埋もれ木に春が咲く - 3
店を出た後、鎌滝さんは私を大きなオフィスビルに連れて行った。中華街からほど近い場所にあり、外壁にはガラス窓が多く高級感のあるビルに見える。とても高い建物だったので「御社は何階ですか?」と尋ねると、鎌滝さんは少し自慢げな様子で笑って見せ、ビルの案内板を指差して言った。
「この建物はほとんどうちが持ってるんですが、私が勤めてるのはここです!」
鎌滝さんが指差したそれは、オフィスビルに良くある何階にどの会社が入っているかの案内板で、ビルのエレベーターホールに設置されていた。彼女が指差したのは一番上の欄で、私は眉間に皺が寄る。
「一番……ホールディングス……?」
そこに書かれていた社名を呟く。鎌滝さんは恐らく今から行く場所がビルの最上階であることを私に知らせたかったのだろうが、私はその社名のほうに気を取られた。当たり前だ。その名前がいま会いたい相手である『春日一番』と同じだったのだから。
「さぁ、行きましょう」
固まる私に気付くこともなく、鎌滝さんがエレベーターの呼び出しボタンを押す。ほどなくして扉が開き、二人で乗り込んだ。
何を動揺しているんだろう。人名として『一番』というのは珍しい気がするが、社名や何かの名称としての『一番』は珍しいことじゃない。それは今までの人生で何度も見てきたし、もう分かり切っていることじゃないか。動揺した心を落ち着かせるために一度軽く頭を振る。エレベーターは最新式なのか、あっという間に私たちを最上階へと連れて行き、音もなく扉がゆっくりと開いた。
それにしてもこんな大きなオフィスビルのほとんどを持っているなんて相当大きな会社だなと今更ながらに思う。エレベーターの扉は直接社内と繋がっているようで、すぐ目の前に絨毯張りの床が広がっている。正面には大きなガラス窓があり外の景色が良く見えた。
窓際に置かれた社長用であろうと思われる大きな机と椅子が目につく。椅子は窓のある外側方向へ回っており、こちらに背を向けていたため社長の顔は見えなかった。
「社長ー!ただいま戻りましたー」
鎌滝さんが声を張る。しかし返事はなく社長がこちらを向く事はない。鎌滝さんは口をとがらせながら、足早に社長の机へと近づいた。
「もう、また寝ちゃってるんですか?お昼ごはんの後に眠くなるのは分かりますけど……」
鎌滝さんはそう言いながら社長の椅子に手をかけると、窓に向いていたそれをくるりとこちらに回す。社長はどんな方なのだろうと少し緊張しながら、私は頭をさげるため軽く低姿勢を取った。
その時の私は、すでに『一番ホールディングス』という社名は頭の中から消えていた。もしかしたらこの会社で雇ってもらえるかもしれない。無職から抜け出せるかもしれない。そんな希望と期待でいっぱいだった。
「悪ィ……あと5分……」
社長はまるで寝言のように呟き、こちらへ顔を向けた。頭を下げようとしていた私は上目遣いでその顔を見て、息を飲む。
眠そうな表情ではあったがはっきりとした顔立ちで、その目はとても大きいのだろうと容易に想像出来る。半開きの口元には髭をたくわえており、何より特徴的なのはボリューム感のあるアフロのような髪型。
歳をとっても、髪型が変わっても私には分かる。一番だ。いま私の目の前にいる人物は、春日一番だった。
「さん。この方がわが社の社長、春日一番さんです」
鎌滝さんはそう言って、社長の紹介をする。『初めまして、わたくしと申します』。『先ほどこちらの鎌滝さんにお会いしまして、社内の見学をさせて頂けるということで参りました』。考えていた挨拶の定型文が口から出る前に頭の中から消えていく。
