溺れるシーラカンス - 3
“今日また出たんですよシーラカンス。私まだハゼ出したことなかったんで”
そう言って東さんが出したハゼと私のシーラカンスを交換したが、真っ赤な嘘だった。私はシーラカンスを一度しか出していないため当然ながら一つしか持っていないし、そこまでレア度もないハゼはもう何度も出したことがある。
何故そんな嘘をついたのか。それは東さんが手に入れたハゼだったからだ。それが欲しくてたまらなくなってしまった。嘘をついてまで行動に出た自分に自分で理解が出来ない。ただ東さんの持っているハゼが自分が持っているレア度の高いシーラカンスよりもずっと魅力的に見えた。
「もう完全に好きじゃん。その東って人のこと」
私をカフェに呼び出した友人は、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを気だるそうな表情で見ながら、まるで独り言かのように呟いた。
いま目の前にいる私の友人である彼女が「彼氏欲しい」だとか「バイト先にイイ感じの人が居てさ」などといういつも通りの世間話をするのと同じように、私は彼女に東さんのことを話した。そして返ってきた言葉が先程の台詞。
“完全に好き”という言葉がいまいちピンと来なかった。
私はつい最近まで自分を“シーラカンス”に例えていた。周囲にいる同じような年齢の女子たちはほぼ全員と言っていいほどに恋愛に夢中になっていた。カフェでお茶をすれば彼氏がどうの、女子会で集まれば先日の合コンがどうの、口を開けば恋愛の話ばかり。
彼女たちが例えば泳ぎを止めると死んでしまうマグロならば私はきっとシーラカンスだ。今までたいした恋愛経験もなく、これからもその意欲がない。まるで一般的には考えられないような特殊な存在は“生きた化石”の名に相応しい気もする、なんて考えていた。はっきり言ってしまえば、“人を好きになる”という感覚が良く分からない。そして私の話をほんの少し聞いただけで“完全に好き”と認定してしまう友人も理解できなかった。
何も答えない私にいら立ったのか、友人はアイスコーヒーをテーブルの隅に寄せ、私の方へ身を乗り出す。
「さぁ、断言してもいいけどあんた東って人のこと絶対好きだから。だってその人が出した、えっと、デコ、……デコ、なんだっけ?」
「デコレオーシャンのハゼ」
「ああそうそれ、まぁなんでもいいけど。その人が出したハゼ?が欲しいって、好きな人の物欲しがる女子の典型って感じだし」
友人は続けざまに「好きだった先輩の卒業式に第二ボタン欲しがるみたいな?」と言ってどこか楽しそうに笑う。
“好き”という感情にはピンと来なかったものの、友人が口にした言葉は何処か納得できる気がした。確かに私は“シーラカンスを二度出した”という嘘をついてまで東さんの出したハゼを欲しいと思った。もう何個も手に入れているハゼのおもちゃが欲しかったんじゃない。東さんが手に入れた物だったからこそ、私は欲しいと思ってしまったんだ。
置きっぱなしになっていた私のアイスティーは時間が経って汗をかいており、グラスについていた水滴がテーブルの上を濡らしている。それを軽く指で拭いてからストローで一口飲むと、喉を通って胃に入り込むアイスティーと同じように、良く分からなかった自分の気持ちも、友人の言葉も、全てが腑に落ちるような気がした。
「……でも東さん、結構年上っぽいし、私なんか相手にしなさそう」
無意識に口から言葉がもれた。それは特に意味もなく出るため息やあくびと同じような感覚で口にしたのだが、友人は先ほどの笑顔とはまた違う、口角が上がるのをおさえられないとでも言うようなニヤニヤ顔で私を見る。
「“私なんか相手にしなさそう”とか考えてる時点で、もう完全に落ちてんじゃん……」
思わずハッと息をのむ。
どんなに仲の良い友人でも、私は彼女たちとこんな風に恋愛の話をしたことがなかった。それどころか、彼女たちが恋愛絡みの話題を出すとすぐに私は息苦しさを感じるようになっていた。それなのに今は息苦しさを感じるどころか、幸福を覚えている。人間とは、女とは、なんて単純で自分勝手な生き物なのだろうと自己嫌悪のような、高揚感のような気持ちが胸を満たした。
別れ際、友人は「とりあえずカノジョ居るか聞きな」とか「さっさと連絡先も聞いとけ」とか色々なことを口にしながら、駅へ向かう人ごみのなかに消えていった。
私は何処かで夕飯でも食べて帰ろうか、それとも夕飯になりそうな物を買って帰ろうかなどと考えながら、ただなんとなく駅には向かわずに繁華街を歩いた。いつ何時でも人の往来の多い神室町の中道通りを抜け、ミレニアムタワーの側面に光輝く各階の明かりをぼんやり眺めながら歩いていると、自分の足が無意識にシャルルに向かっていることに気が付き立ち止まる。
