溺れるシーラカンス - 6
正直に言ってしまえば、“好き”だと言われて心が揺れた。年下の男に懐かれることはあっても、女に懐かれて尚且つそれに恋愛感情を抱かれるなんてことは今までに経験したことがなかった。しかし心がどれだけ揺れた所で俺の応えは決まっていた。
“悪ぃが……その気持ちには応えられねぇよ”
なんの躊躇いもなくスムーズに口から出た言葉に後悔など微塵もなかった。心の底から本当に思っていたことだからだ。あいつはまだ若い。俺みたいな男に気を取られるよりももっと年齢の近いカタギと関係を持った方が良いに決まっている。誰だってそう思う。俺自身、今だってそう思っている。
それなのに、最後に見たあいつの顔がずっと忘れられないのは何故なんだろう。悲しそうな表情でも怒っているような表情でもない。ただ俺の目を真っすぐ見つめて俺が好きだと言った顔。
あの日から数週間経ったがは一度もシャルルに顔を出していない。店に置いてあるガチャガチャを回す客は以外にほとんどいないため、埃が積もっているのではないかと錯覚するほどに寂しげに見える。
俺はいつも通りカウンターに寄りかかり狭い店内をぼんやりと眺めた。客がいないフロアの様子も、やかましいゲームの稼働音ももうとっくの昔に慣れている。違和感を覚えているのは恐らくの顔を見ていないからなんだろう。それは分かっていた。
自分の中での存在が大きくなっている。惚れた腫れたとかは関係なく、ただ俺はあいつに傍に居て欲しいと感じていた。しかし突き放したのは俺自身。自業自得でしかない。
本日何度目か分からないため息を吐き出す。煙草でも吸うかと考えながらバックヤードに続く扉に手をかけた時、カウンターの隅に置かれていたシーラカンスのおもちゃが目についた。それはからガチャガチャを回さないかと誘われ、俺が出したハゼとあいつのシーラカンスを交換した時の物だ。
扉にかけていた手を離しなんとなくカウンター上のシーラカンスを手に取る。こんなものいつまでも飾っておいても仕方ないとも思うが、捨てるなんて気にはとてもなれない。いつかがこいつを取り戻しに来るかもしれないなんて期待をしてしまっている自分に嫌悪を覚えながら、俺はそのシーラカンスをスラックスのポケットにしまい込んだ。
煙草を吸うよりも、少し外の空気を吸った方が良いかもしれないと思い、俺は店の外に出ることにした。そういえば最近煙草が値上がりしたため少ない給料からの出費が馬鹿にならない。それでも禁煙をする気にはなれないのでせめて吸う数を減らそうか、などというようなことを考えながら地上に出る階段を上る。
その時。階段を上り切る前に男女が言い争うような声が聞こえた。
「あの、結構です。私もう家に帰らなきゃなので。放してください」
「え、まだ七時前とかっしょ。もう帰んの?もしかして門限とか?ウケんだけど」
その内容を聞く限り恐らく男が女をナンパでもしてどこかに誘おうとしているのだろう。こんなのは神室町では日常茶飯事で何の気にもならない。しかし俺は女の声に聞き覚えを感じ、小走りで階段を上り切ってからすぐに声のしている方向を見た。
俺が目線を送った瞬間、女がバランスを崩しその場に転ぶように膝をつく。その女はだった。久しぶりに見る姿は当然ながら何も変わっていない。数週間しか会っていなかった時間が俺には酷く長く感じた。
「」
何の躊躇いもなくその名を口にし、は顔を上げこちらを見ると驚いたように目を丸くしていた。そして奴の目の前にはいかにも今時というような冴えない男が立ち、の腕を掴んでいる。
俺は大股で二人に近付くと、地面にへたり込んだままのとの腕を掴んでいる男を交互に見る。
「こいつ、お前の男か」
にそう問いかけたが答えはなんとなく分かっていた。もし本当にこの男とがそういう関係だったとしても、こいつは女に膝をつかせ恐らくは怪我までさせているであろうクソ野郎だ。どちらにせよ許す気はない。
俺の問いには困ったように笑いながら首を横に振る。何故そんな表情をするのか分からなかったが、このクソ野郎がの男ではないという確認が取れたため、俺は手加減なしの強い力で男の腕を掴む。
「汚ねぇ手でに触るんじゃねぇよ。失せろ」
男は情けない顔をしたかと思うとすぐにから手を離し、何も言わず俺の手を振り切ってそそくさと逃げて行った。
しゃがみこんだまま一向に立ち上がろうとしないが心配になり顔を覗き込むと、見たことがないくらいの大粒の涙を流していた。慌ててスラックスのポケットに手を突っ込みまさぐるも、シーラカンスのおもちゃが入っているだけでハンカチどころかティッシュすらもない。
俺はの頬に手を伸ばし涙を拭ってやりながら、体の状況を見た。地面についた膝は軽く擦りむいているがそこまで深い傷ではないだろう。男に掴まれていた腕は軽く変色しているようにも見えるが、外傷と言うほどでもない。
恐らくがいつまでも地面にへたり込んでいるのは安心して腰でも抜けたのだろうと判断し、俺はをおぶるため背を向けて跪いた。
「ほら、店まで運んでやるから、おぶされよ」
