さっさと、好きだと、言いやがれ - 6
“好き”だと言われることと、これでもかと強く抱き締められることはどちらが幸せに感じるのだろう。どちらも経験がなかった私は同時に押し寄せた“それ”に頭が混乱していた。肩を強く抱いたままの東さんの腕は一向に力を緩める気配がなく、中途半端に宙に浮いたままだった私の腕は曖昧に東さんのジャケットを掴む。こういうときは抱きしめ返すのが良いのだろうが、この状況と強く締まる腕に呼吸をするので精一杯だった。
「東さん、痛い」
やっと声を絞りだして訴える。彼もヤクザならば喧嘩もそれなりに出来るだろうし、力も強いのだろう。私の軟弱な体は簡単に捻り潰されてしまうのではないだろうかと思うほどだった。東さんは腕の力をやっと緩め、顔を上げて私と目を合わせる。今まで何とも思わずにいたのに、何故か急に見つめ合うことが恥ずかしくなってしまい、私は目を伏せた。
すると東さんはすぐ近くにあった控室のドアを勢いよく開け、私の体は半ば強引に中へ押し込まれた。何が何だか分からずに混乱していると、東さんは後ろ手でドアを閉めつつ私の肩を軽く押す。バランスを崩した私は尻もちをつくような形でソファに倒れ込み、腰の辺りに痛みを感じた。東さんがいつも使っているこのソファは座り心地があまり良くない物なのだということをたった今知る。
東さんは無表情に見える顔でこちらを見下ろし、何も言わずにジャケットを脱いで床に放った。彼が何をしているのか理解出来ずにいると、覆いかぶさるように顔を近付けられ、二人分の体重がかかったソファは頼りなく不可解な音を上げる。
「ひ、東さ、」
名を呼ぼうとしたその時、顎を掴まれ口唇を塞がれた。東さんの名も、抵抗の言葉も、口唇の間で潰れて消える。早く鳴り続ける心臓と奪われる酸素のせいであまりにも苦しい。私は東さんの胸の辺りを数回叩き、解放するように訴えた。僅かに口唇が離れ、はぁ、と大きく息をする。
「馬鹿、鼻で息しろ」
「ちょっと、待ってください、あの、」
「うるせぇ、無理だ」
抵抗もむなしく再び口唇を塞がれた。私の顎を掴んでいた東さんの手は段々と下に降りていき、鎖骨の辺りを優しく撫でる。熱く硬い指先が、まるで私の心臓を突き刺しているようだった。覚悟は出来ていたはずなのに抗おうとするなんて私は馬鹿だったのかもしれない。言われた通りになんとか鼻で息をしながら東さんの背中に手を回したその時、ドアの開く音が響いた。
「ったく東さんってば何処行っちまっ……、」
独り言を呟きながら控室に飛び込んできた従業員さんと目が合い、東さんも同じように彼の姿を確認したようだった。私たち三人は黙り込みほんの数秒固まる。一番初めに声を上げたのは従業員さんだった。
「す、す、す、すいません!お取込み中とは思わず……し、し、失礼しました!!」
従業員さんは深く頭を下げるとそのまま引き下がり、音を立てて勢いよくドアを閉めた。埃っぽい部屋にさらに埃が舞い、僅かな照明を受けてキラキラと輝いて見える。私と東さんはお互いに顔を見合わせた。東さんは何も言わずに無表情のままだったが、どこか不機嫌そうにも見えて思わず吹き出してしまう。
「おい、……何笑ってんだコラ」
なるべく控えめに笑ったつもりだったが、東さんは眉間の皺を深くしてこちらを睨む。その表情すらも愛しさを感じた。
ふと、従業員さんには何と説明するべきなのだろうと考える。もし東さんが私のことを好きだと言ったことを彼に知らせたら、一体どんな反応をするのだろう。「マジかよ!」と驚かれるのか、それとも「東さんをそそのかしやがって!」と怒られるのか。どちらにせよ想像するとおかしくて、私は再び笑った。
あれから東さんは私に『好き』だとは一切言わなくなった。私を傍に置いてはくれるものの、好意的な言葉を聞いたのはあの一度きりで、口説き文句すら口にすることはなかった。
