溺れるシーラカンス - 5

 恋をするということは、こんな気分なのかという漠然とした想いがあった。高校生の頃に同じクラスの男の子に恋をしていたあの子も、バイト先に憧れの先輩が居ると話していたあの子も、きっと同じ気持ちだったのだろう。

 その感情を理解するのとほぼ同時に私は生まれて初めて愛の告白をした。「わたし、東さんが好きです」という言葉に嘘偽りはなく、後のことなどなにも考えてはいなかった。呼吸をするのと同じような感覚でそれを口にした。

 ただ、告白の応えは聞かずとも理解できた。東さんの表情が物語っていた。応えは“ノー”だと。

「悪ぃが……、その気持ちには応えられねぇよ」

 東さんはそう言って私から目をそらすと鼻で長くため息をつく。私がいきなり愛の告白をしたとしても、たとえばいたずらやからかいなどと判断して突っぱねない所が彼らしいのかもしれないとも思う。私は東さんの返答を予想できていた。できていたはずなのに、倒れてしまいそうなほどに胸が苦しかった。

 何の反応もせずに立ち尽くしたままで居ると、東さんが続けて言う。

「元極道の俺なんかよりもっとお前に相応しい男がゴロゴロ居るだろ。有名な大学を出てまともな企業で働いてる、いい男がよ」

 元極道という言葉にひっかかりつつも、次の瞬間にはもうそんなことはどうでもよくなっていた。学歴も職歴も関係ない。私はただ東さんだから好きになったんだ。東さんに生まれて初めての感情を抱いたんだ。胸が温かくなるような幸福も、海の底に沈んでいくような息苦しさも、全て彼が私に与えた物だ。

「私は、東さんがいいです」

 小さな声で呟く。声はかすれていたような気もするが、別に涙が出そうだったわけじゃない。私の気持ちには応えられないと口にした東さんに、これ以上自分の気持ちを伝えるのが怖かった。

 ゆっくりと東さんの方向を見ると、彼は心底困っているような表情をしていた。こちらからそらされた視線はカウンターの上に注がれたままで、眉間に皺を寄せて大きくため息をついている。

「何度も言わせんな、

 東さんが低い声で名を呼んだのと同時に顔を上げこちらを見た。まるで睨むような鋭い視線は私の胸を貫き、抉る。ああ、私の気持ちはそんなにも迷惑だったのかと痛感した。

 私は何も言わず東さんに背を向けると、小走りで店を出た。階段を上り地上に出るとそのまま駅の方向へと走り出す。ヒールを履いた足では走りにくかったが、そんなことはどうでもよかった。気を抜けば涙が出てしまいそうだった。

 分かりやすく言えば私はふられたんだ。生まれて初めて恋を自覚し、生まれて初めて愛の告白をし、生まれて初めての失恋をした。人生における初体験が三連続で訪れるのはきっとレアケースだろう。そうやって考えて自分を茶化さなければ正気を保っていられる自信がなかった。


 あれから数週間の時が経った。

 シャルルには一度も行っていないし、『デコレオーシャン』のカプセルトイも回していない。友人との遊びや食事で神室町を訪れることは頻繁にあるものの、シャルルからは離れた繁華街が多かったため店の前を通る機会すらもなかった。

 今日も友人と会ってランチをした後、バイトだと言う彼女を送り出し一人で神室町を歩き回った。他にすることもないし、家に帰ればどうせまた余計なことを色々と考えてしまう。周囲のことや、自分のことや、東さんのことを。

 はっきりと“気持ちに応えられない”と言われたのだ。このままフェードアウトするのが一番良いのかもしれないと思いつつも、街中にあるカプセルトイの機械を見るたびに東さんを思い出した。

 初めて会ったあの日、何度も『デコレオーシャン』を回す私に東さんは「欲しいもんあんだろ?出してやるよ」と言って、一番欲しかったシーラカンスのおもちゃを出そうとしてくれた。私はそれを断り、やっとの思いで引き当てたシーラカンスと引き換えに、東さんのハゼを手に入れた。

 私が彼に渡したシーラカンスはもう捨てられてしまっただろうか。別にそれでもいい。結局私は“生きた化石”の名に相応しいシーラカンスのままで、これからも変わることはないんだろう。そんな私なんかゴミ箱に捨てられて当然かもしれない。

 考えれば考えるほど虚無感に襲われ、一度立ち止まり軽く頭を振った。スマートフォンで時刻を確認すると午後六時過ぎ。それは私にとって生まれて初めての告白をしたあの日、東さんの顔を見にシャルルへ行った時刻と全く同じだった。

 ふと周囲を見る。先ほどまで劇場前通りを歩いているつもりだったが、いつの間にかシャルルの近くまで来ていた自分に気が付いた。それは全くの無意識で、足がシャルルまでの道を覚えていた、というように思える。

「なにしてんだろ……」

 自分で自分を叱るような独り言とともに大きなため息を吐き出す。私は取り出していたスマートフォンをバッグにしまうと、踵を返し駅に向かって歩き出した。これ以上ここに居るべきではない。さっさと家に帰ってさっさと寝てしまおう。そう思った時だった。

