埋もれ木に春が咲く - 7

「春日さんとさんって、仲が良さそうですよね」

 前置きもなしに突然鎌滝さんが言った。何を言われたのか、むしろ自分に向かって言われたのかどうかも分からず固まり、思わず相手を凝視する。

 まず最初に、もしかして鎌滝さんは私と一番の関係を知っているのだろうか?と考えた。もし知っているのだとしたら一番が教えたことになるが、私とあまり関わりたくないという意思が感じ取れる彼がそのようなことをするとは思えない。

 黙り込む私の表情がおかしかったのか、鎌滝さんはあははと冗談っぽく笑う。

「いや、仲が良いというか、相性が良さそうな感じですかね?だってなんか物言わずとも通じ合ってるみたいな所、あるじゃないですか」

「え、いや、ないですよ。そんなのないです。何を仰って……」

 心臓が跳ね思わず顔の前で大きく手を振りながら否定する。

 確かに私は一番のことなら大体分かっている。18年間離れていたとはいえ一番には変わらない部分が多々あり、仕事をする上でもそれが役に立つこともある。しかし私は一番と一緒に仕事をすることは稀で、まさかその数少ない機会の中で鎌滝さんはそれを察したということなのだろうか。のんびりした雰囲気の女性であるのに、意外と勘は鋭いのかもしれないと感じた。

 目が合い、微笑まれる。なんだか色々なことを見透かされているような気がし、居心地が悪くなった私はそれを誤魔化すように椅子に座り直す。鎌滝さんは優しい笑顔のまま続けた。

「春日さんはいつもさんのことを気にかけてますよ。あなたを見る目、とっても優しいですから」

 私が委縮したのを感じ取ったのか、鎌滝さんの声が柔らかくなったのが分かる。一番が私を気にかけている?そんなことがあるのだろうかとにわかには信じがたい。私と関りを持ちたくないという様子で、会社への採用ですらためらっていたというのに。

「春日さんってば、毎日のようにあなたの様子を私に聞くんですよ。私の顔を見ればまず一言目に『アイツは?』って言いますから。初めはアイツって誰だろうなんて思っちゃったんですけどね」

 鎌滝さんはそう言ってあはは、と可愛らしく笑う。

 私には分かる。恐らくはきっと、一番は私と顔を合わせたくないがために鎌滝さんにいつもそのように聞くのだろう。きっとそうだ。きっとそうだと思うのに、正直に言えば嬉しい。一番がどんな理由であろうと私を気にかけてくれているという事実がとても嬉しかった。

「そう……ですか……」

 顔が熱くなってきたような気がして、私はそれを隠すように俯いて呟く。鎌滝さんの表情は見えなかったが、私の呟きに「はい!」と元気良く返事をした。

 その時、部屋に聞き覚えのある電子音が響いた。それは鎌滝さんのスマートフォンで、デスクに置かれたそれがけたたましく鳴ると同時にぶるぶると震えている。どうやら誰かからの着信のようで、鎌滝さんは慌てた様子でスマートフォンを手に取るとすぐに電話に出た。

「もしもし!はい、鎌滝です」

 鎌滝さんが電話に出たことで会話が中断され、私は自身のデスクに向き直り業務を再開する。しかし聞こえてくる声から察するに用件はすぐ済むような雰囲気だった。

「あ、了解しました。じゃあすぐにそっちに向かいます。はい」

 案の定、鎌滝さんはそう言ってすぐに電話を切る。たいした内容ではなかったのだろうと思っていると、横から妙な視線を感じた。何の気なしにその方向を見ると、鎌滝さんがニコニコとした笑顔を浮かべこちらを見ている。

さん、今から福徳公園に向かってくれませんか?いえ、というか行ってください。私は留守番してるので」

 鎌滝さんは顔の前で両手を合わせ、どこか嬉しそうに体を軽く跳ねさせる。言われた言葉の意味は分かったが、何故彼女がそんな様子なのかは理解できない。

 福徳公園という名前は知っているし、場所もなんとなく分かる。確か神内駅の向こう側、横浜大通りを渡った先にある小さな公園だ。外でタクシーでもつかまえてドライバーに言えば迷わず連れて行ってくれるだろうし、問題はないだろう。

