さっさと、好きだと、言いやがれ - 5
翌日、私は初めてバイトを休んだ。人前に出て接客をするような心持ちではなかったし、無理矢理にでも笑顔を浮かべることすら出来ないと思ったからだ。
自宅で一人ベッドに寝転がり、何もない白い天井を見ながら考えた。東さんと、羽村のカシラと呼ばれていた男性はどんな関係なのだろう。『カシラ』と敬称がついているくらいだからきっと羽村のカシラは東さんよりも位が上で、組の中でも組長さんに次ぐ絶対的存在なのかもしれない。昨日の東さんは羽村のカシラに対して敬語だったし、言葉にならないような曖昧な声ばかりを口にしていた。言いたいこともはっきりと言えないような相手なのだろう。
様々な考えを頭の中で往復させつつも、昨夜東さんが口にした『迷惑だって言ってんのが分かんねぇのか』という言葉を思い出す。東さんの表情や声のトーンを思い出すと、喉の奥になにかが突っかかったように呼吸が上手く出来なくなった。鼻の奥がぎゅっと狭くなり、目の奥が熱くなってくるのが分かる。
遅かれ早かれ『迷惑だ』と言われるのは分かっていた。何故なら私は普通の一般人、いわゆるカタギだからだ。東さんはヤクザで私はカタギ。私は無知で、非力で、足手まといでしかない。関わってもお互いに良いことはないだろう。ふと、いつだったか自分が口にした言葉を思い出す。
“私、ゲームは下手だから足手まといになっちゃうよ”
それは、シャルルに集まり古いゲームで盛り上がっていた男の子に対して言った言葉だ。男の子は一緒にゲームをしたがっていた。しかし私はゲームのことをあまり知らないし得意ではないため『足手まといになるから』と断った。男の子は少し寂しそうな顔をしていたので、私は誘いを断ったことを後悔した。
そんな私に東さんは言った。『足手まといになろうと乗ってやればいい』と。『その方があいつらも喜ぶ』と。たとえ私が無知であろうと、非力であろうと、東さんにとって足手まといになろうと、好きでいることは止めたくなかった。東さんにどう思われるかは分からない。喜ばれるなんて自惚れた考えは持っていない。ただ私が彼を好きでいたかった。
ぐぅ、という情けない音が部屋に響く。それはお腹の音で、そういえば朝目覚めてから何も口にしていないことを思い出す。家に買い置きの食材はないし、インスタント食品も底をついている。バイトは休んでしまったが少しくらいは外の空気を吸った方が良い気分転換になるかもしれないと考え、私は適当な服に着替えて外に出た。
自宅を出てから少し歩くとPOPPOがあったため、迷いなく入る。おにぎりとサラダと何か飲み物でも買って帰ろうかと思っていると、スイーツコーナーが視界に入った。そこにはあの日、東さんに貰った『卵たっぷりこだわりプリン』が並んで置かれていた。発売されてからそれなりに日が経っているせいか、もう既に世間に飽きられ売れ残っているようだ。なんとなく悲しい気持ちになり、私はプリンを手に取りレジに向かった。
真っすぐ自宅に戻り、あの日と同じように正座をしてプリンを食べた。卵の優しい甘さと風味が口いっぱいに広がって鼻へと抜けていく。上にのっているホイップクリームも、容器の底にあるカラメルソースも、何もかもがバランス良く存在しており、本当に心の底から美味しいと思えるプリンだ。それなのに心が躍らない。口の中にあるのは確かに“美味しい”という感情なのに、何故か涙がこぼれた。
私はそのまま部屋を飛び出した。東さんに会いたい、東さんの傍に居たいというただその想いを持って神室町まで走る。自宅から神室町までそこまでの距離はないため、あっという間に私の足は七福通りに差し掛かった。目指したのは松金組の事務所だった。
ガラス扉を押し開けビル内に入る。階段をのぼった先にある事務所のドアの前に立つと、中から人の話し声が聞こえた。