そう言ったが、数秒間何の反応もなかったため心配になり後ろに振り返る。は戸惑ったような表情でこちらを見ていたためじれったさを感じ、俺は思わずチッと舌打ちをすると煽るように声を上げた。
「早くしろ。この体勢疲れんだろうが」
そう言うと、はすぐに俺の背中に体を預けた。手で足を支えながら立ち上がると思いのほか簡単に持ち上がったことに驚きつつ、もしかしてこういう時はおんぶではなく横抱きの方が良かっただろうか、と考えるももう遅い。
ゆっくりとシャルルの階段を下り店に入ると、そのままバッグヤードに向かい古びたソファの上にの体を下ろす。両膝から血が滲んでいたため怪我の治療が出来るもの、たとえば救急箱などがあっただろうかと記憶を巡らせた。
適当に開けたロッカーの中からそれらしき保管ケースを発見し中身を確認すると、絆創膏や消毒液のような軽い応急処置が出来る道具がいくつか入っていた。ケースをテーブルの上に置き、の前に跪いて両膝をまじまじと見る。とても小さくて丸い膝小僧はまるで子供のもののように見えた。
ケースから消毒液の容器を取り出し、血が滲んでいる膝にガーゼを当てるため手を伸ばしたのと同時に、が「自分でやります」と声を上げる。まだ鼻声のような涙声のようなそれを無視し、俺は患部に消毒液を塗った。
「いいからじっとしとけ」
俺がそう言うとは口を閉じ微動だにしなくなった。滲んでいた血を拭きとり消毒終えた患部に絆創膏を貼って応急処置を終える。俺はすぐにその場に立ち上がると、今度はの腕を取って見た。は混乱したような表情を見せたが抵抗することもなく黙り込んでいる。
先ほどのクソ野郎に掴まれていた腕は変色はしているものの大事には至らないであろうと思われた。そもそもは何故あの場所に居たのか。夜の神室町は昼間の何倍も危険だ。こいつのような若い女が一人でふらふら歩き回ればどんなトラブルに巻き込まれるかも分からない。
「細っせぇ腕だな。ちゃんと食ってんのか」
無意識に呟くと、は驚いたような顔でこちらを見る。その瞳には未だ涙が滲んでいた。
こいつはもしかしたら俺に会おうとあの場所に居たのかもしれない、となんとなく思った。自惚れでも思い過ごしでも良い。そうだったら良いと考えてしまった。は俺に会いに来たんだと。
「なぁ」
腕を取ったまま小さく声を掛ける。は驚きの表情を崩し、応えるように俺の目を見つめた。
「この間の言葉、少し訂正させてくれ。“お前の気持ちには応えられない”って言ったけどよ、正直、応えたい、……とは思ってる」
こんな言い方は卑怯かもしれない。曖昧でずるいかもしれない。俺が好きだと告げた女を振っておきながら今更こんなことを言うなんて酷かもしれない。それでも俺は今、応えたいと思った。俺を好きだと言ったの気持ちに応えてやりたいと、心の底からそう思った。
スラックスのポケットに手を突っ込み、先ほどから入れっぱなしだったシーラカンスのおもちゃを取り出す。それを手のひらに乗せての前へ軽く差し出した。
「これはいつかお前に返すべきだって思ってたんだが……もう少し、俺が持っててもいいか?」
なんとなく感じていたことがある。以前渡されたこのシーラカンス。は“シーラカンスはもうすでに二つ出したので東さんのハゼと交換したい”というようなことを言ったが、俺はそれは嘘なんじゃないかと疑っていた。
そう感じていたのにそれでも受け取ったのは、が何回もガチャガチャを回して出した思い入れのあるシーラカンスを俺に渡そうとした、その気持ちが嬉しかったからなんだろう。そしてと重ねて見ていたシーラカンスを、俺が欲しいと思ってしまったからなんだろう。
「私、東さんを好きでいても良いってことですか」
はソファから立ち上がり俺との距離を詰める。先ほどまで涙で滲んでいた瞳は見違えるほどに輝いて見え、急な発言と迫力に軽く押された俺は「あー」や「それは」などという曖昧な返答を繰り返す。するとの表情が一瞬にして曇り、その急な変化がひどく可笑しかった。
「馬鹿野郎、そんな顔すんな」
思わず軽く笑いながらそう言うとの表情が一瞬固まる。そして次の瞬間、頭突きでもするかの如く俺の胸の辺りに飛び込んできたかと思うと背中に手を回し、体を密着させて思いきり抱き着いてきた。衝撃で俺の手のひらからシーラカンスのおもちゃが落ち、床に転がる微かな音が聞こえる。
何が起きたのか理解できず、声を上げることも体を動かすことも出来なくなる。抱き着いてきたの体を抱きしめ返そうと反射的に腕が動いてしまったが、ちょっと待てと思い留まる。両手を小さくホールドアップした俺の姿は端から見ればまるで拳銃を突き付けられ追い詰められた犯罪者かのようだろう。
体を固めたままで居ると、背中に回っていたの腕がきゅっと締まった。
「わたし、東さんが好きです。絶対、諦めませんから、絶対」
俺の胸に顔を埋めたまま、潰れたような声でが囁く。分かったから離れろ馬鹿野郎、なんて思いつつもその言葉は口にせず、俺は頭をほんの少しだけ下に向け、の髪に口唇を落とした。