埋もれ木に春が咲く - 5

 本当は一番に目を覚まして欲しいと思った。目を開いて、私にキスをされたと知って、私の気持ちに気付いてくれれば良い。どこかでそう思っていた。しかし彼は私のキスで目覚める気配もなく、口唇を離しその顔を見つめてもまぶたが持ち上がることはない。

 私は何をしているんだろう。そう思うのと同時にひどい自己嫌悪に襲われる。眠っていて抵抗も出来ない相手にこんなことをするなんて最低だ。そんな風に強く後悔したとしてももう遅い。

 未だにすぅすぅと寝息をたてるだけの一番を目の前にして私はため息をつき、立ち上がろうと床に手を着いた瞬間だった。仰向けになっている一番の手が素早く動き私の手を掴み、強く引かれバランスが崩れそうになる。

 何が起きたのか分からず軽くパニックになりながらも、どこか冷静に考えた。一番は目が覚めていた?それとも今のキスで本当に目を覚ましてしまったのだろうか?しかし彼の顔を見るもその目は固く閉じられたままで、寝息も変わらずに聞こえてくる。もしかして夢でも見て寝ぼけているのかもしれない。

「しゃ、社長。私、です。鎌滝さんに頼まれてあなたを起こしに……」

 そこまでを口にした所で、一番の腕に強く引き寄せられた私の体は完全にバランスを失い、そのまま上に覆いかぶさるように倒れ込んだ。

 鼻が一番の胸のあたりにぶつかり、彼は上半身が裸の状態だったため、肌の感触がダイレクトに伝わってきて息が止まりそうになる。頭の中はパニックどころか真っ白だった。そんな私に追い打ちをかけるように、背中に一番の太い腕がまわり優しく抱きしめられる。まるで抱き枕だ。

 何が起きているのだろう。ただその考えだけが頭の中をぐるぐるとまわり、体が動かない。私を抱きしめる一番の腕を振りほどいて立ち上がることなど造作もないことかもしれない。それなのに何もできなかった。

 この体勢では一番の顔が見えないため、彼が寝ぼけているのか目を覚ましているのかも分からない。恐らく前者の寝ぼけている可能性の方が高いような気はするし、妙な期待をするだけ無駄だろうと考える。

「……

 耳元で名を呼ばれ、私は腕の中で身じろぎするとほんの少しだけ目線を上げて一番の顔を見る。その時、まぶたが細かく震えほんの少しだけ目が開き、微かに見える黒い瞳と視線が絡み合った。

 一秒、二秒と時が経ち、お互いの顔を見つめあっていると、一番は細めていた目をだんだんと大きくしていき、眉間に皺を寄せ何度も瞬きを繰り返す。そしてやっとこの状況を把握したのか、それこそ本当に目玉が飛び出るのではないかというほどに目を見開いた。

「うわ!!」

 大きな叫び声が部屋に響き渡り、背にまわされていた腕が離れていくのと同時に、一番は私の体を押しのけ後ずさりをする。私は床に体を打ち付けつつ、まるで恐ろしいものを見て怯える人かのような一番の姿に少なからず傷ついた。

「テメ……なにしてんだ俺の家で!」

 まるで喧嘩の相手を威嚇するかのような怒鳴り声を浴びせられる。いや抱きしめて来たのはそっちでしょうと反論しそうになるも、そもそもこんな状況になってしまったのは眠っている一番にキスをするという最低な行為をしてしまった自業自得の結果なのだと思い直した。

「あの、私、鎌滝さんに社長を起こしてくるように言われて……それで、来たんです」

 声が震えているのが自分でも分かった。抱きしめられた腕の感触がまだ体に残っているせいでもあり、一番の表情と大声が恐ろしかったというのもある。ただこの場から逃げ出したい。消えてしまいたいという思いだった。

 私の様子を察したのか、一番は困惑しているような顔で何度も瞬きを繰り返し、最終的には頭を抱え込むようにして額に触れると軽く唸る。

「……悪ィ……。寝ぼけてたみてぇだ」

 その声は細く弱々しく、私に対して本当に心から申し訳ないと思っているように聞こえた。本当に悪いのは彼ではなく私であるのに。しかし“眠っているあなたにキスをしました”だなんて口が裂けても言えそうにない。