東さんに『好きになっても良いですか?』と告げた時、私はこのドアを開けて彼を追いかける勇気がまだなかった。しかし今ならある。今ならなんだって出来る気がした。私は勇気を出さなければならない。覚悟を決めなければならない。そう思い、数回ノックしてから返事も待たずにドアを開けた。
「こんにちは!組長さん、いらっしゃいますか?」
事務所内に入るのと同時に叫ぶように挨拶をした。中にいた強面の男性たちの視線が一斉にこちらに集まり、迫力に足がすくむ。しかし怖いなどと思っていられなかった。私は自分を鼓舞する意味を込め大きく息を吸う。
「私、と言います!私をヤクザにしてください!」
決して広くはない事務所内に声が響き渡り、組員の男性たちが呆然としているのが分かった。私は今までにいくつか任侠映画を見てきたが、出てくる女性はキャバクラや風俗店で働いているか、ヤクザの奥さんであるかのどちらかだ。これは想像だが、ヤクザの女組員というものは存在しないのだろう。存在しないのなら私が前例になってやる。ヤクザになって、覚悟を決めたことを東さんに知らせたかった。
何とも言えない空気が流れる中で辺りを見回すと、どうやら東さんと羽村のカシラはここには居ないようだった。そして強面の男性組員をかき分けて一人の人物が前に出てくる。見慣れたシャルルの制服を着ている姿を見て、思わず「あ」と声が漏れた。青ざめた表情をしながら私に近付いてきたのはシャルルの従業員さんで、彼が松金組に関係ある人物なのだろうということは分かっていたため、やっぱりそうかと呑気にも思ってしまう。
「バ、バ、バカかお前!ここ、ヤクザの事務所だぞ!自分がなにしてるか分かってんのか?」
従業員さんは震えた声で言った。ここがヤクザの事務所だということも、自分が何をしているのかも良く分かっている。従業員さんは私を追い返そうとしているのか肩を掴み、軽く押した。力は優しいものだったが、私の体は少しだけ後退しよろめく。大人しく帰るわけにはいかないと思い脚に力を込めたその時、背後に人の気配を感じた。
「おう、何だい。お嬢ちゃん」
振り返り、声の主を確認する。そこには以前この事務所ビルの前で会ったおじいさんが立っていた。あの時はこの人がどういう存在なのか分かっていなかったが今の私には分かる。東さんが『おやじ』と呼んでいたこのおじいさんが、松金組の組長さんなのだと。
「なんだよ。今日は随分と賑やかだな」
組長さんはゆっくりと歩を進め部屋の中に入り、辺りを見回してから言った。周囲にいた男性たちは一斉に頭を下げ、口々に「ご苦労様です」や「お疲れ様です」などの挨拶を叫んでいる。組長さんは大きな声の挨拶を体中に浴びながら、誰かを探すように再び辺りを見回していた。
「なぁお嬢ちゃん。俺と少し話ししようじゃねぇか。どっかでお茶でもどうだ」
組長さんはこちらに背を向けたまま言ったので、初めは自分に言われたのかどうかが分からなかった。しかし今この場所に女は私ひとりしか居ないため『お嬢ちゃん』という呼びかけから自分に向けられた言葉なのだと理解する。
「は、はい」
妙に緊張し、声が上ずってしまったことを自覚した。組長さんはこちらに振り返ると「いい店知ってんだ。連れてってやるよ」と言って笑う。その表情がこの上なく優しく感じてしまったのは、強面の男性たちに取り囲まれていたせいもあるのかもしれない。組長さんが現れたあとは、事務所に居た男性たちも何も言わず、従業員さんも困惑した表情のまま黙って私を見ていた。
連れて行かれたのは千両通り近くのビルに入っている『ヒストリアイ』という喫茶店だった。組長さんは席に着くなり「なんか甘いもんでも食うか?」と言いながらこちらにメニューを渡してくる。私は恐縮してしまいそれを断りつつ、店で一番安いホットコーヒーを注文することにした。
「おめぇさんのことは良ーく聞いてるよ。東の奴について回ってんだって?」
注文したコーヒーが来るよりも先に組長さんが話し出した。以前東さんが『カタギの女に付きまとわれていると笑いものになっている』とこぼしていたことを思い出す。羽村のカシラも私のことを『ウチを嗅ぎまわってる怪しい女』と言っていた。恐らく私は、松金組ではあまり良い噂になっていないのだろう。
