クロベェの飼い主はこじんまりとした一軒家に一人暮らしをするおばあさんだった。クロベェを見るなりに名を呼んで泣いて喜び、私たちにお礼を言いながら何度も頭を下げた。

 飼い主の家から本社に戻る帰り道、社長の三歩ほど後ろを歩き、彼の背中を見ながら私は考える。もうそれなりに遅い時間。社長はこれから本社に戻りどうする気なのだろう。

 それよりもまず“採用試験”と称し私を連れ出したはずだったが、試験は合格なのだろうか。クロベェを見つけることがゴールという名の最終的な目的であるならば、私の採用試験は合格と考えて良いのかもしれない。

「なぁ」

 あれこれ考えていた私の耳に社長の声が届き、私は考えを放り出して反射的に「はい」と大きく返事をする。見通しの良い歩道で社長はこちらに振り向き私を見た。逆光になっているため表情が見えづらく、社長の背後には夜の街のネオンが輝いている。

「悪ィが試験は不合格だ。あんたをウチで雇うわけにはいかねぇ。諦めてくれ」

「え?」

 予想していたこととは正反対の言葉を浴びせられ、私は思わず間の抜けた声を出した。社長はそれだけを言うと再びこちらに背を向けゆっくりと歩き出す。

「ちょっと待ってください!」

 混乱しつつも小走りで近づき、社長の腕を掴んだ。しかし彼は私に触れられる予想をしていなかったのか、ひどく驚いた様子で手を振り払う。眉間に皺を寄せながら目を見開いている表情は動揺を顕著に表しており、それを隠すようにすぐに元の無表情になる。

「私、お茶くみでも雑用でもなんでもやりますから、働かせてください。お願いします」

 口にしながら、何故こんなに必死になっているのだろうとまるで他人事のように思った。今までずっと再就職先を探してはいたものの、ここまで必死になることはなかった。だんだんと消えていく貯金と、だんだんと増えていく不安を、ただ漠然と何とかしたいと思っているだけだった、

 でも今は違う。私は一番ホールディングスで働きたい。劣等感や不安、なにもかもがこの会社に居ればなくせる気がした。そして何より私は18年ぶりに再会した一番の傍に居たいという想いが強かった。

 すがるように社長のジャケットの裾を軽く掴む。腕を掴まなかったのはまた同じように振りほどかれるような気がしたからだ。社長は目を細め、険しい顔でこちらを見下ろす。

「やっぱりお前は、俺の近くに居ちゃいけねぇんだよ」

 何を言われたのか分からず、何も言い返すことが出来なかった。社長は眉間に寄せていた皺を消し小さくため息をつくと、こちらから目をそらしながら、まるで独り言のように話し始める。

「お前にとって俺ぁ、きっと疫病神みてぇなもんだ。俺はお前に厄介事を呼んで危険な目に合わせちまうんだよ。だから、ウチでは雇えねぇ」

 疫病神?厄介事?ますます訳が分からなくなり、困惑から口唇が震え出したのが自分でも分かった。社長の大きく高い鼻が夜の灯りに照らされて光る。

「なにを……仰ってるのか、私には分かりません」

 小さな声だったように思う。裾を掴んでいる手から力が抜け、そのタイミングで社長はジャケットの襟を正しながら私の手を振りほどいた。

「分かるだろ。今日だって俺はお前を危険な目に合わせちまった。茶々丸ん時とおんなじだ」

 社長が私の名を呼ぶ。そして同時に茶々丸という、久しぶりに聞いたその名に心臓が跳ね上がった。まさか。そう思いながら社長の顔を見ると、悲しそうな、哀れなものを見るような表情で私を見つめている。

「気付いてたの……?わたしが、“ちび”だって……?」

 呼吸が上手く出来ず、スムーズに言葉が出て来ない。目の奥が熱くなってきて視界が歪み出す。泣くべきではないと分かっているのに、我慢できなかった。

「……当たり前だろ。顔を見た瞬間にちびだって分かったよ」

 一番の表情が確認できないほどに視界がぼやけて、自分の目から涙が溢れていくのが分かる。頬に涙が伝っていく感触が妙にくすぐったく、片手で押さえると手の平が涙で濡れた。

