許してよ馬鹿 - 4
翌朝、徹は本当に朝の8時に私を迎えに来た。昨夜と全く同じ場所に車を停め、昨夜と全く同じように「乗れ」と私に指示をする。そっけない態度に、おはようございますの挨拶ぐらいしてくれても良いのにと感じてしまった。
医師の診断は予想通り捻挫で、全治一週間程度とのことだった。念のためその他の傷も診てもらったが軽い打撲であったため放っておいても自然に治ると言われ、処方された薬は痛み止めと張り薬という捻挫を治すための物だった。足首にぐるぐると包帯を巻かれ固定されたため少しは歩きやすくなったような気がしたが、痛みはそこまで変わらなかった。
病院を出ると駐車場で徹が私の戻りを待っており、停めたバンに寄りかかって煙草をふかしていた。私が眉間に皺を寄せて睨むようにジッと見つめると、視線に気付いた徹はチッと小さく舌打ちをして吸っていた煙草を携帯灰皿に押し込んだ。
とりあえず今日のところは病院から会社まで徹の車で送ってもらうことにした。向かうまでの車内で医師から下された診断についてを徹に話した。捻挫は軽いものであったということ。捻挫以外の傷は大したことがなく放っておいても自然治癒するということ。そして私が負った傷は大体が一週間程度で治るものがほとんどだということなどを話した。
徹は相槌すらもうたずにただ黙って私の話を聞いていた。いや、ちゃんと聞いていたかどうかも分からない。自分の店で怪我をした客を病院に送り届けたのだから診断結果なんてどうでも良いと思われているのかもしれない。
私が働く会社の建物が見えて来て、車は路肩に停めてもらった。感謝の言葉もそこそこに車を降りようとした時、徹が「おい」と声を上げた。急に耳に飛び込んできた低い声に驚いた私はすぐに徹の方向へと振り返る。
「帰りは?何時になる?」
『何時になる?』というのはつまり、私の仕事が何時に終わるかという意味なのだろう。何故それを徹に聞かれるのかが理解出来なかった。
「えっと、今日は……、20時くらいには終わる……かな?スムーズにいけば、ですけど」
疑問に思いつつも一応は問いに答える。『スムーズにいけば』とは言ったが、病院に寄ったせいで始業が遅れたため今日の仕事はスムーズに行く気がしなかった。むしろ20時に終わるなら御の字ぐらいの気持ちだ。徹はいつも通りの眉間に皺を寄せた不機嫌そうな顔でこちらを見ると、ハァと小さく溜息をついてからポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。
「迎えに来る。遅くなるようならここに連絡入れろ」
徹は紙切れのような物をこちらに差し出し、私はそれを反射的に受け取った。電話番号らしき数字が殴り書きしてある。
病院に連れて行ってもらい、こうして会社に送り届けてくれただけでもありがたいのに、さらに帰りにも迎えに来ると言われて混乱した。そもそも徹はあのシャルルとかいうゲームセンターの店長のはずだ。私の送迎係をするほど暇でもないだろう。
「でも、もうこれ以上は大丈夫ですから。帰りは一人でも……」
「迎えに来るっつってんだろ。いいから降りろ。早く行かねえとまずいんじゃねえのか?」
スマホで時刻を確認する。事前に連絡していた出勤可能な時刻はとっくに過ぎていた。「やば!」と独り言をこぼしながら車のドアを勢いよく開けて降りる。早く行かなければまずいとは思うが、いまここで走りでもしたら症状は確実に悪化するだろう。捻挫した脚を気遣いながら地に足をつけゆっくりと歩き出す。
「じゃあな。脚、気を付けろよ」
背後から声が聞こえた。私が振り返ったのと同時に車は大きなエンジン音を響かせ走り去っていく。排気ガスの残り香が鼻をかすめ、不快感を覚えながら小さく咳をした。
会社に向かってゆっくりと歩を進めながら、先ほど徹から受け取った紙切れを見る。ここに書かれている電話番号は徹の物だ。私には分かる。何故なら6年前と同じ番号で、私がいま持っているスマホにも全く同じ番号が登録されているからだ。徹と別れてから機種変更こそ何度もしたものの、徹が使っていた番号だけは消せずにいた。今でも同じ番号を使っているなんてと驚きつつも、どこか彼らしさを感じて笑ってしまう。
殴り書きされたただの数字の羅列をあまりにも愛おしく思う。私は貰った紙切れを丁寧に畳み、上着のポケットに仕舞い込んだ。
神室町でキャバ嬢という夜の職を経た私が、今は転職し昼の職で生きている。そのことを自分でも不思議に感じることがあった。神室町での仕事も楽しかったが、今は今で充実している。仕事は大変だが、とてもやりがいがあって好きだった。
