埋もれ木に春が咲く - 6
いつもと何ら変わり映えのない朝。誰よりも早く出社し部屋を軽く掃除していると鎌滝さんが出社してきて、いつも通りの笑顔で私に「おはようございます」と挨拶をした。それに返事をし、二人で業務を開始する。その日も当然のように社長の姿は見えず、お昼ごろになっても変わらなかった。
「さん。そろそろお昼ごはんに行ってきていいですよ。わたし、ここにいるので」
鎌滝さんはそう言って優しい笑顔を見せた。彼女はお昼ごろになるといつも私を先に昼食に行かせてくれる。初めの方は遠慮していたが、毎回のことだったので私も慣れてきて遠慮しなくなり、今日も「ありがとうございます」とお礼を言って立ち上がった。
お財布だけを持ち、エレベーターに乗り込んで一階のボタンを押した。閉まるドアを見ながら、今日は何を食べようかな。中華も飽きてきたし浜北公園近くのカフェでも行ってみようか。そんなことを考える。しかしエレベーターは一階に着く手前で止まり、ドアが開いた。
あれ?と思ったがなんてことはない。エレベーターに乗り込んできたのは下の階に勤めている社員さんだった。ネイビーのスーツを着こなした細身の男性で、短くまとめられた髪が爽やかでとても二枚目に見える。
「あ、新しい人?確かさんでしょ?」
顔を見るなりに彼は言い、私は肯定と挨拶の意味を込めて軽く会釈をする。私の手に持っている財布に気が付いたのか、ドアが閉まり切る前に男性は話し出した。
「あ、今から昼?ねぇ良かったら俺と一緒に食わない?良い店知ってるんだよ。浜北公園沿いにすごく美味い店があってさ。ランチメニューが豊富で……」
次から次へと出てくる言葉に私は呑気にも、もしかして営業担当か何かだろうか、などと考えた。最新式のエレベーターはいつもであればあっという間に目的地へ私を運んでくれるのに、この日は何故か一階までの道のりがとても長く感じる。その間も喋り続ける彼に愛想笑いを送り申し出をやんわりと断ったつもりだったが、彼にはそれが通用しなかったようだ。
「あ、ていうかさ今日の夜とか飲みにいかない?お近づきの印に。この辺りは飲める店いっぱいあるよ。何だったら駅前に足を延ばしても良いし。さんは好きな食べ物とかある?」
さん。名を呼ばれ首の後ろ辺りが軽くざわつく。この人は何故私の名前を知っているのだろう。いや、苗字を知っていたから名前を知っていてもおかしくはないのかもしれないが、いきなり初対面で呼ばれるのは違和感を覚える。
電子音が響きエレベーターが一階に到着したことが分かった。私は男性から早く距離を取りたいと考え足早に降りたが、逃がさんとばかりに腕を掴まれ、エレベーターホールの真ん中で立ち止まる。
「ちょっと待ってよ。そんなに急ぐことないじゃん。まだ返事聞いてないし」
「いえ、その、とてもありがたいですが、わたし今夜はちょっと。お昼も一人でとりたいので……」
「ええ、そんな冷たいこと言わないでさ。俺と一緒に行こうよ。ね、いいじゃんさん」
男性の力は強く、にこやかに話している表情であっても恐怖を感じた。しかし恐らく彼に悪意はないのだろう。勤めている階は違えど同じ会社の社員同士、私と親睦を深めようとするのも分からなくはないし、彼には私が遠慮しているように見えるのかもしれない。
はっきりと断る言葉が見つからず、早くこの場を切り抜けたいがために、夜に飲みに行くのは遠慮したいがお昼ぐらいなら良いかもしれないとまで考えてしまう。とにかくこの腕を早く放して欲しくて、振りほどいてしまおうかと考えた時、背後に人の気配を感じた。
「おい。職場でナンパなんかしてんじゃねぇよ」
聞き覚えのある、唸るような低い声。振り返るとそこには社長が仁王立ちしこちらを睨みつけていた。驚き何も言えずにいると、社長は大股で颯爽とこちらに近づき、私の肩を抱いて引く。男性も同じように驚き力がゆるんだのか、私の腕を掴んでいた手は自然と離れた。