 自身の頭の上に何かの感触がする。それは一番の手のひらで、涙を流す私を慰めるように頭に手を置き髪を優しく撫でた。18年ぶりのその行為に私の目からは涙の量が増える。

「お願い一番。私、どうしてもあなたの会社で働きたい……」

 まるで溺れているかのような情けない声で必死に訴える。一番は何も言い返してはこなかったが、私の髪を撫でる手の動きは止まっていた。

「もう危険なことに首を突っ込まないようにする。ちゃんと仕事もするし貢献もする。だからお願い、……お願いします」

 拭っても拭っても溢れてくる涙を諦め、ぐしゃぐしゃであろう顔のまま一番を見上げた。歪む視界でかろうじてわかるその表情は、先ほどと変わらないままの悲しそうな、哀れなものを見るような顔だった。

「……勝手にしろ」

 一番は私の頭から手を退けると、こちらに背を向け再び歩き出した。そのペースは速く、私は涙で濡れ切った頬を手の甲で拭いながら、小さくなりかけた一番の背中を小走りで追いかける。

「昔は聞き分けの良いガキだと思ってたけどよ、随分と性格が変わったみてぇだな」

 一番はまるで独り言のように呟き、こちらをちらりとも見ることなくただ歩き続ける。“聞き分けの良いガキ”。“随分と性格が変わった”。彼の言葉の意味を考えないようにしながら、その背中を必死に追いかけた。

 採用試験は“一応”合格となり、私は一番ホールディングスで働けることとなった。仕事の内容は主にデスクワークばかりだったが、以前の職場でも似たような業務をしていたので慣れるまでに時間はかからなかった。

 一番ホールディングスには社長室というものがなく、社員の鎌滝さんと社長のデスクは同じ部屋にあり、私のデスクは鎌滝さんの隣に設置された。つまり、私の作業スペースすぐ右斜めには社長のデスクがあり、その姿をいつでも見れるということだ。

 しかし、社長の姿を本社で見かけることはほとんどなかった。私が鎌滝さんに顧客データの管理や電話の応対など、様々な業務を教わっている間も社長の姿を本社で見かけるのは稀で、ここ最近で私が社長と交わした言葉は鎌滝さんが留守にしていた時に「えりちゃんは?」「いまは外出中です」という会話のみ。

 なんとなく分かっていた。一番は私との関係を鎌滝さんや他の誰かに知られたくないのだと。刑務所に入って前科持ちだということは隠す気がないらしいが、私との過去はもうすでにないものとし、“ただの新入社員”として扱う気なのだろう。

 悲しくない、と言えば嘘になる。けれど仕方のないことなのかもしれないと自分を納得させた。今がどのような状況であれ、18年間ずっと会いたいと思っていた人物が目の前にいるのだ。私は一番の傍に居られるのならそれだけで良かった。

 私が一番ホールディンングスに採用されてから数日経ったある日のこと、いつものように社長は不在で、私の隣で鎌滝さんが不機嫌そうに口を尖らせていた。鎌滝さんは普段からあまり怒ったりはしないが、こうして口を尖らせたり頬を膨らます仕草をしたり、少し子供っぽく可愛らしい部分が垣間見えることがある。

「んもう、春日さんってばまた来ない……!」

 鎌滝さんが独り言のように呟き、ふんと鼻を一息鳴らす。聞くと、社長の耳に入れておきたい話や目を通して欲しい書類が山のように溜まっているらしく、前々から「今日は出社して一日本社に居る」という約束を交わしていた日らしかった。

 鎌滝さんは自身の腕時計に目をやりつつ「まだ寝てるのかなぁ」と呟く。私も同じようにデスク上の置時計を見たが時刻は午前9時過ぎ。一般的な社会人の平日であれば間違いなく起きている時間ではあるが、社長を“一般的な社会人”と呼ぶのは間違っているような気もする。

「あ、そうだ」

 何かを思いついたのか、鎌滝さんがどこか嬉しそうに言う。私は彼女のその表情に嫌な予感がした。

さん、春日さんの家に行って起こしてきてくれませんか?」

 その予感はどうやら的中したようだ。急なその提案に心の中では、なんでそうなるのと声を上げたが、新入社員という立場上は先輩にそのような口をきくことは出来ず、ただ驚くことしか出来ない。