「……わかりました」

 鎌滝さんの様子が気になりつつも、先輩の指示を断れる理由なんかなく、私は椅子にかけていた上着を羽織るとバッグを肩にかけてエレベーターに向かう。扉が開き乗り込むと、背中から「いってらっしゃーい」という鎌滝さんの上機嫌な声が聞こえた。

 つかまえたタクシーが福徳公園に到着した時、私は鎌滝さんが妙な様子だったことの理由をはっきりと理解した。公園から少し離れた川沿いに、見慣れた人の姿が見え私は目を見開く。

「一番……?」

 思わずその名を呟いた。一番は時折公園の方に目をやりながら、川沿いに設置された柵に寄りかかっている。その姿は誰かを待っているように見え、その“誰か”というのは恐らく鎌滝さんだろう。いまここに来てしまったのは彼女ではなく私なのだが。

 タクシーの運転手がこちらを見たことに気が付く。私は慌ててまとまったお金を運転手に渡し「お釣りはいらないです」とだけ言って車外へ出た。

 小走りで一番に近づくと、彼は気配に気が付いたのかすぐにこちらを見る。しかし近づいてくるのが鎌滝さんではなく私であると気が付くと同時に眉間に皺を寄せた。

「お疲れ様です。あの……」

 軽く頭を下げて挨拶をし、何故鎌滝さんではなく私なのかという説明をしようと声を出そうとした時、食い気味に一番は言う。

「俺はえりちゃんに来て欲しいって頼んだつもりだったんだがな」

 その言葉はなんとなく予想していた。しかし私も鎌滝さんに指示をされただけでまさか一番が居ようとは思わなかったため、私に怒りを感じても仕方がないことだろう。そのような意味を込めて彼を軽く睨むと、チッという小さな舌打ちが聞こえた。

「ったくしょうがねぇ……。まぁいいや。とりあえず手伝ってくれ」

 一番はこちらに背を向け歩き出す。その後を黙って着いて行くと、死角になっている自転車置き場から公園内を見ながら、一番は小さな声で呟いた。

「あのブランコにいる子供。親からの依頼で探してたんだ。俺みてぇな男が行ったら絶対泣きわめかれるだろ?だから保護するなら俺じゃなくてえりちゃんみてぇな女の子の方が適任だと思ったんだ」

 公園には小さなブランコがあり、まだ小学生にも満たないであろう子供が一人で座って揺られていた。俯き、自分の膝あたりを見ながらどこか寂しそうにしている。

「なるほど……。それで、鎌滝さんにヘルプを頼んだら、私が来てしまったと。そういうことですね」

 そう言うと、一番は鼻をフンと鳴らしながら「そうだよ」と呟く。

 それにしても、一番が地域の人たちから様々な依頼を受けていることは知っていたが、まさか迷子の捜索までしていたとはと少し驚く。しかし喧嘩などとは違いこれなら私にも力になれるではと可能性を感じ、少しだけ嬉しかった。

「わかりました。声をかけてみます。社長は少し離れた所に居てください」

 一番の方を見ると目が合う。彼は私の言葉が意外だったようで、一瞬だけ目を丸くすると小さなこえで「おう」と返事をした。

 私には年の離れたきょうだいは居なかったし、結婚もしていないため当たり前だが子供も居ない。その幼い子とやり取りをするのは、もしかしたら高校生の時に授業の一環で行った保育園の時以来かもしれない。

 ひとりブランコに座り、静かに揺られている子供にゆっくりと近づく。私の気配に気が付いた彼女はこちらを見るなり軽く目を丸くしたため、警戒されぬよう私は笑顔を作り首を傾げて顔を覗き込んだ。

「こんにちは。きみ、ひとり?」

 まずは軽い挨拶。いきなり近づいてあれやこれやと聞けば怯えさせるだけだろう。子供は私の問いかけに力なく頷くと、顔を伏せて自分の膝の辺りを見つめる。

「パパもママも一緒じゃないんだ?もうお家に帰った方がいいよ。きっと心配してるよ」

 声をかけながら、私は子供のすぐ隣のブランコに座った。そういえばブランコに乗るなんて何年ぶりだろう。幼い頃に乗った時よりもお尻の部分がきつく、少し悲しい気持ちになる。

「きょう……」

 子供が細く小さな声で呟いた。悲しそうなその表情から、何か言い難くも言いたいことがあるのだと感じた私は彼女の方へ身を乗り出し、耳を傾けるような仕草をした後「どうしたの?」と問いかける。