「社内恋愛禁止とは言わねぇけどよ、嫌がってんだろうが。これ以上やるってんならお前んとこのお偉いサンにチクるぞ。あ?」
社長は柄悪く凄み、男性を睨みつける。その迫力にひるんだのか彼は何も言わずにそそくさとビルの出入口のほうに小走りで消えて行った。
エレベーターホールはしん、とし、外の喧騒がぼんやりと聞こえる程度になる。社長は男性の次に今度は私を睨みつけるように見た。私は身体が縮こまるような思いになり、とりあえずこの状況を助けてくれたお礼を言おうと口を開いたが、私の声をかき消す様に社長が声を上げる。
「お前がハッキリしないから男が調子に乗るんだろ。あんなのキッパリ断んなきゃダメだぜ」
口にしようとした、ありがとうございますという言葉が頭の中で、すみませんでした、という謝罪の言葉に変わる。申し訳ない気持ちでいっぱいになり頭を軽く下げながら黙り込んでいると、大きな溜息が聞こえた。
「ったく……。さん、なんて名前呼ばれてほだされたってか」
さん。先ほどの男性に自分の名を呼ばれた時は何も感じなかったのに、社長にそう呼ばれ心臓が跳ねた。呼吸が浅くなり、胸の辺りが苦しくなる。
社長は鎌滝さんのことを「えりちゃん」と呼ぶ。しかし私のことは「なぁ」や「あんた」と呼ぶことがほとんどだった。私と社長は呼びかけ合うほど接点があるわけではない。だが少なくとも名前どころか苗字ですらちゃんと呼ばれたことはなかった。
「社長も私のこと、ちゃんと名前で呼んでください」
まるで独り言のような呟きだったと思う。社長の顔を見上げると、私の言葉が理解できないのか眉間に皺を寄せ、再びこちらを睨むように見る。
「……なんでそういう話になんだよ」
「昔は呼んでくれたでしょ。ほとんどは“ちび”だったけど」
「知らねぇな」
冷ややかなその言葉に鼻の奥がつんとし、視界が軽く歪む。一番を見上げていた目線を落とし俯くと、両手を強く握りしめた。先ほどの言い分も今のこの仕草も、まるで駄々をこねる子供のようで自分で自分が嫌になる。どうして私は一番の前ではいつもこんなに情けない姿になってしまうのだろうか。
ハァ、という大きな溜息が聞こえ、一番の顔をちらりと盗み見ると彼は呆れたような表情で後頭部に手をやり、そこを掻いた。
「あのよ、今のお前はあん時のクソガキじゃなくて一番ホールディングスの社員だろ。昔の話はやめにしねぇか?もう忘れろって」
“忘れろ”。その一言が胸に突き刺さり、同時に先日の自分の言葉を思い出した。
“私、大丈夫です。気にしてません。すぐに忘れます。……忘れますから”
忘れられるはずない。自身の言葉に矛盾した気持ちが胸に湧き上がる。一番と過ごした幼い日の記憶を忘れられるはずなんかなかった。そうでなければ18年間もずっと、一番を想い続けてはいない。忘れようとした、他の人を好きになろうと努力したこともあった、それでもだめだった。
「一番」
“社長”ではなく、その名前をはっきりと口にした。一番の眉間に寄っていた皺が消え、少し驚いたような表情でこちらを見つめる瞳は、見覚えのある深い色で、同時にとても愛おしい。
「私を神室町の“ちび”じゃなく一人の社員として見てるなら、名前で呼んで」
口にしながら、本当は泣きそうだった。一番にすがりついて泣きじゃくってしまいたかった。ただそれが私には出来ない。それをしてしまったら負け。
見つめ合う視線を先に外したのは一番の方だった。俯き、鼻で長い溜息をついた後に遠くを見つめる。その仕草は、あの日の神室町を思い出しているのだろうなと勝手に解釈した。
「本当に性格変わったよな、……“さん”よ」
名を呼ぶ声が私の頭の中に響き渡る。一番は両眉を上げ、呆れ気味に薄く笑った。その顔は私が初めて見る表情で、胸の奥が狭くなり無意識に下口唇を噛みしめる。
忘れない。忘れられるわけがない。一番への想いを胸の奥にしまったまま、外面ではなんでもないふりをする。そんなことはいつまで続くだろうか。それでも私は彼の傍に居たい。不毛な結果しか見えてこない未来だったとしても。