これは夢だろうか。もしくは再就職活動に疲れ切った私の心が見せた幻かもしれない。目の前に18年間ずっと会いたいと思っていた人物が居る。眠そうな顔で、何度も瞬きをしながらこちらを見ている。あの日と全く変わらない瞳で。
固まったままの私に助け舟を出そうとしたのか、鎌滝さんは社長の前に身を乗り出すと叫ぶようにして言う。
「春日さん、この方をうちで雇いたいと思ってるんですが、どうでしょうか!?」
何故か自信満々に言う鎌滝さんに、当然社長は目を見開いて驚き、浅く座っていた社長椅子から立ち上がった。
「お、おいおい、ちょっと待ってくれよえりちゃん。いきなりそんなこと言われてもな……」
「いいじゃないですか!わが社には猫の手も借りたいほど忙しい業務だってありますし、それに私、困っている彼女を放っておけないんです」
「こ、“困ってる”ぅ……?」
社長は目を細め少し怪訝そうな表情でこちらを見る。目が合い、顔をまじまじと見られた時に私はやっと気が付いた。彼は私が“ちび”であることに気付いてはいない、と。
それは無理もないだろう。あの日から20年近くも経っていて、私ももうすでに三十路手前。背も伸びたし体重も増えた。体型も顔つきも何もかもが変わっているのだから、気付くはずなんかない。そんなことは当たり前なのに。当たり前で当然なのに、何故か胸が苦しくて仕方がなかった。
「あーっと……あんた、名前は?なんてんだ?」
社長は後頭部をかきながら、控えめに私に名を訪ねる。本来であれば会社の社長などという目上の立場の人には自分から名乗らなければならないはずなのに、この時の私にはそんなことを考える余裕などはなかった。
いま名を口にすれば一番は私のことを思い出してくれるだろうか。一番は私のことをずっと“ちび”と呼んでいたから本名なんて記憶に残っていないかもしれない。可能性は薄い。それでも願わずにいられなかった。私のことを思い出してくれることを。私のことを覚えていてくれることを。
「……、、です」
すべてを言い切ったあと社長の顔を見た。彼は顔色ひとつ変えずに小さく鼻でふぅとため息をつくと手を差し出す。それが“握手を求めている仕草”だと分かった私は無意識に社長の手を握り、握手をした。
「ま、とりあえずは採用試験、といくか」
社長はそう言うと歯を見せて笑う。その笑顔で確信した。社長は、一番は、私のことなどもう覚えていないのだと。
採用試験と聞き、私は何か特別な面接やテストをするのかと身構えたが、社長は本社に留守番役として鎌滝さんを置いていくと、そのまま外へ出る。その背中に黙って着いて行くと何故か気が付いた時には浜北公園の出入口に居た。
今日はとても良い天気で気温も丁度良く、太陽の光が海面に反射してキラキラと輝いている。ああ、こういう日に公園を散歩するとか最高だよね、などと考えていると、自分のすぐ隣にいた社長が何かを私に差し出した。
反射的に差し出されたものを受け取る。それは一枚の写真で、しっぽが長く真っ黒でとても美しい猫が写っていた。猫はとても可愛い。でもこれがなんだと言うのだろう。社長の意図が分からずに顔を見上げると、彼は眉間に皺を寄せて言った。
「出来れば今日の日没までにこの子を見つけてぇんだ。悪ィけど手伝ってくれ。名前は“クロベェ”だ」
「……は?」
思わず間の抜けた声が口からこぼれる。そんな私を気にすることもない様子で、社長は公園内に入りそのまま奥へと進んでいってしまった。その背中を慌てて追いかけながら私は声を張り上げる。
「ちょっと待ってください。どういうことですか?」
私の声に社長の歩みが止まり、こちらにゆっくりと振り向いた。その顔に笑みなどのプラスの感情は見受けられず、むしろ怖い顔に思えた私は少しだけ身構える。