「きょう、ままのたんじょうびなの……」

 今日はママのお誕生日。そう言う子供に対し私はおめでとうと言うべきなのだろうか。そしてもし本当に母親の誕生日なのだとしたら、この子は余計に早く家に帰ってあげるべきなのではないかとも思う。そう考えていると彼女の顎が細かく震えだし、その目には涙が溜まっていた。

「あたし、ままにお花をあげたいの。でもお金ないの。だから、ままのおたんじょうびプレゼントないの。おうち、帰りたくない。まま、きっとかなしくなるから」

 子供は震える声で訴える。つまり母親に花を買ってプレゼントしようと思っていたがお金が足りず、手ぶらで家に帰ることが出来ずにこの公園に居る、ということなのだろう。

 小さな子供が涙を流し母親を想っているその姿に胸が熱くなる。しかしここで私がまとまったお金を彼女に渡し“これでお花を買って帰りなさい”と言うのは間違っているような気もした。

 自身のジャケットのポケットを探る。中には小さなメモ帳が入っていた。胸ポケットの方にはボールペンがささっており、それを抜くとメモ帳と会わせて子供に差し出す。

「お姉ちゃんに良いアイディアがあるよ。これで“おてつだいチケット”を作ってママにあげるのはどうかな?」

 子供は差し出されたメモ帳と私の顔を交互に見ながら鼻をすすった。私の言ったことがまだ理解出来ていないようで、涙を堪えながら軽く首を傾げる。

「例えば、“お洗濯をたたむチケット”とか“お皿を片付けるチケット”とか!お姉ちゃんも昔ママにあげたことあるけど、とっても喜んでくれたんだ」

 自分が子供の頃など遥か昔の話だ。私の母親も父親も共働きで家にはほとんどおらず、幼い頃から私は叔母である道代さんのスナックに預けられることが多かった。忙しそうな父と母を困らせたくなく、聞き分けの良い子供であるように努めた。

 おてつだいチケット。私がそれを作ったのはいくつの頃だったかもう記憶にないが、チケットを受け取った両親の顔は今でもよく覚えている。なくなってしまうのではないかという程に目を細くして笑い、大きな声で「ありがとう」と言って抱きしめてくれたことを。

「おてつだい、ちけっと……?」

 子供はメモ帳とボールペンを受け取り、呟く。

「うん。たくさん作ってママにプレゼントしてあげよう。きっといっぱいいっぱい喜んでくれるよ」

 そう言うと、子供は先ほどまでの表情を消し、まるでパッと花が咲いたかのように笑う。メモ帳を大事そうに両手で握りしめたままブランコから立ち上がると、公園中に響き渡るほどに大きな声で「おねえちゃん、ありがとう!」と叫び、その場から駆け出した。

 子供は公園の外で待機していた一番の目の前を通り過ぎる。その背中を目で追いかけると、あっという間に小さくなったその姿は陽が沈みかけた異人町に溶けて行った。

「おい。大丈夫なのか?あの子」

 一番がこちらに駆け寄りながら言い、私は彼の目を見つめながらゆっくりと頷いた。

 年齢の割にしっかりした様子のあの子は、きっとちゃんと家に帰るだろう。“おてつだいチケット”を何枚も作って、母親にプレゼントするに違いない。その姿を想像し、過去の自分と重ねるとなんだか胸の奥が切なく感じた。

「戻りましょう。きっと鎌滝さんが心配していますから」

 そう言うと、一番はどこか満足そうな顔をしながら「おう」と返事をした。

 歩き出した一番の二、三歩ほど後ろを着いて歩く。どこか太い道路に出てタクシーでもつかまえるのだろうと考えながら、一番の広く大きな背中を見つめた。赤いジャケットが陽が沈みかけたオレンジ色の異人町と溶け合ってとても美しく見える。

「まさか俺が、あの“ちび”に助けられる日が来るとはなぁ……」

 一番のその呟きはまるで独り言のようだった。久しぶりに呼ばれた“ちび”という名称にくすぐったさを覚える。あの頃の私は文字通りの“ちび”でとても小さく、非力で、世間知らずの“クソガキ”だった。一番と肩を並べることも、近づくことすらも出来ない子供。