本当に私のことを好きなのかどうかは置いておいて、私は再び東さんを振り向かせようと必死になった。今まで以上に髪や肌に気を使い、メイクやファッションについての情報収集も欠かさない。しかしよくよく考えてみたらヤクザである東さんが相手ならば、私も“それ相応の女”であるべきなのではないかと思う。
私は任侠映画を見て研究するのと同時に、ヤクザ漫画を読んでさらに知識を深めようとした。いま読んでいるのは『傷だらけの極道たち』という漫画で、世に出ているヤクザ漫画の中では特に有名で人気がある作品だった。まるでプロレスラーかのような大きな体のキャラクターや、眼鏡をかけたいわゆるインテリヤクザと呼ばれるようなキャラクターも登場する。中でも目を惹くのはそんなヤクザの恋人たちだった。彼女たちはみな華やかな見た目をしていて、夜の街で働いていた。短いスカート、胸元の開いた煌びやかなドレス、美しくセットされた明るい色の髪。その何もかもが私とは正反対だ。
いつものようにシャルルを訪ね漫画を読んでいると、いつの間にか現れた東さんは不機嫌そうな声を上げた。
「おい……、お前、なに読んでんだ……?」
漫画に落としていた目線を上げて東さんの顔を見ると、声だけではなく表情も至極不機嫌そうだった。私は表紙に書かれたタイトルを見せるように前に差し出して見せる。
「これで“ヤクザの女”ってのを勉強してるんです。私も髪の毛もっと明るくして、スカート短くして、ネイルももっと派手にしようかなぁ。東さんはどう思います?」
「馬鹿か……、お前は今のままでいい」
間髪入れずにそう言った東さんは小さく溜息をついていて、どうやら呆れているようだった。
「……あ!もしかして今のままの私が……す?す?す……?」
さぁ『好き』だと言ってくれ。そんな想いを込めて東さんに詰め寄ってみたが、そんな浅はかな計画に彼は落ちてはくれなかった。睨んでいるのか微笑んでいるのか分からないような、曖昧に細められた目で私を見下ろす。
「言わねぇからな」
「え、じゃあ私のこと嫌いなんですか?」
「……そうは言ってねぇ」
「じゃあなんなんですか?はっきり言ってくんなきゃ分かんないですよ」
首を傾げながら頭の悪い女を演じてみる。すると東さんはチッと大きく舌打ちをしてから私の顎を乱暴に掴み、顔を押し付けキスをした。それはキスと呼ばれるような代物ですらなく、顔と顔がぶつかり合っただけのような気もしたが、私たちの口唇は確かに触れ合った。嗅ぎ慣れた煙草の香りが体の中に入ってくる。
「これで、分かれ」
至近距離のまま東さんが低く呟いた。
この世の女性というものは、百回の愛の言葉と百回のキスであれば、どちらの方が良いと答えるのだろう。私から言わせれば両方だ。東さんからなら両方欲しいに決まっている。彼が好意的な言葉を口にしたのはただの一度きり。ならばあと九十九回、好きだと言って貰おう。いや、こうなったら意地でも言わせてみせる。
「東さん、好きです」
背中に腕を回し抱き着くと、東さんはあの日のように私を強く抱き締め返した。
こうして愛の言葉を口にした時、“俺も好きだ”なんて返してくれないだろうかと淡い期待を抱きつつ東さんの顔を見る。しかし東さんは大げさすぎるほどに盛大な溜息をついてから「知ってるよ」と口にするだけだった。
彼の口からもう一度『好き』の二文字が出るのはもうしばらくは先かもしれない。いや、そんな悠長なことは言わず明日にでも言わせてやろうじゃないか。今まで見て来た任侠映画やヤクザ漫画に出てくるキャラクターの乱暴な言葉遣いを真似て、さっさと好きだと言いやがれ、と心の中で呟いてから、東さんの固く閉じられた口唇にもう一度キスをする。サングラスの奥にある瞳はひどく穏やかで、優しかった。
END
(2022.12.6)
後日譚
息も、心も、差し出せよ