組長さんに対して何も言えずに黙り込んでいると、店員さんがコーヒーを運んできた。組長さんは何も注文していなかったようで、テーブルにひとつだけ置かれたコーヒーカップは音もなく湯気だけを出し続ける。そこへ口をつけることがどうしてかはばかられた私は、ただ黙ったまま組長さんの言葉を待った。
「あいつは……、東はよ……、あんたに惚れてるよ」
思わず組長さんの顔を見る。表情は変わらないままの穏やかな優しい笑顔で、嘘や方便なのではないということが良く分かった。
「東の奴、あんたの話が出た日にゃ、これでもかってくらい良い顔しやがんだ。まるで昔に戻ったみてぇな顔だ。俺もそれ見んのが嬉しくてよ」
噛み締めるように聞き入る。本当は私自身もそう信じたかった。東さんはいつか私のことを好きになってくれると思いたかった。私が東さんに好きだと告げたあの日、彼はただ『そうかよ』と口にして否定も肯定もしなかった。ただ密着する体と肩に触れた手がひどく熱くて、それが“答え”なんだと自分勝手に解釈していた。自惚れだと言われても構わなかった。
「だがよ、お嬢ちゃん」
組長さんの声のトーンが変わったことに気が付いた。先ほどまでの穏やかで優しい笑顔は段々と薄くなり真剣な目つきになる。それは怒っているわけでも、こちらを睨んでいるわけでもないようだった。
「分かってるとは思うけどよ、俺たちゃ極道だ。カタギのあんたが関わったって良いことはひとつもありゃしねぇ。それでもあいつと……、東と、一緒になりてぇって、そう思ってんのかい?」
私の答えはもう出ていた。組長さんの言葉に間髪入れずに「はい」とはっきり返事をする。組長さんは少しだけ目を丸くした後、すぐにふふ、と息を吹き出して笑った。まるで堪え切れない感情が溢れ出してしまったかのような笑いだった。
「そりゃいい。それ聞いて安心したぜ。ありがとうな、お嬢ちゃん」
組長さんは笑いながら言うとそのまま席を立つ。テーブルに置かれた伝票を掠めるように取ると、私を見下ろし優しく笑った。
「東の所に行ってやってくれ。俺がなんとかしてやれりゃ良いんだが……不甲斐ねぇ親だよ。あいつにゃ、おめぇさんが必要だ、お嬢ちゃん」
何と応えれば良いか分からず黙っていると、組長さんは迷いなく歩き出し、お勘定をして店から去っていった。店員さんの「ありがとうございました」という上品で落ち着いた声が聞こえる。取り残された私はテーブルの上に置かれたコーヒーを見つめた。未だに湯気を上げ続けている黒い水面に自分の姿が写っている。
カップを手に取り一口だけ飲む。普段からコーヒーを飲む機会は少ないため良く分からないが、とても良い香りの美味しいものだと感じた。心地良い苦みが口の中に広がっていくのが分かり、身が引き締まるような思いになる。
東さんに会いに行こうと思いながら席を立った。たとえもう一度『迷惑だ』と言われても『俺に関わるな』と言われても、引き下がってなんかやるもんか。東さんに嫌われる覚悟も好きになってもらう覚悟も、私には出来ているのだから。
喫茶店からシャルルまでは走って数分ほどの距離にあったが、私にはその道程が瞬きを一度したくらいの短さに感じた。地下へ続く階段を駆けおり、ガラス扉へ向かって体当たりをするかのように飛び込んで押し開ける。いつも通り客はおらず、東さんはカウンターに両肘をついて寄りかかり何処か遠くを見ているようだった。私の存在に気が付くと驚いた様子で目を見開く。しかしその表情を隠すかのようにすぐに眉間に皺を寄せ、こちらを睨むように目を細めた。
「もう俺に関わるなって、言ったよな?」
低く唸るような声。言葉と表情と声で私を威嚇しているつもりなんだろう。しかし私はひるまない。ひるむわけにはいかなかった。東さんから目をそらさず、彼に向かって真っすぐに歩を進める。私たちを隔てるのは小さなカウンターだけとなった。