「俺んとこに来た猫探しの依頼だよ。こういう細けぇ仕事も地域のためになるから請け負ってんだ」
すぐ近くにあった公園内に設置されているゴミ箱の中を覗き込みつつ、社長は話し始めた。
一番ホールディングスという会社は、一番製菓を軸として様々な店舗を買い取り事業を行ってはいるが、社長はその傍ら、異人町の地域の方たちの細かな依頼などを請け負う、いわゆる“便利屋”のようなこともしているらしい。その内容はごみ拾い、人探し、ペットの捜索、チンピラの成敗や用心棒など多岐に渡り、ホールディングスとしての業務は鎌滝さんに任せている部分も多くあるのだと言う。
「ほら、あんたもボーッとしてねぇで一緒に探してくれよ」
木の影を覗き込みながら社長が言う。私はハッとし、先ほど受け取った猫、クロベェの写真をまじまじと見た。改めて見るととても美しい猫だ。ピンと立った耳に黄色の大きな目。黒く光る毛並みはとても手触りが良いのだろうなと感じる。
「クロベェはこの浜北公園が大好きらしくてよ。飼い主さんがここに絶対居るって聞かねぇんだ」
飼い主さんの言いたいことはなんとなく分かる。浜北公園を出たすぐの所には大きく太い道路があり、車の往来も激しい。公園の外に出るのはとても危険だし事故に遭っていてもおかしくはないため、“公園内に居る”というよりは“公園内に居て欲しい”ということなのだろう。
そしてタイムリミットは日没まで。クロベェは黒猫のため陽が沈み辺りが暗くなれば見つけにくくなってしまうだろう。公園内に街灯も設置されているがその明かりでは心元ない。
私は社長に背を向け反対方向へ走り出す。同じ所を探しても意味はないと考え、とりあえず公園内で一番草むらや影の多い場所から探そうと考えた。
「クロベェー!クロベェどこにいるのー?」
大きな声でクロベェの名を呼ぶ。周囲にいる人たちに変な物を見るような目線を向けられたが、そんなことは気にしていられない。時刻は既に正午を回っており日没までに余裕があるわけではない。
大きな木の影、公園内に設置された公共トイレの裏、草むらの間、ベンチの下、自動販売機の隙間……。様々な場所を探すもクロベェは見つからず、あっという間に陽が沈みかける時間に差し掛かっていた。
「どこにいるんだろ、クロベェ……」
なんとなく独り言を呟いた時だった。自分がいま居る所から少し離れた場所に設置されているベンチに男性が3人ほど一緒に座っていた。その中の一人が小さな猫を抱えている。真っ黒でとても美しい猫。
まさか、と率直に思いながらも、落ち着いてゆっくりと男性たちに近づく。黒猫を抱く人の左右を挟むように二人が座っており、三人で一緒になって黒猫にじゃれてとても楽しそうな雰囲気だ。
もしかしたら男性が飼い猫を公園に連れ出したのかもしれない。そう考えながらさりげなく近くまで寄り黒猫を観察する。ピンと立った耳、黄色の大きな目、黒く光る美しい毛並み。それはどれも先ほど写真でみたクロベェそのものだった。
「あの、すみません……」
何の考えもなしに問いかけてしまい、しまったと思う。男性たちの目線が一気にこちらに向き、私は恐怖を感じた。何故ならその男性たちの見た目があまり柄の良い感じには見えなかったからだ。人を見た目で判断するのは良くないとは思いつつも、声が震えてしまう。
「あ、その……、その黒い猫ちゃん、あなたが飼ってらっしゃるんですか?」
私の問いかけにクロベェらしき猫を抱いた男性はフン、と軽く鼻を鳴らす。
「ちげーよ。いまそこで拾ったの。捨て猫とかメッチャかわいそーじゃん?だから俺ん家で飼おうと思ってさァ」