「ねぇカーノジョ。なにしてんの?ひとり?」

 背後から妙な声が聞こえた。自分に言われたものではないだろうと思い振り返らず歩き続けようとしたが、何か強い力で引かれ動きを止められる。驚いて振り返ると見知らぬ男が私の腕を掴んでいた。

「ちょっとぉ、無視するなんて冷たすぎねぇ?」

 まるで私を知っているような口ぶりに一瞬顔見知りかと思うも、男性の顔に見覚えは一切ない。どう返答すべきか迷っていると、男性は強い力で私の手を引き歩き出した。

「ね、ね、俺いま一人でチョー暇なんだよね。一緒に飲も!良い店知ってんだぁ」

 こちらの拒否権など関係ないと言わんばかりに男性は歩き始め、軽くパニックになりかける。私の腕を引く力は強く、振りほどくことも出来ない。男性からは微かにお酒のにおいが漂ってきて、まだ六時という時刻であるにもかかわらず既に酔っているのだろうかと少し呆れた。

「あの、結構です。私もう家に帰らなきゃなので。放してください」

「え、まだ七時前とかっしょ。もう帰んの?もしかして門限とか?ウケんだけど」

 男性は楽しそうにキャッキャと笑いはしゃいでいるような様子に見える。このままではまずいと思った私は抵抗し立ち止まろうとするも男性の力に適うはずもなく、バランスを崩しその場に転ぶように膝をついた。これには流石に男性も驚き立ち止まったが、掴んでいる腕を放そうとはしない。

「えーちょっとー、これじゃオレがキミに乱暴してるみたいじゃん。勘弁してよ」

 先ほどまで優しかった声色が急に低くなり恐怖が増してくる。地面についた膝は少しだけ擦りむいてしまったようでヒリヒリと痛んだが、私はこの状況をどう切り抜けようかと必死に考えていた。

 交番に行こうにもこの場所からだと遠すぎる。大声を出そうにも事を荒立てたくはないし、そもそもこの神室町で男女の揉め事など日常茶飯事のため、誰かが私の声を聞いたところで助けてくれるとは思えない。

 ふと頭の中に東さんの顔が浮かんだ。もし彼がいまこの状況を見たら助けてくれるだろうか。たとえば“こいつ、お前の男か?”なんて律儀に確認を取ってから助けてくれそうな気がする。そんなことを考えていると恐怖を感じていたはずなのに少しだけおかしかった。



 誰かが私の名を呼ぶ。腕を引く名も知らぬ男性は私の名を知らないため、その人の声ではないということは分かった。というよりも、私の名を読んだその声には聞き覚えがある。聞き覚えがあるというより、耳にこびりついて離れない声だった。

 地面に膝をついたまま顔を上げて声の方向を見る。少し離れたそこには東さんが立っていて、私を見つめていた。

「ひが……」

 私が名を呼び終わる前に、東さんは大股でこちらに近付き膝をついて地面にへたり込んだままの私と、私の腕をいつまでも放しそうにない男性を交互に見てから言う。

「こいつ、お前の男か」

 東さんの言葉は私が想像していた通りで、こんな状況にも関わらず思わず笑ってしまった。その情けない顔のまま私は彼を見つめ、ゆっくりと首を横に振る。すると東さんはフンと笑い、骨を鳴らすかのように軽く首を傾げた。

 次の瞬間、素早い動きで東さんが男性の腕を掴む。男性は驚いたのかすぐに私を解放し、東さんの手を振り払うと慌てた様子で距離を取った。

「汚ねぇ手でに触るんじゃねぇよ。失せろ」

 東さんが低い声で凄むと、男性は何の言葉を口にすることもなく黙ったままその場からそそくさと立ち去った。

 男性の姿が街に消えたその時に私はやっと、いま居る場所がシャルルのすぐ近くだと気が付いた。東さんは店から外に出た時にたまたま私の姿を発見して助けてくれたのだろう。その“たまたま”がとても嬉しく自分は運が良かったのだと思う反面、 その“たまたま”が神さまの意地の悪さを知らしめている気がした。

 自分の気持ちを東さんに拒否され、彼に会わないよう店も行かなくなり、いつかは忘れなければならないのかもしれないと考えていたのに、こうして“たまたま”会えて、“たまたま”助けてもらって、私はやはり彼が好きなのだと痛感した。神様は本当に慈悲深く、意地が悪いと心底思う。

「おい、大丈夫か」

 東さんは座り込んだままの私と目線を合わせるようにしゃがみこみ声をかける。久しぶりに見たその顔は当然ながら何も変わっていない。数週間しか会っていなかった時間が私には酷く長く感じた。ふと気が付くと、東さんの手が伸びてきて私の頬の辺りを半ば乱暴に拭う。その時にやっと私は涙を流していることを自覚した。

「泣くなよ。どっか痛ぇのか?」

 恐らく擦りむいたであろう膝が痛い。そう思ったが口にはせず、ただ自分の目から零れ出る涙を止める努力もせず、頬に触れている東さんの指先の感触に酔いしれた。

 私はきっと、これからも彼を好きで居続けるんだろう。たとえ拒絶されたとしても、嫌われたとしても、きっと一生想い続けるのだろう。それだけが私の胸に残る確かな感情だった。