許してよ馬鹿 - 3

 今からもう何年前のことになるだろうか。酷い風邪をひいて数日間ベッドから起き上がれなかったことがあった。当時働いていたキャバクラで誰かにうつされたのだろう。あの頃の私は慣れない仕事で疲労とストレスが溜まっていたせいか、単なる風邪が思いのほか悪化してしまった。トイレだけはなんとか這いずって行ったものの、食事やお風呂などはままならない状態だった。

 そんな私を看病してくれたのは付き合う前の徹だった。当時の私たちの関係は友人などではなく単なる知り合い程度だったのに、私の自宅に駆けつけおかゆまで作ってくれた。熱を冷ますための冷却シートを取り換えてくれたり、薬を飲ませてくれたり、ただベッドで眠るだけの私のそばにずっと居てくれた。それがあまりにもありがたく、私は徹の前でお礼を言いながら泣いた。

「私、東さんが、好きです」

 ノーメイクの顔は涙でぐちゃぐちゃだし、ずっと横になっていたせいで髪はボサボサだし、いま思えば本当に酷い状態だったと思う。にもかかわらず私は徹に告白をした。ずっと好きだった彼に対する想いが溢れて止まらなかった。

「俺も、あなたが好きです。さん」

 あの頃の徹は私のことを『さん』と呼び、敬語で話していた。名を呼び捨てるようになったのも敬語がなくなったのも付き合い始めてしばらく経った後のことだったような気がする。

 私の気持ちは今でもあの頃と変わらない、ということを徹が知ったら、きっと気持ち悪いと思うだろう。不快に思うだろう。気味が悪いと思うだろう。また会えただけでも良しとしなさいと、神様になだめられているような気がした。

 ゆっくりと目を開ける。ぼんやりとしていた視界がだんだんとはっきりしてきて、目の前には真新しく綺麗な天井が広がっていた。ここはどこだろうと思いながら上半身を起こす。周囲には事務机がいくつか並べられており、どこかの事務所なのだろうということが分かった。私が横になっているのもパイプ椅子を並べて置いただけの簡易的な物で、バランスを崩して落ちそうになるも踏ん張って耐える。

「あ、目、覚めました?よかったぁ!」

 どこからか声が聞こえる。すると一人の男性が覗き込むようにしてこちらに顔を近付けた。『一人の男性』というより『一人の男の子』という感じかもしれない。恐らく歳は10代、高校生ぐらいだろうか。例のゲームセンターシャルルの制服を着ていた。

「いやあもうびっくりしましたよ。急に店の前でケンカ始まるし、なんか店長が人殴ってるし、店長がお姉さんを担ぎ込んでくるしで……、オレどうしたらいいか分かんなくって」

 男の子は困ったように眉を寄せながら頭をかいた。恐らくこの子はシャルルのアルバイトなのだろうと予想する。私をここに担ぎこんだという店長はきっと徹のことだ。

 自分の腕や足を見ると絆創膏が貼られていることに気が付く。立て看板をぶつけられたはずだが、体のあちこちが痛むため結局どこにぶつかったのかが分からない。しかしその痛みもそこまでではなかったので、大した怪我ではないのだろう。

 そういえば徹とケンカをしていたクレーマー男たちはどうなったのだろう。そして徹はどうしたのだろう。私のように怪我でもしていなければ良いのだが。そう考えながら立ち上がろうと床に脚をついて力を込めたその時、まるで電撃かのように強い痛みが走る。よく見ると足首のあたりに赤黒い痣のようなものが浮かび上がっていた。

 恐らくこれは捻挫だ。看板での攻撃を受けて地面に倒れ込む際に足首をおかしな方向にでも捻って負荷をかけてしまったのか。この見た目とこの痛みから察するに病院に行くべきなのかもしれない。しかし壁にかけられた時計は21時を指しており、病院などもうとっくに閉まっている時間帯だということを私に知らせていた。

 一先ずは家に帰ろうと考えた。明日病院に行くかどうかはそれから考えよう。数日中に仕上げなければならない仕事があるし、後輩に引き継がなければならない作業も残っている。明日は会社を休むわけにはいかない。

 アルバイトの子にお礼を言い、足を引きずりながらバックヤードを出る。痛みはあるものの歩けないほどではない。家に帰るまでならなんとかなるかもしれないと考えながら店内を見渡すも、どこにも徹の姿はなかった。バイトの子は私をここに担ぎ込んだのは店長だと言っていたが、介抱してくれたのも恐らく徹だろう。最後にお礼を言いたかったが仕方ない。

 店の外に出るとすっかり暗くなっていて風も冷たかった。ほんのついさっきまでは大丈夫だと思っていた脚もすぐに痛みが増し、家まで歩いて帰ることに不安を覚え始める。ここから自宅までそこまでの距離ではないため最悪タクシーでも捕まえようかと考えていると、目の前の道路にバンが停まっていることに気が付いた。運転席のドアが開いて見覚えのある人物が降りてくる。徹だった。

「乗れ」

 驚きから固まる私に対し、徹は助手席側に回り込んでドアを開けながら言う。乗れ?誰が?私が?この車に?助手席に?何を言われたのかが分からず混乱し何も返答出来ずに居ると、チッという舌打ちが聞こえた。