 もし一番が本当に寝ぼけていたとするなら、何故私の名を呼んだのだろうか。私を誰かと重ね合わせていたのだろうか。もしそうならその誰かとはいったい誰なのだろうか。想像すると少しだけ胸が痛んだ。

 一番が支度をする間、私は外で待つことにした。家のガラス戸の前に立ち、通りを眺める。もうすでに通勤の時間帯は過ぎているため人通りは少なく、しんと静まり返っていた。

 さっさと本社に戻りたい。そう思っていると、道の向こう側から一人の女性がこちらに近づいてくることに気が付く。女性はそれなりに歳を取っているように見えたが、短めの髪は金髪で、スカジャンを着こなすその姿はとても若々しく見えた。

「なんだいアンタ。もしかして一番の女かい?」

 いきなり言われ、驚き何も言い返せない。どうやら一番の知り合いのようで、ニヤニヤと笑いながら懐から煙草を取り出し火を点ける。私は彼の女なんかじゃない。そう思っているのに声は出ず、女性は私の頭からつま先までを舐めるように見た。

「フーン。ちょっとばかし地味だけど、なかなかじゃないか」

 女性はどこか嬉しそうに笑って言うと、煙草の煙をふぅと一息吐き出す。周囲の空気が白く濁り、私が軽く喉を鳴らした時、背後にあるガラス戸が音を立てて開いた。

「オイ浜子さん、なにうちの社員に絡んでんだよ」

 声の主は一番で、気だるそうに首を曲げ骨を鳴らしながら出てくる。“浜子さん”と呼ばれた女性はどこか残念そうな様子で私と一番を交互に見た。

「なんだこの子、アンタの女じゃないのかい」

「違ぇよ。こいつはただの部下。俺んとこの社員だよ」

 女性は眉間に皺を寄せ、目を細めて私の顔を見た。私は彼女と目を合わせることが少し怖く、思わず目をそらす。

「フーン、社員ねぇ……」

 まるで独り言のように女性は呟いた。先ほどの表情とその言葉は妙に意味深で、早くこの場を去りたいと思うほどに居心地が悪くなる。

 すると背後から「ほら、行くぞ」という一番の声が聞こえ、振り向くと彼は既にこちらに背を向け歩き出していた。私は女性に軽く会釈をし、すぐに一番を追いかける。背中に女性の目線が突き刺さったが気にしないふりをした。

 社長の自宅のすぐ横にある橋を渡り、広めの通りに出る。このまま左に行けば鶴亀街道に出るため、そこでタクシーでもつかまえ本社に向かうのだろうと予想した。早足で歩く社長の三歩ほど後ろを歩き、その背中を見つめる。

「なぁ」

 こちらに振り向くことなく歩き続けながら社長が声を上げた。反射的にすぐ「はい」と返事をすると、数秒の沈黙が流れる。

「さっきのことだけどよ……」

 “さっきのこと”。大きく心臓が跳ねた。その話題には触れて欲しくなかったという気持ちと、触れてもらえたという正反対の気持ちが頭の中で混ざり合い、めまいのような感覚がする。社長は次に言う言葉を考えているようで、歩くペースが若干落ちていた。

「あの!」

 予想よりも大きな声が出てしまい、自分でも驚く。目の前を歩く社長は歩みを止めたが、こちらに振り向くことはなかった。

「私、大丈夫です。気にしてません。すぐに忘れます。……忘れますから」

 まるで自分にも言い聞かせるような言葉だった。そんな風に言ったところできっと忘れられないだろうと自分でも分かっているくせに、それでも先程のことは忘れなければならないと思った。触れた口唇の柔らかさも、背中にまわされた手の熱さも、私の顔にぶつかった肌の感触も、私の名を呼んだ声の低さも、すべてを。

「……そうかい」

 社長は小さくそれだけを呟くと、止めていた足を動かし再び歩き出す。最後までこちらに振り返ることはなく、私たちの目が合うこともなかった。