“拾った”。その言葉で猫がクロベェであると確信した。男性はクロベェの喉のあたりをくすぐるように撫で、クロベェもそれにゴロゴロと鳴いて答える。随分と人懐っこい猫のようだ。
「あの、その子、捨て猫じゃないんです。クロベェって名前で、いま飼い主さんが探してて……」
事情を説明しようにも、未だ薄まらない恐怖でほんの少し声が震える。しかし男性はそんな私に感づいたのか、ベンチから立ち上がりゆっくりとこちらに近づいてくる。睨むような目つきをしており、威嚇の意味があるのだろうなと思った。
「うっせーんだよテメェ。この子はもう俺の子なの。ペットショップで買うと猫って高ぇだろ?タダでこんな綺麗な猫が手に入っちゃった俺ってラッキーだよなァ」
“ペットショップで買うと高い”、“タダで手に入った”、とんでもない言葉が聞こえてきて耳を疑う。一つの小さな命を預かる覚悟がある人間の発言にはとても思えなかった。
「あなた……、最低です。クロベェを返して」
体が震えるほどの怒りが胸を満たしていき、気が付けば無意識にその言葉を口にしていた。猫を抱いた男性は私が強く反論するという予想をしていなかったようで、少し驚いた様子で眉間に皺を寄せた。そしてすぐに左右両隣に居た男性とそれぞれ目を合わせると、顎で私の方を差す。
「あんたさァ……何様なの?文句あるんならその“飼い主サン”でも警察でも何でも呼んでみろよ?あ?」
猫を抱く男性の左隣に居た男性が、鬼のような形相でこちらに近づき、私の胸倉を掴む。近づけられた男性の口元からは強い酒のにおいを感じ、どうやら相当に酔っているようだった。
「俺さ……女だからって容赦しねェぜ?痛い目に会いてェの?なぁ?」
足が震えその場から逃げ出すことも出来ない。呼吸が上手く出来ず声を上げることも出来ない。目の前に居る男性の恐ろしい表情を見ながら、あれ?私なんでこんなことしてるんだっけ?とぼんやり思う。
そういえば昔、神室町でもこうして酔っ払いに絡まれたことがあった。その時も同じように猫を探していた。シエスタというバーで飼われていた茶々丸という猫を。
「彼女を放せよ」
低い声に空気が震えたような気がした。そして私の背後から手が伸びて来たかと思うと、私の胸倉を引いていた男性の腕を掴む。強く力を入れたようでミシミシと骨が軋むような音が微かに聞こえ、男性は「う!」と大きな唸り声を上げると同時に、胸倉から手を離した。
支えを失った私の体はバランスを崩し少しふらつく。するとすぐに肩に手が伸びてきて、その支えにより上手く立つことが出来た。振り返り手の主の顔を確認する。
私にはその人物が誰か分かっていた。先ほどの声も、私を助けてくれたこの手も、ふり返って見たその顔も、全て一番のものだった。
「テメェらその猫を置いて、失せろ。じゃなきゃテメェもその後ろのお仲間サンも、全員病院に行くことになるぜ」
唸るような低い声と、今にも食い殺されそうなほどの狼のような恐ろしい形相に男性たちは怯み、少しずつ後ずさりを始める。男性の腕から猫がスルリと逃げベンチに着地してニャオ、と一鳴きしたと同時に、男性たちは私たちに背を向けてその場から逃げ出した。
安心し、体から力が抜けていくのが分かる。私の肩を支えてくれていた一番の手をすり抜け、その場にへたり込んだ。
「おい、大丈夫か?」
一番の声は先程とは違いひどく優しく、私を心から心配しているものなのだということが良く分かった。
私はあの頃から何一つ変わってはいない。18年ぶりに一番に会えたのに、何もできずに、何も言えずにいる。今だってそうだ。お礼の言葉も謝罪の言葉すらも。
“ずっと会いたかった。あなたに会うことをずっと夢見ていた。ずっと、あなたが好きだった。”
そんなことすらも、口に出来ずにいる。