「おい。乗れっつってんだろ。その脚で帰るつもりか?」

 徹は私に顔を近付けながら大きな声で言う。言うことを聞かなければそれこそ担がれて車に押し込まれてしまうのではないかと思う程の迫力があった。小さく、それでいて弱々しく「ハイ」と返事をして車に乗り込む。正直な所、この痛みを抱えて自宅まで歩いて帰ることに大きな不安を覚えていたため送ってくれるのはとても助かる。しかし以前の徹からは考えられないような態度を取られると、過去の彼と現在の彼とのギャップに酷く困惑した。

 自宅マンションまでの大まかな場所を伝えると、徹はゆっくりと車を発進させる。さっさと到着して車から降りたいという気持ちと、どこかしらの渋滞にでもはまっていつまでも車から降りられなくなれば良いという気持ちがせめぎ合っていた。

 運転席の徹を横目で盗み見る。横顔は昔とまるで変わっていなかった。切れ長で鋭い目。少しとがった口先。かすかに残る髭。シャツから覗く大きな喉仏と太い首。見覚えがないのは左耳にある2つのピアスだった。きっと私と別れた後にあけたのだろう。白と黒の小さな石が付いているピアスは徹の大きく丸い耳朶に良く似合っていた。

 ふと徹がこちらに視線を向けたため必然的に目が合ってしまう。しまったと思い、私は徹の反対方向を向いて窓の外を流れる夜の異人町を見た。ひたすらの沈黙。気まずさを感じた。

「お前を怪我させた例のチンピラは絶対にとっ捕まえて焼き入れてやるから、安心しろ」

 急に喋り出した徹に驚きつつも、その内容に思わず「え?」という声がもれ、徹の顔を見る。『例のチンピラ』というのは先ほどシャルルの前で徹とやりあったあのクレーマー男たちのことに違いない。言葉から察するに、私が介抱されている最中に男たちは逃げ出してしまったのだろう。

 足を引っ張ってしまったにも関わらず私を気遣ってくれる徹に対し嬉しさを感じる。しかし『焼きを入れる』というのはつまり『仕返しをする』ということだ。私はあのクレーマー男たちにそこまで恨みを感じてはいない。そもそも私がすぐに警察に通報していればこんな事態にならずに済んだかもしれない。

「あの……、焼き入れるとか、別に良いですよ。私の怪我なんかそこまでじゃないと思うし、そもそも割って入った私が悪いんだし、これ以上いざこざは起こさない方が良いでしょうし……、だから、その……」

 私の口から出て来たのは何故か敬語だった。自分の言葉に段々と自信が持てなくなり、最後の方は無意識に声が小さくなっていく。赤信号に引っ掛かって車が止まり、前を見ていた徹がこちらに顔を向けて私の顔をジッと見た。真っすぐな目を正面から受け止めていると胸が苦しく呼吸が上手く出来なくなる。思わず顔を伏せ、太ももの上に乗せていた自分の手元を見た。

「相変わらずお人好し、ってか……。変わってねえな……」

 まるで独り言のような呟きは、気を抜いていたら聞き逃してしまいそうな程に小さいものだった。伏せていた顔を上げて徹の方を見ると、先ほどの真っすぐな目は既に私を見てはいなかった。赤信号はいつの間にか青信号に変わっており、再び走り出した車はゆっくりとスピードを上げていく。

 『相変わらず』。『変わってねえな』。徹が口にした言葉を頭の中で繰り返す。立て看板をぶつけられ地面に倒れ込んだ時、『』と私の名を呼ぶ徹の声を聞いた。朦朧とする意識の中で聞いたその声は幻聴か、思い込みか、はたまた夢だったのだろうと思っていた。

「私のこと、覚えてるの……?」

 問いに、徹は何も答えなかった。

 その後、お互いに一切口を利かぬまま車は私の自宅マンションに到着した。「ありがとうございました」と簡単に挨拶をしてドアに手をかける。

 この車を降りて家に帰ればそこで終わりだ。私があのシャルルというゲームセンターに近付かなければもう何の関係もなくなる。そもそも徹が私を覚えていても覚えていなくても、とっくの昔にふられた元恋人という立場の私は彼に近付かないほうが良いに決まっている。どうしてそのことにもっと早く気付かなかったのだろう。

 ドアを開けると外の冷たい風が体のあちこちにぶつかる。痛む脚を気遣いながら車から降りると、背後から「明日」という低い声が聞こえた。

「お前を病院に連れて行く。何時に迎えに来りゃあいい?」

 思わず呆然とした。確かにこの捻挫は軽い物とは思えないため、なるべく早めに病院に行ったほうが良いだろうと私自身も考えてはいる。しかしこうして自宅にまで送り届けて貰っただけで十分すぎるほどだった。

「いや、病院なら一人で行けますから大丈夫ですよ。それに明日は仕事が……」

「仕事の前に行きゃいいだろうが。神内駅近くの病院なら朝の8時半からやってる。朝イチに行きゃあそこまで支障ねえだろ。殴られて気い失ってたんだから脚以外もちゃんと見てもらえ」

 私の言葉を遮るように徹が言葉を重ね、口を挟む隙もなく立て続けに言う。ああこれはいくら『NO』と言っても聞き入れてもらえないやつなのではないだろうかと感じた。

「明日、8時に迎えに来る。……ちゃんと用意しとけよ」

 徹は運転席側から身を乗り出してこちらに腕を伸ばすと、車内から無理矢理にドアを閉めた。車はそのまま走り出し夜の街へと消えていく。捻挫をした足首が脈を打つように痛み、次第に強くなる。私はただ何も考えられぬままにその場に立ち尽くすことしか出来なかった。