 しかし今なら。あれから18年という月日が経った今なら、少しは一番の力になれるかもしれない。一番と肩を並べることが許されるかもしれない。おこがましくもそう感じてしまう。

 私は素早く足を動かし小走りをすると、二、三歩前を歩いていた一番の背中に近づく。そしてそのまま彼の隣を歩き始めた。一番はいきなり隣についた私に少し驚いたのか一瞬だけこちらを見たが、すぐに前に向き直る。

「わたし……少しは成長した?」

 声が震えたのが自分でも分かる。何故なら、その問いかけにほんの少し恐怖を感じていたからだ。一番は私にとって手の届かない存在だと思っていた。幼かった私はどれだけ食べて、どれだけ寝て、どれだけ大きくなれば、一番に近づけるのだろうかと考えていた。幼かった私に初めての恋と劣等感を教えてくれたのが、春日一番という人。

 一番がふとこちらを見る。何とも言えない表情は口にする言葉を考えているように見えた。

「お前はまぁ……そうだな。……老けた」

「……は!?」

 予想外すぎる返答に私は思わず大きな声を上げた。そりゃ一番は歳の割に肌はとても綺麗だし若く見えるかもしれない。かといって一応は女である私に対しての発言としては失礼すぎると思った。

 恐らく般若のような表情になっているだろう私の顔を見るなり一番はプッと吹き出し、子供のように笑って見せる。

「冗談だよ。すげぇべっぴんになってて驚いたぜ、正直」

 一瞬、心臓が止まってしまったのではないかという感覚に陥った。“べっぴん”。その言葉すらも冗談だと言うのなら今度こそ引っ叩いてやる。そんな風に思うも、私の顔はどんどん熱くなり手は細かく震えだす。ユーモアを交えたことでも言い返してやろうと思うも、声が出なかった。

「もしあの時の俺が今のお前に会ったら、ちゃんと別れの言葉を伝えてただろうなぁ」

 すぐ隣に居る私ですら微かにしか聞こえないほどに小さな声だった。呼吸が上手く出来ずに胸が苦しく、私はその場にゆっくりと立ち止まる。隣を歩いていた一番はそれに気付くことなく前を歩いていき、広く大きな背中が少しずつ遠のいていった。

「今の私なら、一番はちゃんと見てくれる?」

 夕日に溶ける背中にぶつけるように声を上げた。頭の中に自分の心臓の音がうるさく響いている。一番は歩みを止めたが、こちらに振り返ることはなかった。

 一番が何も言わずに私の前から姿を消した18年前のあの日。私は文字通りの“ちび”でとても小さく、非力で、世間知らずの“クソガキ”だった。一番と肩を並べることも、近づくことすらも出来ない子供。

 しかし今なら。あれから18年という月日が経った今なら、一番と肩を並べることが、一番に近づくことが許されるかもしれない。一番は私のことを見てくれるかもしれない。

「私ずっと、子供の頃からずっと、一番のこと……」

「待った」

 震える私の声を一番の大きな声がかき消した。まるで親が子供を咎めるような低く強い声に、口にしようとしていた言葉が詰まって止まる。

「それ以上は、……言うな、

 名を呼ばれ、喉がヒュウと鳴った。一番は首だけでこちらに振り返り、夕焼けに溶け込むその横顔はとても悲しそうに見えて本当に何も言えなくなる。

 一番は軽く息を吐くと、タクシーがつかまえられそうな太い道路とは反対の方向へ歩き出す。その場に立ち尽くし固まったままの私の方向をちらりとも見ることはなかった。

「悪ィ、俺は本社には戻らねぇから、えりちゃんには適当に誤魔化しといてくれ」

 声のトーンもいつも通り。歩き姿も街に消えゆく背中も何もかもがいつも通り。ただ何も言い返せず立ち尽くし体を固めたままの私とは、正反対。

 私は子供の頃からずっと、一番のことが好きだった。

 口に出来なかった言葉を頭の中で繰り返す。ずっと持ち続けていた、ずっと伝えたかった想い。それは18年経った今でも口にすることすら許されない。たった一瞬でも、一番に近づくことが許されるかもしれないと考えてしまったのは大きな間違いだった。

 一番にとって私はまだ神室町の“ちび”。一番と肩を並べることも、近づくことすらも出来ない子供。それは今も昔も、変わらないのかもしれない。