「さっき、松金の組長さんとお話ししたんです。組長さん言ってました。東さんは私に惚れてるって」
東さんは険しい表情を崩し、再び目を見開いて私を見た。目は泳いでおり明らかに動揺していることが分かる。それを誤魔化すようにカウンターに寄りかからせていた体を持ち上げ背筋を伸ばしたが、私から言わせれば無意味でしかなかった。東さんのことはもう分かっている。根拠も何もない自信が、私の中に確かに存在した。
「私は頭も悪いし、力も弱いし、東さんにとって足手まといでしかないことは分かってます。それでも私は、あなたに好かれたい。あなたに“好きだ”って言われたい。それだけなんです」
私はそう言いながら一歩前へ出て、東さんが立っているカウンター内に入ろうとした。その時、東さんは急にこちらに背を向け控室のドアを勢いよく開ける。そこへするりと入り込むと、そのままドアを閉めようとした。
「待ってください!逃げるんですか!」
閉まり行くドアに手をかけ、それを阻止する。隙間から東さんの顔が見えたが、表情は確認出来ない。東さんは強い力でドアを閉めようとしており、私も同じように力を込めてドアを開けようとした。
「おい、放せ」
「嫌です。放しません」
この押し問答は端から見れば子供の喧嘩のように見えるかもしれない、などと他人事のように考える。しかしそんな余計な思考を持ったせいか、ほんの少しの油断で私の手は僅かに滑り、ドアに指を挟まれた。そこまでの痛みは感じなかったが、衝撃で思わず「あ!」と大きな声が出る。声に驚いたのか、東さんはドアに力をこめることをやめたようだった。私も同じようにドアから手を放し、挟んだ部分をかばいながら見てみる。少しだけ赤くなっていた。
「おい!大丈夫か!」
東さんは迷いなく私の手を取り、自分の方へ引き寄せた。私を追い返そうとしている状況だというのに、心の底から心配をしてくれている様子を見て胸の奥が狭くなる。赤くなっている部分を指で優しく撫でるようにしながらゆっくりとこちらに目線を向けた。その目はひどく優しかった。
「……悪かった。お前を傷付けるつもりは、なかった」
謝罪の言葉は予想しておらず、意外に感じる。私は無理矢理に笑顔を浮かべると「こんなの傷のうちに入りませんよ」と小さく言った。東さんは一度眉を動かし歪めると、チッと舌打ちをした。
「俺が言ってんのはそういうことじゃねぇ」
東さんが独り言のように呟き、私は思い出したようにハッと息を飲んだ。
彼が『傷付けるつもりはなかった』と言ったのは、先日告げた『迷惑だ』という言葉のことなのだと気が付く。あの言葉を浴びせれば私が傷付くということを東さん自身も分かっていたのだろう。そんな風に気遣って貰えたことを嬉しく感じる。東さんにならばいくら傷付けられたって構わない。そう思ったが、それを彼に伝えたら苦い顔をされるのだろうということは分かり切っていたので口にはしなかった。
手を伸ばし、赤くなった指で東さんの頬に触れた。先ほどまで見せていた険しい表情でも、驚いた表情でもない。穏やかで優しい目をこちらに向けている。松金の組長さんが言っていた、私の話をする時の『これでもかというくらいの良い顔』というのはこのことなのだろうかと、自惚れたことを考えた。
「東さん」
名呼んだが、東さんは返答せず、ただ私を見つめ続けるのみだった。
「あなたが極道のままで、そのままのあなたで私を好きだと思える日が、いつか来たら……、私を東さんの女にしてください。私、それまで待ちます。何年でも、待ちますから」
そう言い切った瞬間に腕を引かれ、私の体はバランスを崩し東さんの胸の辺りに倒れ込む。背中に回された手が伸びて肩を掴み、骨が軋みそうな程の強い力で抱き締められた。
「もう、とっくに、好きに決まってんだろ」
耳元で低い声が聞こえると、後頭部に回った手が私の髪を撫でる。煙草と整髪料の香りが混じり合い、東さんにゲームを教えて貰ったあの日のことを思い出した。