しかし、それはそれ、これはこれ。数日中に仕上げなければならない仕事も、後輩に引き継がなければならない作業も何もかもがスムーズに行かず、悲しくも徹に伝えていた20時になっても仕事が終わる気配はなかった。とりあえずきりの良い所で休憩室へ逃げ込み電話をかける。繋がらなかったらどうしようという良く分からない不安を覚えつつも、徹は3コールほどで電話に出てくれた。
「あの、ちょっと仕事が終わらなくて、その、やっぱり今日の迎えは……」
来なくても大丈夫ですという言葉を続けようとした時、電話の向こう側からチッという舌打ちが聞こえ、そのすぐ後に盛大な溜息が聞こえた。怒っているのか機嫌が悪いのか、そのどちらかを感じた私は思わず黙り込んでしまう。
「意地でも21時には終わらせろ。今朝と同じ場所で待ってる」
私の返答を待たぬまま電話はそのまま切れた。思わず「嘘でしょ」と独り言を呟いてしまい、自分の口元をおさえた。周囲を見渡してみたものの誰も居らず、おかしな独り言を他人に聞かれていなかったということに安堵しホッと小さく息を吐いた。
とりあえず仕事が片付こうと片付かなかろうと21時には切り上げなければならない、と死に物狂いで作業を進めた。もし約束の時間に1分1秒でも遅れようものなら徹が会社に乗り込んできそうな気がしていたからだ。
なんとか仕事を終わらせて21時までに職場を出ると、今朝と全く同じ場所にバンが停まっていた。脚を気遣いながらゆっくりと近付くと陰から徹が顔を出し「お疲れ」と挨拶をしてきた。先ほど電話をした時はまるで私を脅しているかのような態度だったのに、今度はまるで友人かのような対応をされて変な気分になる。
車に乗り込みシートベルトをつけると車が発進し、緩やかにスピードを上げた。静かな車内にエンジン音だけが響く。気まずさを感じつつも何と声を掛ければ良いのか、どんな会話をすれば良いのかが私には分からなかった。
「いつもこんなに遅えのか?こんな時間に一人で帰るなんて危ねえだろ」
徹の方から私に話を振ってくる。当たり障りのない世間話的な内容にがっかりした気持ちになってしまった。何故そんな気持ちになるのかは自分でも分からなかった。
「別に……、大丈夫ですよ。遅い時間でも賑やかな街ですし」
徹の問いに同じく当たり障りのない返答をする。そういえば私はいつまで徹に敬語で話し続けているのだろう。6年前のあの頃のように気さくに話したいと思うも、徹に拒否されてしまうのではないかという恐怖があった。
すぐ前の信号が黄色に変わり、徹はブレーキを踏んで車を停めた。横断歩道側の信号が青色に変わって人々が行き交う。ふと気が付くと徹が私の方をジッと見つめていた。
「賑やかな街だからこそだろうが。お前は危機感がなさすぎなんだよ、昔から」
フン、と鼻を鳴らして言った徹の顔があまりにも懐かしく見えた。目を細めた表情も、低く優しい声も、全てが6年前に戻ったかのようだった。
「……徹」
思わず名を呼ぶ。徹は表情を一変させ丸い目で私を見た。いつの間にか信号は青に変わっており、いつまでも走り出さない私たちの車に後続車がクラクションを鳴らす。徹は慌てた様子で前に向き直り、ゆっくりと車を発進させた。再び沈黙が訪れる。
「その呼び方は、……やめろ」
徹はそれだけを言うと、二度とこちらを見ることはなかった。目の奥が熱くなり下口唇を噛む。徹とは反対の方向に顔を向け、窓の外を流れる夜の異人町を眺める。ぼやけて見えるネオンの光が憎たらしいほどに綺麗だった。
そのままお互いに何も言わず、マンションに到着すると「ありがとうございました」「ああ」という軽いやり取りを交わし車を降りる。ドアを閉めようとした時に運転席の徹と目が合った。
「明日も、同じ時間に迎えに来る」
徹の言葉に私は小さく頷いた。ドアを閉めると、車は排気ガスの吐き出しながらゆっくりと走り去っていった。夜の街に消えゆくその姿を見送りながら徹のことを考える。
彼はいまどんな気持ちでいるのだろう。6年前にふった元恋人とはいえ、怪我をさせてしまったという責任から仕方なく送迎しているというこの状況を一体どんな風に感じているのだろう。『その呼び方はやめろ』という言葉から察するに徹は昔のことを思い出したくはないのかもしれない。私と付き合っていた頃のことはなかったことにしたいのかもしれない。
明日は迎えに来なくていい。会社にも来なくていい。私は一人でも大丈夫。伝えなければならないと思っていたことは何一つ口に出来なかった。私はもう少しだけ徹と同じ空気を吸っていたかった。徹に会いたかった。徹と一緒に居たかった。明日も徹に会えると思えたら、何もかもが頑張れる気がした。
タイムリミットは私の脚が治るまでの一週間だ。その程度の短い期間なのであれば神様も許してくれるだろう。早く明日が来て欲しいという気持ちと、このまま夜が明けないでいて欲しいという気持ちとが混ざり合う。手を伸ばせば触れられそうなくらいにすぐそばにあった徹の横顔を思い出すと、どうしてか涙が出そうになった。