スマートフォンで時刻を確認すると午後六時過ぎ。もう日は沈んでいるものの、帰宅にはまだ早い気がし、私はそのままシャルルに向かうことにした。数回カプセルトイを回すだけ。ほんの少し東さんの顔を見るだけ。もしかしたらもう東さんは店を他の従業員に任せ、業務を終えて上がっている可能性だってある。それでも私の足は重力を感じていないかのように軽く思えた。
シャルルに到着しいつものように階段を下る。カプセルトイを回すだけならば店に入らずとも出来るが、なんとなく東さんに挨拶でもしておこうと思い、店内へ続く出入口のドアを押し開いた。すると、もう既に聞き慣れたゲーム機のやかましい稼働音と共に大きな笑い声が聞こえてくる。それは店の奥からで恐らく声の主は男性であろうと予想出来たが、明らかに東さんの物とは違う。店内に客は一人も居なかったためその笑い声は余計に大きく聞こえた。
随分はしゃいでるお客さんが居るんだな、というそれぐらいの気持ちで店の奥に行くと、東さんがいつも立っているカウンターの手前でオレンジ色の派手なシャツを着た男性の背中が見えた。それはとても大きく筋肉質で、私からすれば人というよりまるで壁に思える。
男性は私が入ってきたことに気付いたようで、こちらに振り返り無表情で私を見下ろす。その妙な迫力に私は思わず小さく「う」と声をもらしたが、男性は無表情から一変、人懐っこそうに笑うとこちらに近付いてきた。
「お、女の子の客なんか珍しいな」
優し気な声とその笑顔を見る限りこの男性はそこまで悪い人ではないのだろう。しかし大きい体は迫力があり、腕や足なんかは私の倍はありそうな太さだ。服装もあまり柄が良い感じには見えないし顔に傷だってある。
失礼ながらも軽く恐怖を感じたが、先ほどの笑い声は恐らく男性と東さんが談笑していたということなのだろう。この人とはどういう関係なのかと疑問に思い、私は後ろに居た東さんに目線を送る。すると彼は私と目が合うなりどこか気まずそうに目線をそらし、カウンターに預けていた体を起こした。
「あー……兄貴。そいつは……」
歯切れが悪い。東さんの言葉は正にそれで、私が誰なのかを男性に説明することを躊躇っているように見える。
「なんだぁ東?店に女の子連れ込んでんのか。隅に置けねぇなあ」
男性はいやらしいニヤニヤした表情で東さんと私を交互に見ながら言った。“店に女の子を連れ込んでいる”。それは恐らく東さんと私が男女の関係にあるのではないかと疑った故の言葉だったのだろう。
当然ながら私と東さんはそういう関係ではないし、私が彼を好意的に見ていたとしても東さんの方は私をどう思っているかなんて分からない。それこそ“ただの常連客”としか見ていないかもしれない。それは分かっていた。理解しているつもりだった。そのはずなのに。
「やめてくださいよ。こいつはガチャガチャしかやらねぇただの常連客です」
東さんはいつも通りの落ち着いたトーンでそう口にした。
“ただの常連客”と言われることは予想していたのに、分かっていたはずなのに、違和感のようなモヤモヤした気持ちが胸に広がっていく。そしてその胸が次第に張り裂けるような、底が見えないほどの真っ黒な何かに自分が沈んでいくような、息が出来なくなるような、そんな感覚に陥った。
そのすぐ後、東さんが「兄貴」と呼んでいた体の大きな男性は何かを口にしたが、何を言ったのかは分からなかった。気が付けば男性は店から姿を消していて、私の目の前にいる東さんは眉間に皺を寄せ不思議そうな顔をしながらこちらを見ていた。
「おい?なぁ、どうした」
無反応の私を心配したのか東さんに声を掛けられる。私はその時、カウンターの隅に何かが置かれていることに気付いた。それは小さなシーラカンスのおもちゃで、ついこの間に私と東さんとで交換した物。彼は律儀にもそれを飾ってくれていた。
私は“生きた化石”だ。今までたいした恋愛経験もなく、これからもその意欲がない。まるで一般的には考えられないような特殊な存在は正にシーラカンスの名に相応しいと考えていた。でも、こんな私でも他の魚と同じくこの世界を生きたい。上手く泳いでいきたい。泳ぎを止めてしまったら死んでしまう魚のように、恋をしてみたい。
私、やっぱり東さんが好きなんだ。心の中でそう呟くと息が浅くなり、どんどんと水の底に沈み溺れているような気分になる。自分の気持ちがはっきりと理解出来たその瞬間、世界は、恋というものは、こんなにも息苦しいものなのだと思い知らされた。