溺れるシーラカンス - 7
八神探偵事務所。それは神室町の中道通りから一本入った場所にあり、噂によれば月々の家賃を払うのも難しいくらい経営が難航していると聞く。経営者である探偵の八神隆之は元弁護士という経歴を持ち、経営難の事務所を運営している割に顔は広く、存在を知っている人も少なくはない。言うなれば“知る人ぞ知る有名人”と言ったところだろうか。
そんな弱小探偵事務所に一人の依頼人が訪れていた。名は。事務所調査員の海藤は以前に彼女と会ったことがあり、顔を見るなりに「東の女!」と口にしたが、はその言葉をすぐに「違います」ときっぱり否定した。
はテーブルに出されたコーヒーに礼を言いつつ、正面にある一人掛けのソファに座った八神の顔をまじまじと見つめる。
「で、依頼の内容は?」
八神は姿勢を正しながら改めて尋ねたが、は何か言いにくいことがあるかのように自分の膝の上に置いた手をもぞもぞと動かす。その様子を不審に思った八神は目を細めた。
「ええと、あの、すみません。依頼というか相談なんですが……」
「はい?」
「今回は八神さんではなくてですね、海藤さんにお話を聞いて頂きたく……」
「え?俺じゃなくて?」
予想外の言葉に思わず問うと、は頷きつつ申し訳なさそうに頭を下げた。名を出された海藤はいつも八神が座っている事務椅子に腰を掛けていたが立ち上がり、どこか得意げな顔で二人に近付く。
「ほぉ、ター坊じゃなくて俺を頼りたいって?ちゃん見る目あるじゃねぇか」
そう言う海藤に対し八神は何も言わなかったが、呆れ気味に大きなため息をつく。八神とは初対面であるが海藤とは面識があるため、ここは海藤に任せてしまった方が手っ取り早いような気がすると思うも、八神はそれを海藤本人に話すのはなんだか癪だと感じていた。
「で?依頼……じゃなくてその相談ってのは?」
八神はに問いかける。海藤に相談したいことならばボディガードか、それとも懲らしめたい奴が居るとか、そのあたりだろうかと予想しつつの言葉を待つ。しかし彼女の口から出た言葉は八神の予想に反するものだった。
「東さんをデートに誘いたいんですけど、どこだったら良い返事を頂けると思いますか?」
場の空気が凍ったかのように一瞬静まり返り、神室町の喧騒が遠くに聞こえた。八神は数回瞬きをしての顔を見たが彼女の表情は真剣そのもので、今の問いの答えを心の底から欲していることが良く分かる。
「あー……悪い。これは俺分かんねぇわ。海藤さんに任せた」
八神はまるで降参するかのように両手を上げながら立ち上がり、ソファを海藤に譲る。しかし海藤はそこに座ることはなく、慌てた様子で八神に迫った。
「おいちょっと待て。東の口からその手の話題なんか出たことねぇし、そんなの俺が分かるわけねぇだろ!」
「いや海藤さん、そこは兄貴として何か分かることあるでしょ。一緒にキャバとか行ってるんだしどういう子が好みだとかどういう遊びが好きだとかさ」
「お前、キャバ嬢とちゃんを一緒にしちゃダメだろうが!」
が目の前に居ることも忘れ大声を出してしまった海藤は自分の行動にハッとし、恐る恐る彼女の方向を見る。しかしは先ほどと変わらない真剣な表情で真っすぐに海藤を見つめていた。
海藤は軽く咳払いをし八神が譲ったソファに座る。改めての顔を見ると、シャルルで初めて顔を合わせた時のことをぼんやりと思い出した。
あの日、まとまった現金が手に入った海藤は元舎弟である東を夜の店に誘おうとシャルルを訪ねた。そこに現れた女が今目の前にいる。特に目立つような外見的特徴があるわけでもなく、顔もスタイルも普通。言うなれば至って平凡な女、という印象だった。
しかし海藤にはなんとなく感じることがあった。東と。二人が纏う雰囲気とお互いを見る目。そこから感じる何かが。
「いや、なんつーかはっきり言っちまうとよ……、ちゃんだったらどこでもOKすると思うぜ、あいつ」
事務所内に「え!?」という声が響いたが、それは八神の物だったのかの物だったのか最早分からなかった。予想外の返答には身を乗り出す。
「どこでもって……映画でもですか?」
「おう」
「動物園でも?水族館でもですか?」
「おう」
「テーマパークに行ってお揃いのカチューシャ着けようって誘ってもですか?」
「おう……え!?あ、いや、それは分かんねぇけど、いやまぁ……い……イケんじゃねぇか?」
「ちょっと海藤さん。なんかテキトーに言ってない?」
「うるせぇ!ター坊は黙ってろ!」
八神が茶々を入れ、海藤が慌てて反論する。しかしはそのやり取りが全く気にならないといった様子で、希望に満ち溢れたような嬉しそうな表情を浮かべながら自分の両頬を手のひらで包んでいた。
「分かりました!やっぱり水族館に誘ってみようと思います!ありがとうございます!」
は大きな声でそう言うなり立ち上がり、二人に向かって深々と頭を下げる。その妙な迫力に八神と海藤ともに何も答えられず、今にもスキップでもしだしそうなほど上機嫌に事務所を出ていくを静かに見送ることしか出来なかった。
海藤はいつも通りの男二人きりになった事務所内をぼんやり見つめながら、“やっぱり女の子が居るだけで空気が変わるなぁ”などというようなことを考える。八神はというと、自分の指定席である事務椅子にどかりと腰を下ろし煙草に火を付けながら、への対応はあれで良かったのだろうかというようなことを考えていた。
「後からクレームとか来ないといいけど……」
揺れる煙草の煙を見ながら八神は独り言を呟いた。この場合の“クレーム”というのはからのクレームと東からのクレームの両方だ。恐らく可能性は後者のほうが高いだろう。八神には「に変なこと吹き込むんじゃねぇ!」などと怒鳴りにくる東の姿が容易に想像出来た。
「大丈夫だって。断言してもいい。東は間違いなくちゃんに惚れてる」
まるで全てを分かっているかのような口ぶりで言う海藤に対し、八神はその言葉が信じられず、煙草を一吸いすると大きなため息を隠すかのように煙を吐き出した。
「間違いなく惚れてるって……、その根拠は?」
「それは……まぁ、そのー……俺の勘だ!」
八神は口には出さずに“まぁそんなことだろうと思ったよ”、と心の中で呟きながら、今度は煙草の煙で隠すことなく大きなため息をついた。
果たして、未だ発展途上である二人がこの先どうなるのかは誰にも分からない。八神は二人の行く末が上手くいこうが失敗しようが一先ずはどちらでもいいと思いつつ、東からクレームが来ないことだけを祈った。
END
(2021.9.19)
後日譚
愛しきエンヴィー
吐き出すコンフェッション