「今後も似たようなことがあるかもしれないし、社長の家を知っておくのに良い機会ですよね。私ったらナイスアイディア!」

 鎌滝さんは自画自賛をし、嬉しそうに笑いながら軽く手を叩いて喜ぶ。そしてすぐにデスクに置いてあったメモ帳を一枚破り取り、そこにガサガサと何かを書き始めた。

「これ、春日さんの家までの地図です!よろしくお願いします!」

 メモ帳を差し出され反射的に受け取った。そこには簡単な地図と電話番号が書いてあり、番号は鎌滝さんのものか社長のものかは分からない。しかし今はそんなことどうでも良かった。私に拒否権なんかない。それは目の前にいる鎌滝さんの笑顔が物語っていた。

「わかりました……」

 力のない返事をし、上着を羽織って本社を出る。強い重力がかかっているかのように足取りは重かった。

 渡された分かりにくい地図の通りに向かうと、その場所はとても“大手企業の社長の自宅”とは思えないほど寂れていた。

 川沿いにいくつかたたずむ小さな建物。その中のひとつが社長の自宅らしく、何かの店舗をリフォームしたようで正面に見えるガラス戸の屋根部分には店舗名であったのであろう『七福』という文字が残ったままだ。

 本当にこの場所で合っているのか不安になりガラス戸から中を軽く覗き見ようとするも、薄暗くてなにも見えない。不用心にも戸に鍵はかかっておらず、とりあえず少し開けて隙間から声をかけることにした。

「社長、いらっしゃいますか?あの、私……、です」

 予想通り返事はない。地図が間違っていたのだろうかと思ったが、戸から覗き込んだ内部には土間がありそこに社長がいつも履いている革靴が乱雑に脱ぎ捨てられているのが見える。ここが社長の自宅だということは間違いなさそうだった。

 戸をゆっくりと音をたてないようにしながら開け、中に入る。靴を脱いで揃えると脱ぎ捨てられていた社長の革靴も同じように横に揃えた。土間を上がるとすぐに二階に上がる階段があり、狭い一階部分に人の気配は感じない。

 迷いなく二階へ続く階段を上がる。階段は短くすぐに部屋の扉が見え、この中に居るのだろうかと考えた私は軽くノックをした。しかし反応はない。

 ため息をつきつつドアノブに手をかけてゆっくりと扉を開けた。部屋の中は薄暗く湿っぽい。窓にカーテンはなかったが、日当たりの悪さでまるで気にならなかった。

 狭い部屋の真ん中には薄っぺらく見える布団がしいてあり、その上に社長が寝ていた。いつものスラックスは履いていたが何故か上半身は裸で、私は思わず目をそらす。男性の裸などはあまり見慣れていないため驚き緊張した。

「社長……、あの、起きてください」

 社長から目をそらしつつ声を掛けるも、その声は届いていないのか目を覚ましそうにない。恐る恐る顔を見ると瞼はかたく閉じられ、半開きになった口元からすぅすぅと寝息がもれている。久しぶりに一番の顔をまじまじと見たため、胸が苦しくなるような感覚がした。

「なんで裸で寝てるの。風邪ひくよ」

 どうせ私の声など届いていないだろうと思い、敬語をやめて昔のように語り掛ける。すぐ横に跪き、そっと一番の肩の辺りに触れると肌は硬くひんやりと冷たい。

 広い額に太い眉。彫りの深い目元に高く大きな鼻。そして自然と半開きになっている口唇に目が行く。心の中で“彼が好きだ”と何度も呟く。しかしそれが声になることはない。

 こんなのは最低だ。卑劣だ。眠っていて何も知らない相手にするようなことじゃない。たとえずっと長い間想っていた相手でも許されることじゃない。そう分かっていても止められなかった。

 一番の口唇へ吸い寄せられるように自分の口唇を重ねる。ただ触れるだけのそれはまるで子供がするキスのようで、あの日の自分と彼の姿を強く思い出させた。