溺れるシーラカンス - 4
は恐らく、俺に懐いている。松金組が存在したあの頃から年下の人間に懐かれるのは比較的慣れていた。しかし男に懐かれることはあっても女に懐かれたのは生まれて初めてで違和感しかない。カタギで尚且つ女であれば俺のような元極道の人間なんか顔を見ただけで逃げられてもおかしくなかったのに。
シーラカンス女、もといについて知っていることは少ない。恐らく成人はしているだろうが詳しい年齢などは知らないし、親のすねをかじっているのか独立しているのかどうかも知らない。分かっているのはという名と、俺には良さが理解できない魚のガチャガチャが好きということだけ。
ガチャガチャと言えば、最近駅の向こう側に出来た大きな商業施設の中にガチャガチャだけを集めたコーナーがあり、大盛況だという話を耳に挟んだことがある。シャルルに来ては毎回何十回とガチャガチャを回すような女がこの商業施設の存在を知らないはずがないし、シャルルにくるよりもそちらに行った方が余程楽しめるだろう。
それなのに、だ。にその話をした際、奴は何故か表情を曇らせていた。「うーん」などと曖昧な声を出しながら口元に手をあて、俺の方を見ようとはしなかった。
シャルルは昔ながらのゲーセンだ。昼間であれば子供一人でも入れるし、昔ほどヤバい客も居ない。シャルルの古臭い……もといレトロな感じが好きだと言って通っている客も居るが、はどうだ。あんな若い女がこんな汚い場末のゲーセンを好むのはあまり考えられない。
あいつは何故シャルルに来るのか。そして何故俺に懐くのか。俺には、あの魚のガチャガチャの魅力以上に分からないことが山ほどあって、誰に聞けば答えが出るのかも分からなかった。
その日はいつも通りの業務を終え、日が沈み夜の店の明かりが灯される時間帯に海藤の兄貴が店に来た。俺の顔を見るなり「よぉ」と挨拶をしてから軽く片手を上げる。こうして兄貴がシャルルに来ることは決して珍しくはなく、どうせ“給料が入ったから飲みに行こう”だの言って俺をキャバクラにでも連れて行くのだろうと思っていた。
ほんの少しだけ八神の悪口でも言いながら談笑していた時、店の戸が開く音が聞こえ誰かの足音がこちらに近付いてくるのが分かる。かかとが床にぶつかる音が少し高めに聞こえたので、恐らくは女物のヒールの音だろうと判断出来た。シャルルに来る女の客など、あいつしか居ない。
案の定顔を出したのはで、兄貴は振り返って顔を見るなりすぐに奴に近付いた。は兄貴の迫力にひるんでいるように見え、小さく「う」と唸る。
「お、女の子の客なんか珍しいな」
兄貴は女であるに気を遣ったのか優し気なトーンで言い、は戸惑ったように俺に目線を送る。恐らく“この大きな人は誰ですか?”とでも聞きたいのだろう。それはもっともだと思った。なんとなく気まずさを感じ、俺はから目をそらすとカウンターに預けていた体を起こす。
「あー……兄貴。そいつは……」
その先の言葉が出てこなかった。こいつは、は俺にとって何なのか、言葉では上手く説明できる気がしなかった。知り合い。友人。なんだか知らんが俺に懐いてる良く分からない変な女。思いつく言葉の全てが自分の中ではしっくり来ない。
本来であれば“ガチャガチャしかやらないただの常連客”というような言葉が一番正しいのだろう。だが何故かそれは妙な違和感と冷たさがある気がした。“友人”でもなければ“ただの常連客”でもない。をたった一言、“客”という言葉で片付けてしまうのは惜しい気がした。
「なんだぁ東?店に女の子連れ込んでんのか。隅に置けねぇなあ」
兄貴は俺とを交互に見ながら、まるで口角が上がるのをおさえきれないとでも言うようなニヤニヤ顔で言い、思わずハッとする。
確かに俺はいま、をたった一言、“客”という言葉で片付けてしまうのは惜しいと感じた。しかし兄貴の言い方だと明らかに俺と奴に男女の関係があるという風に聞こえるし、それは大きな誤解だ。そもそもも俺のような男とそんな関係だと勘違いされることなど避けたいだろう。
「やめてくださいよ。こいつはガチャガチャしかやらねぇただの常連客です」
人聞きの悪い誤解を解こうと、先ほどあれだけ躊躇った“ただの常連客”という言葉を口にしてしまった。俺が後悔も気まずさも感じなかったのは、それを聞いたの顔がいつもと何ら変わらない無表情に見えたからだった。
兄貴の方はと言うと俺の言葉にいまいち納得がいかないようで、眉をひそめながらも未だニヤニヤした表情を崩さない。
「へぇ、そうかよ。俺ぁ邪魔だろうから今日の所は帰るわ」
「ちょっと、兄貴」
兄貴は俺の声を無視し、こちらに背を向け後ろ手を振りながら店を出て行った。あの人はいつも突然現れて突然去っていく嵐のような人だ。兄貴の大きな話し声も大きな足音も消え、シャルルの中にはいつも通りのゲームの稼働音のみ響き渡る。
「ったくあの人は……」
小さく独り言を呟きながら、横目でを見る。奴は未だに先ほどと同じ無表情のまま一点だけを見つめてその場に立ち尽くしていた。いま思い起こせば兄貴が出ていくときも固まっていたような気がする。
「おい?なぁ、どうした」
声をかけるも返答はない。ジッと顔を見つめても目が合う様子はなく、瞬きすらもしていないように見えるその姿を人形のように思う。
の目を見つめながら、そういえばこいつの顔をこんな風にまじまじと見るのは初めてだなと感じる。平々凡々な顔立ちではあるが顔も目も丸く、どちらかといえば可愛らしい分類に入る顔だろうか。雰囲気の地味さはあのシーラカンスに似ているかもしれないが、顔は全く似ていない。以前俺はとシーラカンスを重ねて見たことがあるが、何故そんな風に感じたのだろうと今更ながら考えた。
「おい、?」
いつまでも無反応のの名を呼ぶ。そういえば俺とが初めて会ったあの日から、俺がこいつの名を口に出して呼んだのは初めてだったかもしれない。は俺の声に反応し軽く肩を震わせたかと思うと、無表情の顔のまま俺の方を見る。
が瞬きをしているのを見て、何故か安心したような気持ちになった俺は“お前ももう帰れよ”とでも口にしようとした。その時だった。
「東さん」
俺の言葉を遮るように名を呼んだの声は微かに震えていた。顔は無表情であるのに声は感情的に聴こえて、俺は何も言わず黙ったままを見る。
「わたし、東さんが好きです」
小さな口唇と小さな声が言葉を紡ぐ。立ち尽くすと俺の間にはカウンターがあり、そこまでの距離はないのに何故か酷く、遠くに感じた。